聖徳太子 本当はこうだった!?

2025年10月 1日 (水)

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第6回:疑問4の(2)

●第6回:疑問4の(2)
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?
答は、聖徳太子は、国家運営の根本に、仏教の「人間観や生き方の考え」を据えようとしたためと考えられる、です。
なお、三教義疏とは仏教の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の解説書のことです。
三教義疏の元の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』のうち、『維摩経』『勝鬘経』は前回説明済みですので、今回は3番目の『法華経』から説明を行います。

●法華経の内容
法華経全体の中で説かれる主な教え
・人は出家・在家、男女、老若などの別なく平等に、誰でも如来蔵を持っています。
・如来蔵とは、人に具わっている「仏(覚者。真理を知り、心安らかな人)になれる可能性」のことです。
・古代インドの言葉であるサンスクリット語で覚者を意味する「ブッダ」を、音で漢訳(音写)したのが「仏」です。
・日本で俗に言う「死んだらホトケになる」のホトケではありません。
・また如来蔵とは、他の経典で言う「仏性」「仏の本性」のことであり、仏の素晴らしさに通じる「人の尊さ」のことです。それを人間は誰でも持っているのです。
・人それぞれが持っている「素晴らしいもの、自分の尊さ」が知られなかったり、その良さが発揮されなかったりするのは、勝鬘経で言う煩悩(貪欲、憎悪、愚か)のためです。
・自分が素晴らしいものを持っていること(自分の尊さ)を知り、他の人も誰もが素晴らしいもの(その人の尊さ)を持っていることを知りましょう。
・そして、その同じことを他の人にも知ってもらうのです。
・結果、互いに相手を尊重し合うようにします。
・そういう人間関係、社会を作ることによって、誰もが心安らかに、幸せに暮らせるようになるのです。
・この考えを粘り強く広めていくことが大切です。

●法華経の特徴
法華経は「難信難解」(なんしんなんげ)
・法華経は信じることが難しく、理解することも難しい、と言われています。それは何故でしょうか?
・法華経の説いている平等の考えや善の実践行動が、当時のインドに広まっていたカースト制度に代表されるバラモン教の考えと大きく違っていて、理解が困難だったのです。
・周囲の環境が厳しい中、革新的な法華経の考えを信じ、解釈を深め、実践していくことは容易ではありませんでした。

法華経は譬喩(ひゆ。たとえ話)が多い
・いろいろな環境・立場の多くの人に教えの内容をしっかり伝えようとする場合、譬喩が有効でした。
・仏教が興った古代インドの地は論理的思考をする人が多く、手を変え、品を変えての説得が必要でした。

法華経は平等主義
・インドは古くからカースト制の差別意識が浸透していましたが、法華経は出家・在家、老若、男女などに関係なく、誰もが平等に、悪い輪廻のクビキから解放されると説きました。
・人は、出自でなく、おこなったことで評価されるのだと説きました。

仏教(≒法華経)は人間主義
・仏教そして法華経は、自分も他人も素晴らしいものを持っていることを認識し、相互に尊重し合うという人間の関係性から、ものごとの善悪、道理を考えています。絶対的な神を判断基準にしていません。
・人間の尊さを主張し、その発揮拡大を求めています。

法華経は教えを実践し、広めることを推奨
・教えは単なる知識ではなく、実践することが大切です。そして周囲へ教えを広めていくことを推奨しています。

法華経の特徴を専門用語で述べると
①「一仏乗」
・小乗仏教と大乗仏教を統合し、「誰もが仏になれる」(真理を覚り、心安らかになれる)と説いたことです。
②「久遠実成」(くおんじつじょう)
・「釈迦は遥か遠い昔に既に覚っていて、その後いろいろな仏が出てきているのは、釈迦が姿を変えて現れたもの」と述べ、古代インドで当時語られていた種々の仏の統一を図ったことです。
・これは釈迦の教え(真理)がいつの時代にもあったこと、言い換えれば、教えの永遠性を説いています。

●法華経の真髄
教えの中心的メッセージ
・人は誰でも等しく自分の中に優れたものを持っています。
・その優れたものを互いに尊び、活かして、皆で幸せになっていくのです。
人間の平等と尊厳、そして善いことの実践による成長を高らかに謳っているところが法華経の真髄です。

●3つの経典の内容(まとめ)
聖徳太子が三経義疏で解説した3つの経典について、それぞれがどんなことを説いているのかを、もう一度まとめて見てみましょう。
『維摩経』は、在家の人の「日々の生活での働き、役割遂行の大切さ」を教えています。
『勝鬘経』は、女性の「人への思いやりと良い教えの普及の重要さ、女性救済」を教えています。
『法華経』は、全ての人の「本来持っている良い本質の発揮での成仏(自他共に幸せになる生き方)」を教えています。
なお、成仏のここでの意味は、幸福と考えて良いと私は思います。
聖徳太子は、これら3つの経典に示されていることを人間の生き方の根本の考えに据えようとしたのです。

●三経義疏と聖徳太子の政治
三経義疏には、参考にした解説書の内容について、ところどころに太子の感想や意見が書かれていますが、「教えの内容のどこを政治に活かそう」ということは書かれていません。
しかし、仏教の基本的な考えや三教義疏の元の3つの経典の教えと同じものが、「憲法十七条」の条文にあります。
第一条:和を貴ぶ。
第二条:曲がった心を仏教で正す。
第七条:人は担当する任務を忠実に行なう。
第九条:仕事は他者の為に尽くす気持ちで行う。
第十条:意見が違う場合、十分に話し合う。
第十四条:嫉妬心を捨て、人の長所を認める。
また、冠位十二階の制は豪族の身分秩序を打破して、能力による人材登用を図ったものですから、仏教の平等思想に一歩前進したと言えます。

●聖徳太子の思い(私の推測)
仏教の経典について学び、「皆が幸せになれる、皆で幸せになろう」という考えを知った時、聖徳太子は、これこそが自分が実現したい人間のあり方であり、政治で求めるべきあり方だと、心の底から思ったに違いありません。
繰り返しますが、聖徳太子は現実の政治が嫌になって仏教の研究にいそしんだのではなく、理想の社会を作っていくために人間はどうあるべきかを明らかにしようとしたのです。

●より詳しくは
より詳しくは、朝皇龍古/鏡清澄著『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』をご覧ください。

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『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第5回:疑問4の(1)

●第5回:疑問4の(1)
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?
答は、聖徳太子が、国家運営の根本に、仏教の「人間観や生き方の考え」を据えようとしたためと考えられる、です。
なお、三教義疏とは仏教の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の解説書のことです。
理由は次の通りです。
太子は国の為政者として民を幸せにしたいと思っていて、釈迦の教え、仏教の思想に触れ、感動してこれを学んでいった、のだと推測されます。
「憲法十七条」で、主に官僚に対して「こうあるべきだ」と規範を示したが、それをしっかり実行・定着させるためには、人間の根本の在り方、生き方の考えから変えていかなければいけないと太子は思ったのだと推測されます。
現実の政治に嫌気がさして、仏教研究にいそしんだのではありません。

●三経義疏の3つの経典
一般に三経義疏と一括りで呼ばれる『維摩経義疏』『勝鬘経義疏』『法華義疏』のそれぞれが解説している元の経典について概略を見てみましょう。
1.維摩経
維摩経は、在家信者の維摩が、釈迦の弟子たちや菩薩たちに仏教の真髄をドラマチックに説いているお経です。
2.勝鬘経
両親からの勧めで仏教に出会った勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が、在家信者として仏教の精神・理念を実践し、教えを広めていこうとする姿を描いて、仏の教えを説いているお経です。
なお、勝鬘夫人は古代インドの舎衛国(しゃえいこく)という国の王女で、東方の国の王妃となった人です。
3.法華経
人は、自分も他の人も素晴らしいものを等しく持っています。
そのことを自覚し、素晴らしさを発揮していって、周囲にもその考えを広めていってください。
そうすることによって相互に尊重し合い、皆が心安らかに、幸せになれるのです、ということを説いているお経です。
仏教はどんな教えかを心から知ろうとする者たちへ贈られる、熱いメッセージと言えるものです。

●維摩経の内容
それでは次にそれぞれの経典の主な内容を見てみます。
維摩経は、在家信者の維摩が、釈迦の弟子たちや菩薩たちに仏教の真髄をドラマチックに説いているお経です。
最初に釈迦が、多くの弟子や菩薩に仏教の基礎を説きます。
次に釈迦は、「維摩が病気になったので見舞いに行くように」と弟子や菩薩に言うのですが、誰もが行くことを辞退します。
かつて維摩に誰もが自分の至らなさをやり込められ、ぐうの音もでなかったためです。
そして、その指摘事項を今も改められていないからでした。
最後に指名された智慧の文殊菩薩が維摩を見舞いに行くことになり、他の菩薩や弟子たちも付いて行きます。
維摩と文殊菩薩の対話(激論)を聴くためです。
維摩経全体の中で説かれる主な教えは次の通りです。
・仏教者は、山に籠って悟りを開き、自分一人の安住を求めるというのでは、いけないのです。
・世俗の中で、社会の一員として日常の仕事を続けながら、世の人に恵みを与え、他者や社会に関わり、安寧な地域を創っていくことこそが大切です。
・一人ひとりが、より良く生きようとすること。それが人々を幸せへ導くのです。
・上記の他に、仏教の基礎とも言える「空」(くう)について説いています。
・空(くう)・・・全てのものは、それ自体の固定的本質というものは無く、基本的要素の一時的な集合体に過ぎないのです。
それを分かって、執着心を無くすと、心安らかになれるのです。

●勝鬘経の内容
勝鬘経は、古代インドの舎衛国(しゃえいこく)という国の王女であった勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が、東方の国の王妃となり、在家信者として仏教の精神・理念を実践し、教えを広めていこうとするお経です。
古代インドは女性差別がきつい社会でしたが、仏教は在家の女性が教えを説くという形で、女性の貢献や救済を訴えました。
まず、勝鬘夫人は、大変素晴らしい教えを聞いたからという両親からの勧めで仏教に出会います。
仏の教えを知り、歓喜し感動した勝鬘夫人は、自分が感動した教えを夫の国王と自分の子供たちに語り、そして国王と共に国民に仏の教えを広めていきます。
国民と共に幸せへの道を歩もうと思ったのでしょう。
勝鬘夫人は、仏教の教えに従うこと、自分自身の善い行いによる功徳で他者を救おうとすること、人々に仏の教えを広めることに、全力を尽くすと誓います。
なお、人々に仏の教えを広めることを誓うのは、素晴らしい教えを広めないと、周囲環境が良くならず、誰も彼も幸せになることが出来ないからです。
勝鬘夫人の誓いの内容が勝鬘経で説かれる主な教えです。
勝鬘経全体の中で説かれる主な教えは次の通りです。

【自身への戒め】
・仏教信奉者が守らなければならない戒めを犯しません。
・年長者や師を敬い尊びます。
・生きとし生けるものを害しません。
・自分と他人を比べて妬(ねた)むことをしません。
・物惜しみしません、意地悪しません、頑(かたく)なになりません。

【他者への接し方の誓い】
・今後は自分の為でなく、人々を救う為に蓄財をします。
・自分の利益の為でなく、人々の為に、救済活動をします。
・人々の苦しみを除き、安穏にします。
・仏の教えを、その人に合った方法で教えます。
・今後、仏の教えを堅持して決して忘れることはしません。

【如来蔵(仏性)と煩悩、そして八正道】
・如来蔵(仏性)とは、人に具わっている「仏(覚者。真理を知り、心安らかな人)になれる可能性」のことです。
・日本で俗に言う「死んだらホトケになる」のホトケではありません。
・全ての者には如来蔵(仏性)が具わっているのですが、煩悩がそれを覆い隠しています。
・煩悩を取り払い、如来蔵を引き出すことが肝要です。
・煩悩を克服し、正しく生きるための基本的精神が八正道と言われるものです。
・八正道は八項目からなりますが、その数例を挙げてみます。
正見:正しい見解。物事に対する正しい解釈や評価です。
正語:正しい言葉遣い。正しい言葉は人を良い方向へ誘います。
正精進:正しい精進(努力)。戒律を守り心身を清らかにすることです。

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『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第4回:疑問3

●第4回:疑問3
疑問3:聖徳太子と一日違いで亡くなった王后は誰か?
答は、一般に言われている膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)ではなく、正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)と考えるのが妥当です。
これは歴史学者の喜田貞吉氏および私の説です。

理由は次の通りです。
理由の1つ目は、聖徳太子死亡時(西暦622年)の前後の状況が刻印されている法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に「干食王后」という文言があり、その解釈が通説と私で異なることです。
理由の2つ目は、当時の女性は出自でランク付けされていたことです。聖徳太子の妃の中でランク一番は敏達天皇と炊屋姫(後の推古天皇)の子の菟道貝蛸皇女です。
推古天皇が他の妃を王后とは刻印させないはずです。
理由の3つ目は、後世の聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』(完成年は早くても西暦700~750年)と『上宮聖徳太子伝補闕記』(完成年はおよそ西暦800年)は信頼性が低いことです。

●釈迦三尊像光背銘の一般的釈文
釈迦三尊像光背銘を解釈する時、一般的には添付の画像のように区切られて読まれます。
そこで、「干食王后」が次のように解釈されています。

●「干食王后」の解釈・・・通説
通説では、聖徳太子と一日違いで亡くなった「干食王后」とは、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)であると解釈されています。
その根拠として次のような論が述べられています。
・ 「干食王后」については、太子の伝記の一つ『上宮聖徳法王帝説』に、膳加多夫古(かしわでかたぶこ)の娘の膳菩岐々美郎女と注記されています。膳氏は天皇家の食膳のことを担当していた豪族です。
・当時、炊事を担当する召使である廝丁(しちょう)のことが「かしわで」と言われていて、木簡に「かしわで」のことが「干食」と書かれているので、光背銘の「干食王后」は膳(かしわで)夫人(菩岐々美郎女)のことです。
・干食は食を干(もと)む、食に干(かか)わるとも解釈できるので、「干食王后」は天皇家の食膳のことを担当していた膳氏出身の膳(かしわで)夫人(菩岐々美郎女)のことです。
という論です。

●「干食王后」の解釈・・・私見
聖徳太子と一日違いで亡くなった「干食王后」とは、正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)である、というのが 私の見解です。
その根拠は次の通りです。
・光背銘の文章は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という古い文体で書かれているので、一句は四字または六字(四文字、六文字区切り)で解釈するべきです。
・四六駢儷体の主な特徴は、
①主に一句が四字または六字から成っている。
②対句表現が取り入れられている。
です。
・光背銘文の「上宮法王枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與諸臣」を、通説の一句四字での解釈と、私見の一句四字または六字での解釈を比較すると次の通りとなります。
・一句四字の解釈。・・・これが通説となっています
上宮法王。枕病弗悆。
干食王后。仍以労疾。並著於床。
時王后王子等。及與諸臣。
・一句四字または六字の解釈。・・・これは私の見解です
上宮法王枕病。弗悆干食。
王后仍以労疾。並著於床。
時王后王子等。及與諸臣。
・私の見解の方が綺麗に対句表現になっていると思います。

次に通説と私見の両方の読みと解釈を見てみましょう。
・ 通説の読みと解釈
上宮法王。枕病弗悆。
干食王后。仍以労疾。並著於床。
上宮法王は、病に枕し悆(こころよ)からず。
膳夫人(菩岐々美郎女)は、看病疲れで、並んで床についた。
が通説の解釈です。
・私見の読みと解釈
上宮法王枕病。弗悆干食。
王后仍以労疾。並著於床。
上宮法王、病に枕し、悆(こころよ)からず食を干(ほ)す。
王后(菟道貝蛸皇女)は、看病疲れで、並んで床についた。
これが私の読みと解釈ですが、ポイントは「容体が悪くなって食事が摂れなくなった」という解釈です。

●出自ランクによる「王后」の判断
当時の女性は出自でランク付けされていました。
聖徳太子の妃として歴史に残っている人は、
①敏達天皇と推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女
②敏達天皇と推古天皇の孫娘の橘大郎女
③大臣・蘇我馬子の娘の刀自古郎女
④臣・膳加多夫古の娘の菩岐々美郎女
の四人で、一番のランクは菟道貝蛸皇女でした。

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聖徳太子が亡くなったときには推古天皇も権力者の蘇我馬子も健在だったのだから、我が娘を差し置いて、当時の序列で言うと四番目の妃の菩岐々美郎女のことを「王后」と、聖徳太子と等身の釈迦三尊像の光背に刻印させるはずはありません。
親の気持ち、人情を考えれば、このことは納得して頂けると思います。

●聖徳太子の伝記で信頼性が低い二冊の本
聖徳太子の伝記としてしばしば取り上げられる『上宮聖徳法王帝説』と『上宮聖徳太子伝補闕記』は信頼性が低いです。
『上宮聖徳法王帝説』の完成年は早くても西暦700~750年で、聖徳太子が死んでから約70~120年後に書かれたものです。
・また、本書には「干食王后」とは膳菩岐々美郎女であると注記されていますが、その根拠は示されていません。
・さらに本書には、聖徳太子の后の菟道貝蛸皇女のことを太子の一族の中に書いていません。正妻のことを一族の系譜に書かないというのは不可解です。
『上宮聖徳太子伝補闕記』の完成年はおよそ西暦800年で、聖徳太子が死んでから約170年後に書かれたものです。
・本書には「吾得汝者、我之幸大」と太子が菩岐々美郎女を誉めちぎった言葉が書いてあります。そのため、それほど愛していたのなら「干食王后」は膳菩岐々美郎女だろうと思われ易いのです。
・しかし本書は元ネタとして膳家の記録が使われているので、そのまま信じられません。

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『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第3回:疑問2

●第3回:疑問2
疑問2:聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?(移住したとされているのか?)
答は、聖徳太子は飛鳥と斑鳩という二拠点を往来して、しっかりした政治を行なおうとしたです。
聖徳太子は蘇我馬子と意見が対立したり、政治に嫌気がさしたりして、斑鳩に移住したのではありません。

●●理由
その理由は次の通りです。
1つ目の理由は、斑鳩は飛鳥と難波を結ぶ交通と情報の要衝であったことです。
2つ目の理由は、斑鳩宮とそれに付随する建物は、難波津から飛鳥へ来る外国使節に、大和盆地の入口で大和の素晴らしさを印象付ける役割もあったことです。
3つ目の理由は、飛鳥と斑鳩での政治一体運営を示す、斑鳩宮の敷地の傾きと太子道(筋違道(すじかいみち)の存在です。
4つ目の理由は、聖徳太子は斑鳩宮の建設後も遣隋使や『天皇記』『国記』編纂など重要施策を実施していることです。

●交通と情報の要衝:斑鳩
斑鳩は、大和盆地を流れる多くの川(曽我川、飛鳥川、寺川、竜田川、佐保川等)が合流した大和川が流れる所のすぐ側にあります。
難波と飛鳥を結ぶ水運の重要な場所なのです。
また、難波と飛鳥を結ぶ陸路の「竜田道」も設けられました。
河内から大和の都へ至る入口として、半島三国や大陸からの情報もいち早く入手できたのです。

●大和の川と飛鳥・斑鳩
ここからは添付した画像について説明します。
まず、大和の川と飛鳥・斑鳩の図をご覧ください。

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大和盆地を流れる多くの川(曽我川、飛鳥川、寺川、竜田川、佐保川等)が斑鳩の地で合流して大和川となります。
斑鳩は交通の要衝であることがよく分かります。

●斑鳩の主要伽藍は西傾約20度
法隆寺の若草伽藍(聖徳太子の時代に斑鳩寺の在ったところ)や東院(同じく斑鳩宮が在ったところ)、および元の中宮寺跡や法起寺・法輪寺など斑鳩の主要伽藍の敷地は西に約20度傾いています。

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●斑鳩主要伽藍の傾きの先、南に在るもの
斑鳩主要伽藍の傾きの先の南に在るもの、より正確には南南東に在るものをみますと、飛鳥寺など飛鳥の主要建造物なのです。
そして、斑鳩の主要伽藍と飛鳥の主要伽藍の間には、西傾約20度のほぼ直線の道路「太子道」(筋違道)が通っているのです。

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これらは、飛鳥と斑鳩が一体となって政治を行なっていたことを示すものでしょう。
聖徳太子は飛鳥と斑鳩を行き来していたのだと考えられます。
考古学者の酒井龍一氏は、飛鳥を首都、斑鳩を副都、太子道(筋違道)を首都と副都を結ぶ幹線道路だと述べています。

●馬に乗って太子道を行く聖徳太子の像
現在の奈良県磯城郡三宅町の白山神社には馬に乗って太子道を行く聖徳太子の像があり、往時を偲ばせています。

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●今に残る太子道
また、三宅町には太子道の痕跡があって、「太子道」の標識が掲げられています。

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『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第2回:疑問1の(2)

●第2回:疑問1の(2)
今回は、疑問1への答えの理由について、その続きを述べます。

疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。
●●理由④
4つ目の理由は、新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されていることです。
最初に、新羅征討軍の大将軍(総大将)に厩戸皇子の同母弟の来目皇子(くめのみこ)が任じられています。
そして来目皇子が病死すると、その後任には異母弟の当麻皇子(たぎまのみこ)が任じられています。
国軍の総大将のポストに弟二人を続けて就任させるということは、大王という非常に強い立場と責任感を持った人でないと出来ないでしょう。
このことからも、厩戸皇子は大王であったはずと言えます。
●●理由⑤
5つ目の理由は、大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任していることです。
・斎宮(さいぐう)とは
 古代では、大王位に即くときは、姉妹や娘など大王の近しい親族の未婚女性が斎宮になり、政権を祭祀面から支えるのが慣習となっていました。
・酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。用明大王の娘であり、厩戸皇子の異母姉)が斎宮に就任したのは、用明大王が即位した西暦585年で、斎宮を37年間務めました。
・585年に足掛け37年で621年、満37年で622年になりますから、酢香手姫皇女が斎宮を退任したのは西暦621年もしくは622年ということになります。
これは『日本書紀』もしくは「法隆寺金堂釈迦三像光背銘」「天寿国繍帳」の厩戸皇子の死亡年と合致します。
・このことから歴史学者の門脇禎二氏は、大王になった厩戸皇子を酢香手姫皇女が斎宮として祭祀面から支えていたと考えられると述べています。

●歴史用語の学び直し
歴史学は年々研究が進んでいますので、ここで歴史用語の学び直しをしましょう。
・皇太子・・・「皇太子」は律令制に基づく用語です。
そのため、『日本書紀』に厩戸皇子を「皇太子」と書いている箇所は7世紀末以降に書かれたことになます。(仏教学者の石井公成氏の調査です)
・摂政・・・厩戸皇子の時代には摂政(せっしょう)という地位はありませんでした。
そのため、厩戸皇子が摂政となって政治を行っていたということはありません。
『日本書紀』の記述も「録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしめ」(いっさいの政務を執らせて)と、摂政が動詞として使われています。
・大王・・・大和朝廷の首長のことです。「天皇」の呼称が使われる前の呼称と、一般に言われています。
・天皇・・・現代の歴史学の通説では、天皇号は天武天皇もしくは持統天皇の時代に使われるようになったとされています。
しかし、推古の頃には大王と天皇が同時に使われていました。実例は天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)です。
この時には大王と天皇の2つの号に何らかの役割の違いがあったのではないか、と私は推測しています。

●疑問1に対する答えとその理由のまとめ
ここで疑問1に対する答えとその理由をまとめて再確認しましょう。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答:厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったと推測されます。
理由の主なものは次の5つです。
①『日本書紀』の記載内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったと言えます。
② 外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えます。
③ 厩戸皇子は国家運営の根幹にかかわる大政策を実施しているが、これらは国家のトップでなければ実施できないものです。
④ 新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されています。
⑤ 大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任しています。

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『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ  第1回:はじめに&疑問1の(1)

●『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ
2024年11月に朝皇龍古さんとの共著本『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』を出版しました。
その本の一部を、このブログで「聖徳太子 本当はこうだった!?」シリーズとして簡潔に紹介しようと思います。
なお、このシリーズ記事は共著本の要約ですので、記事の中に出てくる「私は〇〇と思う」や「私見」は朝皇龍古さんと鏡清澄の共通の見解と捉えて下さい。

●はじめに
聖徳太子は日本の歴史上の人物で人気ランキング第1位です。
冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使、仏教興隆など多大の業績をあげた人物です。
しかし一方では、一度に十人が話すのを聞いて内容が分かったとか、馬で空を飛び富士山に登ったとか、信じられない伝承があります。
荒唐無稽な話は別にして、聖徳太子はどんな人だったのか、次の4つの疑問点について多くの資料から答えを求めていきます。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
疑問2:聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?(移住したとされているのか?)
疑問3:聖徳太子と一日違いで亡くなった王后は誰か?
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?

●第1回:疑問1の(1)
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。

●●理由①
その理由としては、『日本書紀』に書かれている内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったといえるためです。
『日本書紀』には厩戸皇子が天皇の業務を行なったと書かれています。
推古元年(西暦593年)の4月のところには、「厩戸皇子に一切の政務を執らせて、国政をすべて委任された」と記載されています。
国政をすべて行うのは、通常、大王の役割でしょう。
また、用明元年(西暦586年)の正月のところには「(厩戸皇子は)国政をすべて執り行って“天皇事(みかどわざ)したまふ”と記されています。
“天皇事(みかどわざ)したまふ”は一般に「天皇の代行をなさった」と現代語訳されています。
しかし私は、“天皇事(みかどわざ)したまふ”は文字通り「天皇の仕事をなさった」、即ち「天皇であった」と解釈するのが良いと思います。
これらのことから、政治の責任者が厩戸皇子であったことはほぼ間違いないです。
そして推古は祭事(神事)の最高責任者であったと思われます。
この頃、祭事と政事(せいじ。まつりごと)は分担されていたと考えられます。
なお、『日本書紀』の実際の文章は以下の画像「『日本書紀』の記述」の通りです。

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●●理由②
2つ目の理由は、外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えるためです。
『隋書』東夷伝、倭国条には、西暦600年当時の倭王としてアメタリシヒコという姓名とオオキミという呼称が書かれ、その後に王の妻の呼称が書かれています。
このことは、その時の倭王は男性であることを意味します。
また、西暦607年に遣隋使として隋へ行った小野妹子は隋の使者・裴世清(はいせいせい)を倭国へ連れてきましたが、裴世清の出張報告とも言うべき内容が『隋書』東夷伝、倭国条に掲載されています。
それには、倭王が女性であるとは書いてありません。
当時は、女性の王は特異な事例でした。
このことは、時の倭王は男性であること、つまり倭王は厩戸皇子であったことを意味しています。

●●理由③
3つ目の理由は、厩戸皇子が国家運営の根幹にかかわる大政策を実施していることです。
大政策は国家のトップでなければ実施できないものです。
厩戸皇子が実施した政策は沢山ありますが、その中で特に重要なものを4つ挙げますと、仏教興隆、冠位十二階の制定、十七条の憲法の制定、遣隋使です。
仏教興隆は、当時の東アジアの政治・社会情勢に後れを取らないために必要でした。
仏教を広めていない国は野蛮な国、遅れている国と見られる風潮だったのです。
冠位十二階の制定は国造りに必要な人材を登用するためのものでした。
十七条の憲法は、国家運営の基本方針の明示と、それを実行するための役人への訓示をしたのです。
遣隋使は、大陸文化を半島三国経由せずに直接導入すること、大陸の大国との国交樹立が目的でした。
これらは大変重要な政策ですから、実施責任者は国家の最高責任者、すなわち大王しか考えられません。

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