仏教の一端を学び、考える

2026年3月13日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第22回:人の一生は「生長躍老伝死」?

●「生老病死」は四苦のことだが

 「生老病死」は四苦八苦の四苦のことと言われています。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、の四つの苦しみです。

 そうとは分かっていても、私は「生老病死」という言葉を見たり聞いたりすると、人間の一生を表しているように思えてしまうのです。言葉の最初に「生」があり、最後に「死」があるからでしょうか、「生まれて、老いて、病んで、死んでいく」と受け取れるのです。

●釈迦の四門出遊のエピソード

 「生老病死」から生を取った「老病死」というと、釈迦の四門出遊のエピソードが有名です。

 釈迦が若い頃、王城の東西南北の門を出たところで、東では老人を見、南では病人を見、西では死人を見、北では出家者を見て、出家することを決意したという話です。ここからも、人は老いて、病んで、死んでいく、という状況が伝わってきます。

 仏教は、「この世を苦しみの世と捉え、どうしたらそこから脱却できるか」を問うた宗教であるため止むを得ないのかも知れませんが、どうも全般的に暗く感じられます。

●人生は「生老病死」(苦しみばかり)ではないのでは?

 本当に人生は苦しみばっかりなのでしょうか。生きていること自体に喜びを感じることも本来あるのではないでしょうか。そうでなければ、生まれてくるのが嫌われて、自然に人間は生まれて来なくなると思うのです。

 仏教でも、人間を構成している五蘊(ごうん。色、受、想、行、識の5つ)の受について次のように概略述べています。

「受は全ての経験に対するわれわれの『感じ方』だけではなくて、将来の経験の仕方をも条件づけます。つまり、『快』の経験は、その持続や再現の欲求を生じさせ、『苦・不快』の経験は、それを終わらせ、再現を阻止しようとする欲求を生じさせます。」

●「人生」や「生命」を肯定し勇気づける考えの必要性

 仏教では一般的に生老病死の「生」すなわち「誕生」も苦しみの1つだと説明しますが、これはおかしいのではないかと思います。ほとんどの場合、赤ちゃんが産まれたら嬉しいです。誕生祝という言葉すらあります。そして赤ちゃんの誕生は一家の繁栄にも種の保存にも良いことです。

 また、2~3歳の子供がお母さんと手を繋いで嬉しそうに歩いている姿を見ると微笑ましくなります。年頃の恋人同士は男女とも顔が活き活きして美しく見えます。人間以外にも、桜は咲いて奇麗ですし、鳥も良い声で鳴きます。それらを見聞きすると私は生命の喜びを感じるのです。

「人生」や「生命」を肯定し勇気づける考えがあって良い、必要だと思います。

●「老」をどう考えるか

 「老」は「老(お)いる、老(ふ)ける」など年を取ることを意味する言葉ですが、その他に「長い経験を積んだ、練れた」という意味があります。中国にあるお酒「老酒(ラオチュウ)」は、蒸留酒「黄酒(ホワンチュウ)」を3年以上も甕で熟成したもので、熟成期間が長いほど味わい深いものですが、「老酒」の「老」は「練れてとても良い」の意味でしょう。

 何が言いたいかと申しますと、「老」を嫌がらず、「老」の価値を認め、その良さを発揮するのが大切なのではないか、ということです。老人は自らを「老いさらばえた、後はお迎えを待つだけの身」と考えずに、何らかの貢献を周囲にしていこうとすることが、本人のためにも周囲のためにも良いことだと思います。

●人生を要約するなら「生長躍老伝死」では?

 以上のことから、私は人生を一言の言葉に要約するなら「生長躍老伝死」ではないかと考えます。

 生は誕、長は成、躍は活、老は練、伝は達、死は亡で、それぞれ一文字を取って繋ぎ合わせました。成長には身体的成長、学問的成長、人間的成長が含まれます。老練にはノウハウの把握と深掘りがあり、伝達にはそれらを周囲および次世代へ伝達する意味を込めています。

 このように考えることによって、人生はどの世代にとっても価値あるもの、活き活き生きて行けるものになるように思うのです。

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2026年3月 6日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第21回:なぜ他の生き物を食べないと生きていけないのか(2)

●目が留まった、漢方薬説明の言葉

 むらさきクラブというところが月1回発行している『主治医』という小冊子があります。裏表紙の広告や、冊子の中の記事に登場する人物などから推測するに、おそらくこの冊子は漢方薬製造販売の「株式会社 和漢薬研究所」が主導して作っているものでしょう。

 その『主治医』の2025年1月号に、対談相手のゲストの秋川雅史さんに漢方薬「松寿仙」を説明している言葉が載っていました。ハッと目が留まったので、ちょっと長い引用になりますが以下に転載します。

「(自然薬の松寿仙の)中に入っているのは、赤松葉、クマザサ葉、朝鮮人参で、どれも自然の原料です。松寿仙は、これらの原料の単一成分を抽出して作られたものではなくて、これらの天然自然の原料の成分まるごと、つまり自然の命まるごとで構成されているんです。生命の調和を保つのは自然の中にある「生命」である、という考えから創薬されたものなんです」

 私は「生命の調和を保つのは自然の中にある『生命』である」という言葉に強く惹かれました。命は命でしか賄(まかな)えないのではないか、と思ったのです。

●捕食、食物連鎖は命の変換では?

 人を始め、生き物が他の動植物を捕食すること、そして食物連鎖していくことは、命の変換ではないでしょうか。自然の根本の成り立ち、ルールのような気がします。

 さらに人などが食材、命を食べてエネルギーにしている実態を考えれば、捕食・食物連鎖は命の変換だけでなくエネルギーの変換・伝達のように思います。これは考えが飛躍し過ぎでしょうか。私は飛躍しているとは思えないのです。

●人は死ねば土に還る、星になる

 「人は死ねば土に還る」と昔から言われています。また、もう少しロマンチックに「人は死ねば星になる」と言われてきました。人が土葬されれば、遺骸はバクテリアによって分解され、微生物や小動物の食べるところとなるでしょう。人が火葬されれば水分や気体その他の分子となって大気中に拡散され、動植物などに吸収されるでしょう。 命は次々と巡り巡っていくのだと思います。大きく言えば、この地球上に、あるいはこの宇宙の中で命を構成している分子やエネルギーなどが変化していくのだと思います。

 この考えは、当ブログの「第12回 釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(3)」でも述べた、「変化体としての存在」(専門用語は「プロセスの存在論」)として人や物を捉えようとするものです。私には現時点、この考えが納得できるのです。

●不殺生戒との落着点

 他の生き物を食べることと不殺生戒の関係をどう位置付けるべきか、私はこう考えます。

 人を始め全ての動植物は生きるために他の動植物を食べるように出来ています。栄養やエネルギーを得るために他の生き物の命をたべます。それが「変化体としての存在」の在り方なのでしょう。生まれてきて、やがて死ぬのが自然の理のように、生きている間は他の動植物の命を食べてエネルギーにし、活動していかなければならない理なのでしょう。これは素直に受け入れたら良いと考えます。

 仏教でいう五戒の中には不殺生戒の他に不飲酒戒(ふおんじゅかい)や不邪淫戒というものがありますが、これらの戒は、絶対に酒を飲んではいけないとか、性行為をしてはいけないという意味ではありません。酒を飲んで正気を失ってはいけない、家庭生活を乱すような性行為をしてはいけないという意味だと言われています。

 つまり不殺生戒も、人が生存するために必要な食材の分以上の命を奪ってはいけないという意味ではないかと私は思います。

 そして今回の内容を大きくまとめますと、人も、人が他の動植物の命を食べるのも、万物変化、循環生成の一環と思えるのです。

 

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2026年2月27日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第20回:なぜ他の生き物を食べないと生きていけないのか(1)

●人は他の生き物の命を奪って生きている

 人は肉や魚や野菜を食べて生きています。食べないと死にます。どうして他の生き物の命を奪って食べないと生きていけないのでしょうか。

「殺すなかれ」と不殺生戒を説く仏教は、このことをどう捉えているのか調べてみました。

●精進料理に対する疑問

 日本では肉や魚を食材として使わない精進料理というものがあります。肉や魚は生き物であり、それを食べることは生き物を殺すことだからと言って、不殺生戒を守る僧や精進潔斎する在家の人が精進料理を食べます。

 私は「野菜だって命があるはずなのに、どうして野菜は食べて良いのか?」と疑問を感じていました。今回少し調べてみたら、すぐに答えが見つかりました。

 曹洞宗のWEBサイト『SOTOZEN NET』によれば、釈迦は肉も魚も野菜も食べて良いと言っていたそうです。僧は修行していて食事は布施されるものを食べるのですが、肉や魚は高価なためあまり布施がなされず食べる機会が少なかったのです。そこに中国の菜食主義の考えが重なって、肉魚を食べない精進料理が出来上がってきたとのことです。

 精進料理に対する疑問は解けましたが、逆に釈迦が肉も魚も野菜も食べて良いと言っていたなら、それは幅広く殺生を認めていたことになるではないかと、当初の疑問「『殺すなかれ』の教えとの矛盾」がさらに大きくなりました。

●仏教の食事の前の祈り

 浄土真宗では食事の前に次の祈りの言葉を唱えます。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。」
「深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」

 また、曹洞宗では「五観の偈(ごかんのげ)」という食前の祈りの言葉があります。原文は難しいとのことで現代語に訳した言葉は次のものです。

「食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう。 

 この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう。

 むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう。

 欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう。

 皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう。」 

                              WEBサイト『SOTOZEN NET』より

 浄土真宗の祈りには「多くのいのち」、曹洞宗の祈りには「食材の命の尊さ」という言葉が冒頭に入っていて、最後の言葉は「ありがたくいただきます(ましょう)」なので、どちらも他の生き物の命を頂くことに深い感謝の気持ちを抱いていることが分かります。

 しかし、どちらも不殺生戒との関係については説明していません。曹洞宗の『五観の偈』は食材の命の尊さを無駄にしないように、正しい行いや仏道修行をしていこうと述べていますが、どうもこれは私には直ぐに頷けません。立派な心構えであることは分かるのですが、無理やり理屈をつけて納得しよう、としているように感じられます。

 人が他の動植物の命を奪って食べるのは、立派な心構えのためではなく、自然の成り立ち(宇宙の摂理)でそうなっているのではないか、と直感的に思うのです。何かを、すなわち他の動植物を、食べないと生きられないということ、そして二重にも三重にも次々と食べていく食物連鎖という仕組みになっていることを考えると、そう思えてしまうのです。

                                       【(2)に続く】

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2026年2月16日 (月)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第19回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(4)

●結論的に言えること

 小林武彦氏の本『生物はなぜ死ぬのか』から結論的に言えることは、

①生き物は進化が作った。

②死も進化が作った生物の仕組みの一部。

③遺伝子の変化が多様性(変わりゆく環境下で生きられる個体や種)を生み出し、その多様性があるからこそ、死や絶滅によって生物は進化してこられた。

④つまり、生命の連続性を維持するために生物は死ぬ。

ということでしょう。

 この内容に私はとても納得しました。生物学からそういうことが言えるのか、と驚きでした。そして、この結論内容を踏まえた場合、「死」や死に至る過程の「老」や「病」を自分としてはどう位置付けるべきなのか、考えさせられました。「死」も「老」も「病」も恐れるべきものではなく、受け入れるべきものと思えます。少なくとも次の世代を育てた後では。

●仏教との関連で思ったこと

 本『生物はなぜ死ぬのか』から転載した文章を見ていて仏教の考えと関連するなと思ったことが3つあります。

 一つ目は、「生物は、激しく変化する環境の中で存在し続けられる『もの』として、誕生し進化してきた」についてです。

 仏教の「諸行無常、人生皆苦」を「万物は変化していく。変化していくから(意のごとくならないから)追随していくのが大変」と解釈する立場から言えば、この生物学の考えと相通じるものがあります。

 なお、「苦」の原語のサンスクリット語は「ダッカ」であり、「意の如くならないもの」という意味です。

 二つ目は「生き物にとって死とは、進化、つまり『変化』と『選択』を実現するためにある。『死ぬ』ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができた」についてです。   

 この文章は仏教でいう「生死一如(しょうじいちにょ)」を思い出させます。生と死は一体であること、不可分であることです。

 三つめは「地球全体で見れば、全ての生物は、ターンオーバー(生まれ変わり)し、生と死が繰り返されて進化し続けている」についてです。

 脳科学者の浅野孝雄氏は仏教の十二支縁起を円環的に捉えるなかで、次のように概略説明していました。「釈迦が誕生する以前から、インドをはじめアジアの農耕採取社会では自然の恵みが毎年巡ってくるという循環生成の考えが広まっていた。釈迦はその考えがとても良いものだと判断して、十二支縁起の中に取り入れたのだ」。

●死と生物学

 死について生物学の観点から考えてみると、非常に教えられることが多いと思いました。人としての生き方も考えさせられました。

 思えば、仏教を学びだしてから、僅かですが脳科学の本を読み、宇宙の本を読み、今度は生物学からのアプローチとなりました。仏教を知ろうとすることは、真実を知ろうとすることであり、多方面からの考察が必要になるようです。逆に言えば、それだけ釈迦は多方面から深く真理を覚ったということでしょう。

 

 

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2026年2月13日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第18回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(3)

●生物学からのアプローチ

「人は成長・発展するために死ぬのかもしれない」と思うようになっていたとき、本『生物はなぜ死ぬのか』に出会いました。著者は生物学者の小林武彦氏です。

 これは参考になりそうだと早速読んでみました。結果、私の問題意識に関係することで重要と思った文章は次の通りです。理解を深めるために多くの文章を転載させて頂きます。

 なお、原文は「デス」調ですが、簡潔表記するために「デアル」調に変え、一部の文章の末尾は意味を違えない範囲で変更しています。

●本『生物はなぜ死ぬのか』からの抜粋

「地球に存在する生き物は全て、進化の結果できたもの」

「『死』という究極の問いを考えていくことで、いま私たちが生きている意味も、喜びや悲しみの根源も、そして自然との関わり合いの大切さも見えてくるはず」

「生命のことを知るためには、宇宙誕生の歴史を切り離して考えることはできない」

「『生物はなぜ死ぬのか』を考える上で、生き物を『進化が作ったもの』と捉えることがまず大切」

「『死』も進化が作った生物の仕組みの一部」

「生きものの死に方には大きく分けて2つある。一つは『アクシデント』による死。(中略)。もう一つの死に方は『寿命』によるもの」

「『進化が生き物を作った』とするならば、寿命にも生命の連続性を支える重要な意味があるはず」

「『寿命』という死に方(死因)は科学的に定義されているわけではない。(中略)。生理現象としてあるのは、組織や器官の働きが時間とともに低下する『老化』で、その最終的な症状(結果)として、寿命という死(老衰死)があると考えればいい」

「細胞が分裂を繰り返すとゲノム(遺伝情報)に変異が蓄積し、がん化リスクが上がる。これを避けるため、免疫機構や老化(*)の仕組みを獲得して、細胞の入れ替えが可能になった。これで若いときのがん化はかなり抑えられるが、それでも55歳くらいが限界で、その年齢くらいからゲノムの傷の蓄積量が限界値を越え始める」

*ここでの「老化」の意味は「細胞老化」のことで、無制限に細胞が分裂するのを防ぐこと。分裂活動を不活発化させることで、活性酸素や変異の蓄積により細胞が異常にならないようにし、免疫機構で老化細胞を排除して、新しい細胞に入れ替える(・・・鏡の解釈)。

「幹細胞に蓄積した傷は、徐々に細胞の機能を低下させ、新しい細胞を供給する能力が低下し、老化した細胞を元気のいい細胞と入れ替えることができなくなってくる。これは取りも直さず組織の機能を低下させ、やがてヒトを死へと導く」

「遺伝子の変化が多様性を生み出し、その多様性があるからこそ、死や絶滅によって生物は進化してこられた」

「生き物が死ななければいけないのは、主に2つの理由が考えられる。その一つは、(中略)食料や生活空間などの不足である。もう一つの理由は、(中略)『多様性』のためである」

「生物は、激しく変化する環境の中で存在し続けられる『もの』として、誕生し進化してきた」

「その生き残りの仕組みは、(中略)具体的には遺伝情報(ゲノム)が激しく変化し、多様な『試作品』を作る戦略である。変わりゆく環境下で生きられる個体や種が必ずいて、それらのおかげで『生命の連続性』が途絶えることなく繋がってきたのである」

「生き物にとって死とは、進化、つまり『変化』と『選択』を実現するためにある。『死ぬ』ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができた」

「死は生命の連続性を維持する原動力」

「地球全体で見れば、全ての生物は、ターンオーバー(生まれ変わり)し、生と死が繰り返されて進化し続けている。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならない」

「ヒトのような、子供を産みっぱなしにできない生き物の親は、(中略)子孫が独り立ちできるようになるまでは、しっかり世話をする必要がある」

「ヒトの場合、長生き願望は死に対する恐怖という側面もあるが、その恐怖の根源には、しっかりと次世代を育てなければならない、という生物学的な理由がある」

「死の恐怖から逃れる方法はない。死の恐怖は、ヒトが『共感力』を身につけ、集団を大切にし、他者との繋がりにより生き残ってきた証なのである」

「『死』の恐怖は、『共感』で繋がり、常に幸福感を与えてくれたヒトとの絆を喪失する恐怖なのである」

以上、多くの文章を列挙させて頂きました。これらから私なりに考えてみました。 (以下、次回)

260209
小林武彦著『生物はなぜ死ぬのか』

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2026年2月11日 (水)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第17回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(2)

●死を考えることへの疑問
 人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか、と考えていて、「もしかして人は成長・発展するために死ぬのではないか?」と思うようになったのですが、あまりに突飛な着想であり、自信が持てません。

 私は疑問でいっぱいでした。そもそも、こんなことを考える必要があるのかも疑問になってきました。何も考えず、何も迷うことなく死んでいく人も多いはずです。なぜ死ぬのかなど考えない方が良いのではと思うようにもなります。

 しかし、自分の年齢が高くなってきて、同年配の友人・知人がポツリまたポツリと亡くなっていくと、人はなぜ死ぬのかとまた考えてしまいます。

●「我が意を得たり」の科学記事

 そんなことを思っていたとき、「我が意を得たり」の科学記事に出会いました。それは「『自分を食べる』宇宙船を開発」というものです。ロイターさんの記事ですが、重要なところを転載すると次の斜め文字部分の通りです。

「自分自身を食べる」宇宙船を、英国の宇宙スタートアップ企業開発中だ。開発者によれば、燃料タンクそのものを消費することで、限られた予算の科学者でも深宇宙や、特殊な軌道へ到達できるようになる可能性があるという。

  この宇宙船は「自分自身を食べる」――。開発者によれば、燃料タンクそのものを消費することで、低予算でも深宇宙や、特殊な軌道へ到達できるようになる可能性があるという。

 「この長く黒い部分が推進システムだ。ここが我々の宇宙船で最も興味深い、自己消費する部分である」 メリディアン・スペース・コマンド創設者のサム・リチャーズ氏は、燃料タンクはポリマー製で、過酸化水素が充填されていると説明する。

  メリディアン・スペース・コマンド創設者のサム・リチャーズ氏 「タンクの内側にはねじ山が切られている。底部のエンジンヘッドにはスクリューがあり、モーターで回転する。モーターに電力を供給するとスクリューが回転し、エンジン内部へと進んでいく」 圧力が高まることで過酸化水素が過熱プロセスを経て供給され、ナイロン製のタンクが燃焼し、推力が生み出される。つまりこのエンジンは、燃焼の過程で自らの構造そのものを消費する仕組み。質量が減少することで、宇宙船はより多くの物を運んだり、より多くのエネルギーを確保できるという。

*記事のURL⇒ https://news.yahoo.co.jp/articles/55f5dd373c3589a61824e7aff4872298a0bd7705

●死は成長するためにある?

「『自分を食べる』宇宙船を開発」という記事を読んで思いました。やはり、人は死んで、次の世代にバトンタッチすることによって発展していくのかもしれないと。

私はだんだん高齢になってきて、画面が小さくて機能が複雑なスマホが十分に使えず困っています。テレビのコマーシャルは画面変化が速すぎて何を宣伝しているのか分かりません。歌番組の歌詞は早口で聴き取れません。新しい時代に付いていけていないと感じます。新しい時代は新しい世代、若い人達に生きて行ってもらう必要があるように思います。

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2026年2月 6日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第16回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(1)

●奈良の観光巡りから行きついた先
 私は観光気分で奈良の寺巡りを始めました。そして寺に関係して必死に生きた人たちに出会い、その人たちを動かしていたものが仏教と気付きました。そのため、仏教というものがどんなことを言っているのか知りたいと思うようになりました。

 人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか、と考えるようになりました。どうせ死ぬのなら、なぜ生まれて来るのでしょうか。なぜ皆が老衰で死亡せず、多くの人が病気になりって死んでいくのでしょうか。老人は幸せになれないのでしょうか。

●仏教で見つけた2つの答え
 上記の疑問への答えとして、仏教は次のようなことを述べているのを知りました。

 1つは十二支縁起と四諦(したい)の一般的な説明から出てきたものです。その内容は、この世はひたすら苦しみであり、苦しみを生み出す原因は煩悩であり、煩悩のせいで様々な良からぬ状態が連鎖的に起こり、最後には堪えがたい「老死」に至る、というものです。

 もう1つは施身聞偈(せしんもんげ)の解釈から得たものです。施身聞偈の偈文は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」であり、その意味は、「全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則なのです。そのことを悟り、欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるのです」というものです。

 ある意味、相反する答えが述べられています。一方は「堪えがたい老死に至る」というものであり、もう一方では「変化・消滅が世の法則なのだから、そのことを知り、納得し、受け入れた時、心は安らかになる」というものです。

●私は心情的に「施身聞偈の考え」派
 「老死」に対する十二支縁起と四諦による考えも、煩悩を消せば救われると教えています。しかし「老死」が苦しみの最たるものと捉えていることが、私には受け入れ難いのです。

 以前に私は、鮭が産まれた川を上流へと遡っていって産卵し、産卵を終えると死んでしまうという映像を見た記憶があります。そのためのような気がしますが、死は次の世代を産むためにあるのではないか、死は命のバトンタッチという価値あることをしているのではないか、と思うようになりました。

 施身聞偈の考えは、何もかもが変化・生滅していくことを受け入れなさい、というものです。変化・生滅という世の理(ことわり)を知り、言い換えれば宇宙の摂理というものをあるがままに認識して受け入れ、生きていきなさいという教えです。

 私は心情的に「施身聞偈の考え」の方が良いように思いました。「老死」を「苦」と捉える度合いを少なくし、「当然にあるもの」「抗(あらが)えないもの、抗う必要のないもの」という捉え方をしているためです。

 そして、そこから発展して、「もしかして人は成長・発展するために死ぬのではないか?」と思うようになりました。

 

 

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2026年1月 3日 (土)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第15回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(3)

●この本の説明で「理解できない事柄」
 前回は「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本『ブッダが説いたこと』が、著者の論述姿勢と訳者の翻訳姿勢によって「分かりづらく」なっていることを述べました。今回はこの本の説明で「理解できない事柄」について述べます。

●四聖諦(ししょうたい))のまとめが理解できない
 
著者によれば、「仏教の真髄は、ブッダが(中略)行った最初の説法(初転法輪)で説いた四つの真理(四聖諦)であ()」、「四つの真理とは、(1)ドゥッカの本質(2)ドゥッカの生起(3)ドゥッカの消滅(4)ドゥッカの消滅に至る道である」。

 そして「まとめ」として、四聖諦に関連して、われわれがなすべきことを著者は書いていますが、四聖諦の説明部分を抜き書きしてみると次の通りです。

「第一聖諦はドゥッカの本質で、人生の本質は苦しみ、悲しみ、楽しみ、不完全さ、不本意さ、無常さである、ということである」

「第二聖諦はドゥッカの生起である。すなわちもろもろの欲情、汚れ、不純さを伴った渇望、欲望の生起である」

「第三聖諦はドゥッカの消滅、すなわちニルヴァーナ、絶対真理、究極実存である」

「第四聖諦はドゥッカの消滅に至る道、すなわちニルヴァーナの実現に至る道である」

この説明では何が何だか私には全く分かりませんでした。例えば、ドゥッカとはどういうことなのでしょうか。苦しみがあったり、それと真逆な楽しみがあったりして、ドゥッカの本質というものが的確に説明されていません。

ドゥッカの生起についても「不純さを伴った渇望、欲望の生起である」と言われても、ドゥッカの生起の何についての言葉がないので理解がしづらいです。ドゥッカの生起の状態を説明しているのでしょうか、ドゥッカの生起の原因を説明しているのでしょうか。

ドゥッカの消滅では「すなわちニルヴァーナ、絶対真理、究極実存である」という説明がなされていますが、私にはニルヴァーナ、絶対真理、究極実存という言葉の意味が分かりません。

●『岩波 仏教辞典 第二版』での四諦(したい)の説明
 
本『ブッダが説いたこと』が四聖諦(ししょうたい)として説明していることを『岩波 仏教辞典 第二版』ではどう説明しているのかを見てみました。そこには次のような内容が書いてありました。

「四諦(したい)・・・諦(サンスクリット語でsatya)とは真理の意で、四諦とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)という4種の真理のこと。四聖諦(ししょうたい)とも訳される。

<苦諦>とは、迷いの生存は苦であるという真理である。

<集諦>とは苦の生起する原因についての真理であり、その原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛にあるとされる。

<滅諦>とは、苦の止滅についての真理であり、それは、渇愛が完全に捨て去られた状態をいう。

<道諦>とは、苦の止滅に到る道筋についての真理であり、いわゆる八正道(はっしょうどう)として示される」

『岩波 仏教辞典 第二版』の記述も分かりづらいですが、多少耳慣れた言葉が使われているためでしょうか、本『ブッダが説いたこと』よりは少し意味が推測できるような気がしました。

それでも「意味が明確に分かった」と言えないことに変わりはありません。ブッダがどのように世の中を捉え、どのように人間の生き方なり心の成り立ちなりを考えたのかを、考察してみないといけないのでしょう。今後の継続課題として考えていくようにします。

●結局、本『ブッダが説いたこと』の良い点と残念な点は
 結局、本『ブッダが説いたこと』の良い点は、<「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(1)>で16項目を列挙した仏教の概略説明のところだと思いました。残念な点は、仏教の真髄と言いながら四聖諦の内容を一般の人が理解できるように説明がなされていないところだと思いました。

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2025年12月30日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第14回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(2)

・この本の「分かりづらい事柄」
 前回は「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本『ブッダが説いたこと』に書いてある「良いこと」について述べました。今回はこの本の「分かりづらい事柄」について述べます。

・著者の論述姿勢がもたらす「分かりづらさ」
 
①著者のラーフラ師は「まえがき」で「私は本書で、ブッダの教えの中で中心的、基本的とされるものをすべて論じた。それらは、四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう)、五集合要素、カルマ、再生、『条件付けられた生起』、無我、正しい気付きである」と書いていますが、それぞれの事項について分かり易い説明がなされていません。

 ②続いてラーフラ師は「読者にはできるなら、まず第一章から始めて、次に第五、七、八章と進み、それから第二、三、四章そして第六章へと読み進めていただきたい。そうすれば、全体の意味がより明確で、生き生きしたものとなるであろう」と書いていますが、これは納得がいきません。全体の意味が読者に分かりやすいように著者が順序立てて書くべきだと私は思います。その順序がブッダの思想構成と異なるなら、その点を補足説明すれば良いと考えます。

 ③また、ラーフラ師は「本書のタイトルを『ブッダが説いたこと』とした以上、ブッダが用いた比喩(ひゆ)、表現、繰り返しも含めて、ブッダ自身のことばをそのまま記すべきだと考えた」とのことですが、私は『ブッダが説いたこと』の本質を伝えるのが大切と考えます。仏教経典はインドの種々の人々が理解し易いよう比喩や繰り返しを多用していますが、インド以外ではもっとスッキリした形で説明した方が分かり易いと思います。

・訳者の翻訳姿勢がもたらす「分かりづらさ」
 ①訳者の今枝由郎氏は本『ブッダの説いたこと』を日本語訳するにあたって、日本人に馴染みの深い漢訳の仏教用語をあまり使わず、古代インドのパーリ原語をカタカナ表記して使っています。これは著者であるラーフラ師が、「仏教固有の用語に対して適切な英語が見つからない場合、原語を残して、それを説明するようにしている」ので、訳者もその方針に倣(なら)ったとのことです。
 私はこれを読んで、仏教に馴染みの薄い英語圏ではもっともな著者の判断ですが、漢訳仏教用語が広まっている日本では訳者の判断は適切でないと思いました。漢訳仏教用語を用いて翻訳し、意味説明が不足の場合や日本で言葉が誤解されている場合などは、そこを丁寧に補足説明した方が読者に理解してもらい易いと考えます。多少なりと仏教関係の本を読んだ日本人なら、「五集合要素」より五蘊(ごうん)が、「カルマ」より業(ごう)が、「条件付けられた生起」より縁起が、「マハーヤーナ仏教」より大乗仏教の方が耳慣れていて本をスムーズに読むことが出来ると私は思うのです。

・次回は、この本の説明が「理解できない事柄」を取り上げる予定
 ここまで著者の論述姿勢と訳者の翻訳姿勢によって、本の内容が分かりづらくなっていることを述べてきました。次回の『第15回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(3)』では、この本の説明が「理解できない事柄」を取り上げる予定です。

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2025年12月 4日 (木)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第13回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(1)

●「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本
 五蘊や十二支縁起についてよく分からず困っているときに、「近代精神を意識して書かれた英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの岩波文庫に出会いました。本のタイトルは『ブッダが説いたこと』、著者はスリランカ出身の仏教行者であり哲学の学者でもあるワールポラ・ラーフラ師、訳者はチベット学者の今枝由郎氏です。

●私の読後感想
 本を数回読んでみての私の感想は、「仏教の概略を知るために役立つことも書いてあるが、全体的に分かりづらい。最良の仏教概説書とは言えない」というものです。ちなみに、WEBでこの本のブック・レビューなどを検索してみますと、「仏教の真髄が優しく書かれていて分かりやすい」という意見と、「分かりづらい。チンプンカンプン」という意見との両方がありました。

●この本に書いてある「役立つこと」
 この本に書いてあることで私が参考になった主なものを、「役立つこと」としてまず列挙します。全体としての感想が良くないものであっても、ここのところは学べると思うからです。16項目あります。

①ブッダはカーストや社会階級といった差別を認めなかった。

②(ブッダによれば、)人間は自らの主であり、それより高い位置から人間の運命を審判できる(神のような)存在や力はない。

③(ブッダは、)人間は自らの努力と知性によってあらゆる束縛から自らを自由にすることができるのだから、誰であれ自分を啓発し、自分を解放するようにと教え、励まし、刺激した。

④疑わずに、信じるべきであるというのは、的を射ていない。

⑤自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。

⑥人生には病、老い、死、悲しみ、憂い、痛み、失望といった苦しみがある。私(ブッダ)が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの『消滅』である。

⑦(ブッダが諦(あきら)かにした四つの真理(四聖諦(ししょうたい))の最初の真理は、)不適切で、安易な訳語と、その表面的解釈が、多くの人に仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになった。

⑧因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない。そのなかで、持続的「自己」、「個人」あるいは「私」と呼べるようなものは存在しない。

⑨存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽ももっている。

⑩私たちが「私」「存在」と呼んでいるものは、各々が相互依存的に、因果律に従い刻一刻と変化する物質的、心的要素の結合に過ぎない。

⑪彼らは過去を悔やまず、未来のことを気に病まない。彼らは現在を生きている。だから彼らの顔色は輝いている。

⑫ブッダの教えを理解し、その教えが正しい道だと確信し、それに従おうとするなら、その人は仏教徒である。

⑬仏教は、物質的福利が目的そのものとは考えない。それは、より高い、より貴い目的のための手段にしか過ぎない。しかし、それは人間の幸せという、より高い目的を達成するためには不可欠な手段である。

⑭十分な収入が得られる機会が民衆に提供されれば、人びとは満足し、恐れや不安から解放され、その結果として国は平和で、犯罪はなくなる。

⑮仏教が非暴力主義、平和主義を提唱し、いかなるかたちの暴力も殺生も弾劾していることはよく知られている。

⑯(ブッダは、)国王、大臣、行政官たちが腐敗し、不正を行なうようになると、いかにして国全体が腐敗し、堕落し、不幸になるかを説き明かしている。国が幸せであるためには、公正な政府が必要である。

●次回は、この本の「分かりづらいこと」を取り上げる予定
 
次回の『第14回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(2)』では、この本の「分かりづらいこと」を取り上げる予定です。

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ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳『ブッダが説いたこと』



 

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