「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第12回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(3)
十二支縁起について調べる過程で知ったことをいくつか書いておきます。出所は主に浅野孝雄著『ブッダの世界観』です。浅野氏は脳外科医で仏教に詳しい方です。
●参考になる事柄
十二支縁起を考える時にとても参考になると思ったものは次の通りです。
①十二支縁起と現代の脳科学は重なり合う
・釈迦が説いた十二支縁起は現代の脳科学(意識理論)と共通するものがあります。
・脳の神経細胞から電気信号が出て脳内を駆け巡り、互いに影響し合って、脳全体を巻き込む大きな流れを生じさせます。この一連の動きが十二支縁起の各「支」の内容と似ているのです。
・特に十二支縁起における「触」というプロセスは、カリフォルニア大学のウォルター・J・フリーマン氏が提唱した、意識の形成メカニズムに関する理論の「行動―知覚サイクル」における知覚ループの働きとぴったり一致するのだそうです。
②実体としての存在、変化体としての存在
・本シリーズの「第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)」 で述べたように、釈迦の人間の捉え方は、人間は五蘊(色、受、想、行、識)で出来ているというものでした。
・これは、人間は「実体として固定的にあるもの」(専門用語は「実体の存在論」)ではなく、感じたものが次々と蓄積され影響し合って気づきが出来、行動していくものだという捉え方です。「変化体としての存在」(専門用語は「プロセスの存在論」)と言えるでしょう。
・実は現代の宇宙科学でも「変化体としての存在」が言われているようです。宇宙に関する本で読んだことがあるのですが、宇宙はビッグバンがあって以降、何億光年もの長い間、変化し続けているとのことです。
・釈迦は人間の心について洞察を続け、現代の宇宙科学の知識に通じる真理を感じ取ったのだろうと思います。
③「無明」は無知ではなく混沌
・十二支縁起の「無明→行」の二支に関して、イギリスの仏教学者リチャード・ゴンブリッジの新解釈を、浅野孝雄氏が納得できるものと推奨しています。新解釈の内容は次の通りです。
・「無明」のサンスクリット語の「アヴィドュヤー」という言葉は、「無知」という意味と共に「非存在、非有」という意味があります。「非有」とは全くの非存在・虚無ではなく、万物発生以前の秩序なき状態の「混沌、カオス(ギリシャ語)」のことで、「混沌、カオス」は万物を生み出すものです。
・「無明」が「非有」つまり「カオス」ならば、「無明→行」の二支は「カオスからの秩序の生成」と言えます。
④循環生成
・本シリーズの「第8回:仏教の『死の捉え方』」で紹介しましたように、浅野孝雄氏は十二支縁起を直線的なものとして捉えるのではなく、円環的なものとして捉えるべきだと述べています。
・直線的なものだと十二番目の支の「老死」で終わってしまい、「老死」が次なるものに繋がっていかないからです。
・十二支縁起を円環的なものと捉えれば、「老死」で(無くなったもの)が一番目の支の「無明」(混沌)に結びつき、やがて(新たなもの)として生じてくると考えられます。
・釈迦が誕生する以前から、インドをはじめアジアの農耕採取社会では自然の恵みが毎年巡ってくるという循環生成の考えが広まっていました。釈迦はその考えがとても良いものだと判断して、仏教の中に取り入れたのだと浅野孝雄氏は述べています。
・なお、たまたま別件で私が読んでいた本にも循環生成の話が書いてありました。梅原猛著『森の思想が人類を救う』です。循環生成の考えが日本にも昔から人々に持たれていて、多神教であり、自然や他の人々や生きものなどと共に生きて行こうとしていたことや、今後の世界にこの思想が役立つと書いてありました。浅野孝雄氏の主張と共通していました。
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