本を読んでいく奈良

2026年6月 6日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録される見通しに

●「世界遺産への登録がふさわしい」と勧告

 ユネスコの諮問機関「イコモス」は、奈良県内の飛鳥時代の遺跡群、「飛鳥・藤原の宮都」について「世界遺産への登録がふさわしいとする勧告をまとめた」とのニュースが、本日(6月6日)未明に速報で入ってきました。
 良かったです!!これまで「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録に尽力してきた市町村や関係者の皆さんの喜びは、とても大きいでしょう。

●イコモスの勧告とは

 世界遺産の登録の可否を決めるユネスコの世界遺産登録委員会はイコモスの勧告をもとに審議・決定を行います。

 イコモスの勧告は、評価の高い順に「記載」、「情報照会」、「記載延期」、「不記載」の4段階で評価されますが、「飛鳥・藤原の宮都」は最も評価の高い「記載」でした。過去、日本が登録推薦をして「記載」と勧告されたものはすべて世界遺産に登録されていますから、「飛鳥・藤原の宮都」は登録に大きく前進したと言えます。

●「飛鳥・藤原の宮都」が持つストーリー性

 近年、世界遺産登録には「ストーリー性」が重視されています。ストーリー性とは、その遺産が現代の世界の人々にどういう普遍的な価値を持つのかということです。私は飛鳥の宮都で行われた聖徳太子たちの国造りが非常に素晴らしいストーリー性を持っていると思っています。

 聖徳太子たちは黎明期の我が国のかたちを造ったわけですが、単に国の外形的なものだけでなく、和や平等や周辺諸国との交流など現代に通じる理念を追求していっています。これは日本の歴史の中であまり例を見ないものです。

 世界遺産登録が、多くの人の遺跡巡りをもたらすだけでなく、古代の人々がどのような理想を掲げて国造りを行ったのか、そしてそれは現代の私たちにどのようなことを訴えているのかを考えていく機会を増やしていってくれれば良いなと思います。

  *「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録とストーリー性について、以前に当ブログで詳しく述べていますので、ご覧頂ければ嬉しいです。

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(1)

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(2)

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2026年2月21日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推進と本『飛鳥から・・・』(2)

●「歴史と人間」が描かれた物語は胸を打つ

 歴史の荒波に揉まれながら懸命に生きる人間。時に夢を持ち、時に苦しみながらも人間が作っていった歴史。それら「歴史と人間」が描かれた物語は私たちの胸を打ちます。

「飛鳥の宮都」を主要な舞台にして歴史と人間が描かれた本があります。『飛鳥から遥かなる未来のために』という全6巻の古代歴史小説です。「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が世界遺産に登録されるためにも、登録された後に日本の形成期の理念を多くの人々の心に強く訴え続けるためにも、この物語の「ストーリー性」を皆で共有化したいです。

●本『飛鳥から遥かなる未来のために』(シリーズ全6巻)
 古代歴史小説で著者は朝皇龍古(あさみりゅうこ)氏です。『日本書紀』を深く考察し、「もしかしたら、こうだったかもしれない日本の物語」として書かれています。

①聖徳太子 飛鳥から遥かなる未来のために(一)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第一巻) 【改訂・改題版】

 次の大王(天皇)に誰を推すか。己が氏族の命運が懸かるだけに、蘇我、物部、息長(おきなが)、三輪、中臣など豪族が鎬(しのぎ)を削る。陰謀が渦巻き、橘豊日皇子はあらぬ嫌疑をかけられる。また、大和出身で百済の将軍となった日羅は、敏達大王の強い要請で大和へ召喚されるが、怪事件が起きる。
 病状が悪化した敏達大王の枕元には皇后の炊屋姫(かしきやひめ)、橘豊日皇子、側近の三輪君栄がいて、大王の遺言を聴いた・・・。遺言の内容を受け入れられない王族・豪族たちが動きだす。
 そんな時代の空気の中で上宮皇子(後世の尊称は聖徳太子)は育ち、兄弟や側近達と共に種々のことを学んでいく。

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朝皇龍古著『聖徳太子 飛鳥から遥かなる未来のために(一)』【改訂・改題版】

②飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・前編)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第二巻)

 古代。激動の東アジア情勢の中で、大和を中心に中央集権国家造りが急務であった。 しかし、王位継承と絡んで豪族間の権力争いが激化し、ついに蘇我・物部の戦いが勃発。用明大王は激務と心労で倒れ、後に残された穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后は苦渋の決断を迫られる。
 泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は蘇我馬子の配下の東漢直駒(やまとのあたいこま)に殺され、流言飛語が収まらない。
 上宮皇子(聖徳太子)のもとには蘇我馬子の次女の刀自古郎女(とじこのいらつめ)が嫁してくる。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・前編)』

③飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・後編)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第三巻)

 大后・炊屋姫(かしきやひめ)は敏達大王との嫡男の竹田皇子をいよいよ大王に就任させようとしていたが、ある決断を迫られる。
   上宮皇子は、炊屋姫の娘で竹田皇子の姉である菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)を正妃として迎える。
   仏教興隆、東アジア諸国との外交交渉、大王軍の創設など、若き上宮皇子達は本格的に国造りに取り組んでいく。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・後編)』

④飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・前編)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第四巻)

 大后の炊屋姫(かしきやひめ)から政治全般を任された上宮(聖徳太子)は、 大后や大臣の蘇我馬子の支援を受けつつ、側近たちと力を合わせて強力な中央集権国家造りに取り組んでいく。
 施策実行の過程で、政治を担当するときの心構え、維摩経の教え、冠位十二階での人材登用の苦労、十七条憲法の精神や官僚の在り方などが描かれる。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・前編)』

⑤飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第五巻)

 上宮(聖徳太子)たちは中央集権国家造りに邁進していく。十七条憲法の定着、人材の育成と登用、財政強化、外交交渉、仏教の理解と普及、文化導入など課題は山積していた。
 特筆すべきは勝鬘経の講義と遣隋使の国書問題。
 後世、日本における仏教の祖と言われる上宮は、神道の伝統を継承する大后や王族の女人達にどのように「勝鬘経」を解説したのか。女人達は仏の教えと上宮の国造りに対する思いをどう受け止めたのか。
 大陸では中原を統一した大国の隋が、高句麗を攻撃するために巨大運河を開削していた。風雲急を告げる半島三国と倭国の対応。
 一方で隋から先端の文化を直接導入したい倭国(日本)は隋への遣使を決定する。遣隋使の小野妹子に持たせた国書は何がどのような意図で書かれ、隋と倭国の間ではどんな交渉が行われたのか。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』

⑥飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)
 聖徳太子たちが活躍するオリジナル歴史小説(第六巻、完結

 上宮(聖徳太子)は大臣・蘇我馬子や側近たちと相談して、学生や学僧達を隋へ留学させた。隋の諸制度や文化を学び、倭国をより良い国にしようとの思いからだった。
 しかし、二代目皇帝・楊広(煬帝。ようだい)の悪政により、隋は国土が戦乱に覆われてしまう。倭国からの留学生や留学僧達はどうなってしまうのか・・・。
 心労の絶えない上宮だったが、正しい生き方を求め、政務の合間を縫って高句麗僧の慧慈から仏教を深く学んでいく。そして、仏教が個人の生き方の指針にも、国家運営の精神的根幹にもなると気付き、経典の解説書を自ら執筆して、人々に釈迦の教えを広めていこうとする。
 また、民を思い、国を思って内外の諸問題に日々取り組む上宮たちにも妻子や友人がいる。夫婦の情愛、親子の感情、友情、それらが語られる。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』【完結】

【番外編】⑦対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代
 飛鳥時代の歴史考察本で著者は朝皇龍古/鏡清澄

 聖徳太子は摂政だったのか?
 法興寺(飛鳥寺)は蘇我氏の寺か?
 聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?
 など飛鳥時代の事柄について根拠を元に考察し、対談(質疑応答)形式で丁寧かつ簡潔に説明。
 (小説『飛鳥から遥かなる未来のために』の歴史的背景が分かる)

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朝皇龍古/鏡清澄著『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』

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2026年2月19日 (木)

「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推進と本『飛鳥から・・・』(1)

●「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録の夢ふくらむ

 奈良県の明日香村、桜井市、橿原市の一村二市が中心となって、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産(文化遺産)登録を推進しています。すでに日本政府よりユネスコに登録申請がなされ、昨年2025年にはユネスコの諮問機関による現地調査が行われました。今年の6月頃に韓国で行われる世界遺産委員会で、登録が承認されることが期待されています。

●世界遺産登録申請のメインテーマ

 世界遺産の登録申請をする場合、なぜこれが世界遺産として相応しいか、その価値の高さや理由を述べる必要があります。それが遺産の「メインテーマ」と言われるものです。

「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」申請のメインテーマは「統一国家"日本国"の形成と成立」です。そして、「律令国家の中枢機構の形成過程」「国家宗教としての仏教寺院の成立」「律令による墓制の変化、律令国家形成の主人公の墳墓」という3つのサブカテゴリーを設けて各資産をカテゴライズしています。

 このメインテーマは国としての重要事項を的確に表現していると私は思います。国がどのようにして形作られてきたか、そしてどんなふうに制度などが整えられていったか、ということです。「宮都とその関連資産群」の前にたたずんだ時、それらが人々の脳裏に浮かぶでしょう。

●"日本国"形成の宮都、"日本国"成立の宮都

 "日本国"の形成の宮都とは飛鳥でしょう。そこでは歴史上の人物として推古天皇や蘇我馬子や聖徳太子などが統一国家造りに着手し諸施策を実施していきました。

 また、"日本国"の成立の宮都とは藤原(京)のことでしょう。天智天皇と藤原鎌足による政変を経て、天武天皇や持統天皇が政治を行って国家体制を構築していきます。その後、藤原不比等が実力者となって奈良の平城京で律令制度を仕上げていきました。

●世界遺産に求められるストーリー性

 近年の世界遺産登録ではストーリー(物語)性が求められています。ストーリー性とは、単に建築物や遺跡でなく、その背景にある歴史や文化や思想や諸外国との交流など多くの人の心に強く訴えるもののことです。

●飛鳥におけるストーリー性

 "日本国"の形成の宮都である飛鳥におけるストーリーとして、私が最も重要だと思うものは「聖徳太子による国造り」です。聖徳太子と言うと法隆寺のある奈良県斑鳩町(いかるがちょう)を思い浮かべる人が多いですが、太子が政治を主に行っていた場所は推古天皇のいる飛鳥の宮都でした。

 太子は仏教興隆を図り、階位十二階を定め、十七条憲法を制定し、隋へ遣使しました。仏教興隆では、神道と仏教の融合に努め、仏教の考えと文化を広めました。階位十二階では、それまでの氏姓制度に風穴をあけて人材登用の平等化を進めました。十七条憲法では、和の大切さや官僚の服務心得などを説きました。遣隋使では、隋と交流して文化や諸制度の導入を行ないました。

 太子および推古天皇など太子を支えた人たちによって、文字通り日本という国が形作られてきたと言って良いでしょう。また、半島三国(百済、新羅、高句麗)や隋などと交流し支援も受けながら、技術や文化や諸制度を学び吸収して日本に根付かせていきました。

 そして特筆すべきは、単に国の外形的なものだけでなく、和や平等や周辺諸国との交流など現代に通じる理念が追求されていることです。これは日本の歴史の中であまり例を見ないものです。素晴らしいストーリー性だと思います。

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明日香村の石舞台古墳

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明日香村の高松塚壁画館の女子群像

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明日香村の橘寺(「聖徳太子誕生の地」との説あり)

                                         【(2)に続く】

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2025年9月 7日 (日)

不思議と心に残る本『春の鐘』

本『春の鐘』
 日本の美と情感、特に女性の心情を古都の情景の中に描くことで読者を得ている小説家に立原正秋がいます。その立原が奈良を舞台にして書いた小説で有名なのが『春の鐘』です。
 ストーリーは東京に住む奥さんと奈良に単身赴任中の夫の「ダブル不倫」物ですが、かつて北大路欣也、古手川祐子、三田佳子らによって映画化されたことが印象に残っています。

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立原正秋著『春の鐘』

『春の鐘』で主人公たちが巡る奈良の寺々
 『春の鐘』では、主人公の美術館長が一緒に働くことになった離婚歴のある若い女性を奈良の寺々へと案内します。出てくる寺は唐招提寺、秋篠寺、室生寺、長谷寺、法隆寺など旅心を誘われる所ばかりです。寺への行き方もバスや電車の話が詳しく書かれていて、本を読むと旅行をしている気分になります。
 落ち着いた雰囲気の奈良の寺々を楚々とした和服姿の女性が訪ねるのですから、立原ワールドここに極まれり、という感じです。また、作者がグルメなためでしょうか、美味しそうな食べ物が次々と出てきて、こちらも楽しめます。

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室生寺の五重塔

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長谷寺の牡丹と回廊

何故か心に残る「下手な小説家が作った歌」
 不倫小説である『春の鐘』は、「主人公は、よくもまぁ、これだけ暇と金があるな」とか「ストーリーがありきたりだ」とか、良くない評判も耳にします。私もそういう面は頷(うなず)けるのですが、この本で非常に心に響いたのは、文中に出てくる「下手な小説家が作った歌」です。この歌があったから、この本が忘れられなくなったと言えます。
 その歌とは、おそらく作者の立原正秋が作った歌だろうと思うのですが、「春なれば いまひととせを 生きんとて くらきみだうに こころあずけぬ」というものです。
 願い事をするのではなく、悩みをひとまず仏様に預けて、もう一年生きてみようという意味でしょう。
 不倫関係にある男女が、ある時には聞こえ、ある時には聞こえない「鐘の音」に気付き、気持ちが揺れ動くのです。そこには出口の見えない生活の状況、心理状態が表れているように私には思えたのです。
 そしてこの歌の中で、「春」と「生きん」との二文字だけが漢字になっていることが意味あるように思いました。出口の見えない中、苦しみながら悩みながらではありますが、「春(=新年)をむかえ、もう(一年)生きてみよう」という静かな想い、姿勢が感じられたからです。

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「くらきみだう」法隆寺の金堂



 

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2025年8月 8日 (金)

法起寺と法華経講義

法起寺
 法起寺(ほっきじ。最近では世界遺産登録の絡みで「ほうきじ」と呼ぶことが広まりつつあり)は奈良県斑鳩町にある寺です。法起寺の三重塔は、法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔と並んで斑鳩三塔と呼ばれています。
 法起寺の前身は岡本宮と言って、聖徳太子と妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ。大臣の蘇我馬子の娘)が住んでいるところでした。二人の間に生まれた山背大兄王もここで育ったものと思われます。太子の遺言で、山背大兄王が岡本宮を寺に造り変えたと言われています。
 創建時の法起寺の建物で現存しているのは三重塔だけですが、発掘調査によって元の法起寺は東に塔、西に金堂がある伽藍配置だったことが分かっています。法隆寺の東に金堂、西に塔という配置を反転した形になっているのが興味深いです。

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法起寺

法起寺での法華経講義
 『日本書紀』には「是の歳(このとし。筆者注・・・勝鬘経を秋七月に講義した年)に、皇太子、亦(また)法華経を岡本宮に講じたまふ。」と書いてあります。しかし私は、勝鬘経を講義したその年に、難解と言われる法華経を講義するのはいくら優秀な聖徳太子でも出来なかったのではないかと思います。また仮に出来たとしても、講義を聴く人たちの仏教に対する理解力が付いてこなかっただろうと思います。おそらく、勝鬘経を講義した数年後に法華経の講義をしたものと推測します。

 朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』
 法起寺(当時は岡本宮)で法華経の講義が行われるようになる経緯と、講義で話される内容について詳しく書かれている本があります。それは朝皇龍古著の『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』です。
 講義場所としてなぜ岡本宮が選ばれたかという著者の解釈は新説で、そういう可能性もあるかもしれないと思いましたが、それ以上に心に残ったのは、上宮(聖徳太子)が講義の前に、太子自身で法華経の教えの中身を理解しようとして模索し考察するシーンでした。本には次のように書かれていました。

「『法華経』の中に語られている重要な教えは、人々が自(みずか)らに内在する仏種を知ることで幸せになる道を見つけられるということである。皆と共に幸せになる道はそう容易に達成できるものではないが、地道に一人また一人と自らに仏種が具わっていることを分からせるしかない。常不軽菩薩のこの地道な活動が、一人から二人へと広がったように、吾も国中の者達に教えていくのだ。先ずは身近な人々から始めよう。そう決意すると上宮は、二日間の緊張から解き放たれて倒れるようにその場に突っ伏して眠り込んでしまった。」

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』

 

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2025年7月18日 (金)

奈良豆比古神社の翁舞

奈良豆比古神社
 奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)は奈良市街地の北端の奈良阪町にあります。奈良阪町は京都府との府県境に接していて、昔から奈良と京都を結ぶ街道が通っているところです。神社の前には「右 京うち道、左 かすが大ふつ道」(右 京宇治道、左 春日大仏道)と彫られた石の道標が立てられています。
 奈良豆比古神社の祭神は3柱なのですが、そのうちの1柱は、万葉集の有名な歌「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」の作者である志貴皇子(しきのみこ)です。なお、志貴皇子は天智天皇の皇子です。

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奈良豆比古神社

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奈良豆比古神社前の道標

奈良豆比古神社の翁舞
 
奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)では秋の例祭の宵宮(10月8日夜)に奈良阪町の人たちによって拝殿で翁舞が行われます。翁舞は能の原典とも言われるもので、見応えがあります。
 篝火(かがりび)が焚かれ、笛や鼓の音そして謡の声と共に、きらびやかな衣装を着て古色蒼然とした面を着けた翁が舞います。
 神社で行われる奉納舞は神様に対して踊るものですから、舞を真正面から観られるのは本殿の神様です。そのため一般の参拝客である私は、翁舞のとても良いアングルの写真を撮れませんでした。翁が3人並んで踊っているのを撮りたかったのですが叶いませんでした。

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翁舞

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三番叟

梅原猛著『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』
 翁が3人並んで踊っている写真を掲載し、奈良豆比古神社の翁舞について詳しく書いている本があります。梅原猛著の『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』です。河勝とは聖徳太子の忠臣である秦河勝(はたのかわかつ)のことで、能楽の元の猿楽の祖と言われています。
 この本は種々の面から能について述べているものですが、今回は梅原氏が書いている「奈良豆比古神社の翁舞」のことにのみ触れます。

「奈良豆比古神社は京都と奈良の境の「奈良坂(ならざか)」にある。このような境の地は、(中略)神聖な場所であり、そこには多くの神が祀られている。」
「大和と京の“境”にあるこの“場”で、翁舞が舞われたことは、この境界の地で悪魔祓いをしていたことを意味する。」

奈良豆比古神社の翁舞には白い翁の面を着けた3人が登場するのですが、「社伝」によると昔は2人が白い翁面、1人が黒い翁面を着けて舞ったのだろう、と梅原氏は述べています。そして翁舞の後半に狂言方(きょうげんがた)によって舞われる三番叟(さんばそう)は現在も黒い面を着けています。

「翁舞は確かに世阿弥の言うように『国穏やかに、民静かに、寿命長遠』の舞なのである。しかしその舞い手の中には深い哀しみ即ち黒い運命の人が存在しているのである。」

 梅原氏は、志貴皇子の子の春日王が業病に罹って奈良坂に蟄居したと言われていることを紹介し、そこに奈良時代から平安時代へ移行する時の政変と、幽閉され死んだ人のタタリを感じ取っているようでした。
 そして翁舞は、世の中を恨んでいる黒い翁、つまり三番叟が神仏具の鈴を受け取り、神仏の信者になって、五穀豊穣、千秋万歳を祝うのです。梅原氏は次のように書いています。

「奈良豆比古神社の翁舞は、秩序を破壊する、世を恨む黒い翁、即ち怨霊(おんりょう)神が国家安泰を祈って、初めて国家は安泰になるということを物語っているのである。」

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梅原猛著『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』

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2025年7月 4日 (金)

二上山と死

二上山
 二上山(にじょうさん)は「にじょうざん」とも「ふたかみやま」とも呼ばれる山で奈良県と大阪府の県境にあります。最近では「ふたかみやま」は古代の呼び方、「にじょうさん」か「にじょうざん」が現代の一般的な呼び方と言われているようです。
 二上(ふたかみ)という文字から推測できますが、雄岳(おだけ。標高517メートル)、雌岳(めだけ。標高474メートル)という2つの頂を持つきれいな山です。奈良盆地から西方に目をやると、その美しい姿が見てとれます。特に「山の辺の道」の檜原神社境内からは注連縄越しの真西に二上山が見え、西方浄土を連想する素晴らしい夕景を眺めることができます。
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二上山

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檜原神社境内から見る二上山

二上山に感じる死のイメージ
 
普段、二上山の夕焼けはオレンジ色で奇麗なのですが、時には夕焼けがどす黒い赤色になって血を思わせることがあります。そうなると二上山は「死」のイメージでいっぱいになります。
 天武天皇が亡くなって日も浅い時に、文武(ぶんぶ)ともに優秀で人望のあった大津皇子(おおつのみこ)が謀反の罪で死を賜り、その後、二上山に移し葬られたのです。歴史学者は天武の後継者の地位をめぐっての冤罪の可能性を指摘しています。
 大津皇子の姉で伊勢の斎宮になっていた大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟のことを思って詠んだ悲痛な歌が『万葉集』に数首載っています。その中から二上山が詠み込まれている歌を以下に記します。

「うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む」
 (この世の人間である私は明日からは、この二上山を弟だと思って眺めていよう。)
  ・・・歌とその大意は角川書店編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 万葉集』よりの引用。

大津皇子の墓
 現在、宮内庁が大津皇子の墓と治定しているのは雄岳山頂の二上山墓ですが、考古学的に見ていくと実際には二上山麓にある鳥谷口古墳が大津皇子の墓である可能性が高そうです。
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二上山麓にある鳥谷口古墳

折口信夫の『死者の書』
 
折口信夫(おりくちしのぶ)が書いた小説『死者の書』は、墓穴に埋められていた死者が意識を取り戻すところから始まります。

 「彼(カ)の人の眠りは、徐(シヅ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。」

「おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰(ダレ)なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。」

 死者が大津皇子であり、埋められている場所が二上山であることが、だんだんと明かされていきます。そして物語は、二上山の麓の當麻寺(たいまじ)で、藤原家の姫が蓮の糸で曼荼羅を織る話へと展開していきます。さまよえる死者の魂が曼荼羅に描かれた浄土の諸仏によって救われる、ということを表しているのかもしれません。
 私は、そのストーリー展開と、そこかしこに書き込まれている事実や歌などを見て、折口信夫の古代史に対する知識と、古代文学や仏教への造詣の深さに驚嘆しました。
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當麻寺から二上山を見る


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折口信夫著『死者の書』

 

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2025年6月27日 (金)

吉野宮滝と『吉野葛』

吉野宮滝
 吉野と言えば桜の吉野山が有名ですが、吉野にはもう一つ忘れてならない名所があります。それは持統天皇が32回も御幸したと言われている景勝地の吉野宮滝です。
 宮滝は近鉄電車の大和上市駅から東南東方向へ5キロメートルほど吉野川を遡ったところにあります。この辺りでは川幅が狭まり岸は大きな岩や変わった形の石で覆われています。訪問時の天候や川の水量に大きく影響されますが、淵や瀬の姿、水の透明度などが素晴らしいです。
 近くには縄文・弥生時代の遺跡と天武・持統天皇時代等の吉野宮跡とが重複している宮滝遺跡があります。私が訪問した時には発掘現場が埋め戻されて草地になっていました。そして遺跡の発掘調査で出てきた物や吉野宮に関する説明を展示している、吉野歴史資料館が小高い丘の方に建っていました。

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吉野宮滝

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宮滝の柴橋

国栖(くず)の紙漉きと「ものづくりの里」
 宮滝の近くの国栖(くず)では和紙作りが行われています。楮(こうぞ)の皮を剥(は)いで繊維成分化し、他の木の繊維成分も混ぜてドロドロの水溶液を作り、網の付いた木製の枠型で繊維分を掬い上げ、それを乾かして紙を作っていきます。
 私も枠型で繊維分を掬い上げることをしてみましたが、ドロドロの水溶液が冷たく感じられました。また、一枚の紙の中で厚いところと薄いところが出来ないようにするのが難しかったです。
 国栖には紙漉きの他に吉野杉の端材(はざい)を使った割箸づくりなどが行われていて「ものづくりの里」をうたっています。

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紙漉き

谷崎潤一郎作の『吉野葛』
 谷崎潤一郎の小説に『吉野葛』があります。ストーリーは、主人公の小説家が吉野を舞台にした歴史小説を書こうとしていた時に、母の実家が吉野である友人の津村から誘いがあって、一緒に吉野へ行くというものです。
 文章には吉野に関する歴史、伝説、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃、地唄など種々の要素が書かれていますので、その方面に詳しい方にはとても興味深いものでしょう。
 一読して私が思ったのは、この本は三つの奥深さを描いたもののようだということでした。一つは吉野の歴史や伝承の奥深さ、二つ目は吉野の山や自然の奥へ奥へと分け入っていること、もう一つは母を思い慕う心の強さ・深さです。
 小説家と津村は宮滝の吉野川に架かる柴橋の袂(たもと)の岩の上に腰かけていろいろな話をします。そして津村は国栖の里で紙漉きをしている娘さんと結婚するようになるのですが、その娘さんは「何処か面(おも)ざしが写真で見る母の顔に共通なところがある」(『吉野葛』本文)のでした。
 おそらく『吉野葛』の葛は葛粉のクズではなく、大阪和泉市の信太の森に伝わる陰陽師・安倍晴明と母の物語『葛の葉』のクズなのでしょう。母への思慕の深さが吉野の時空間の奥深さと一体となっているように感じられました。

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谷崎潤一郎著『吉野葛・蘆刈』

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2025年5月30日 (金)

法輪寺の三重塔

斑鳩三塔
 斑鳩三塔とは、奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔、法起寺の三重塔の三つの塔の総称です。法隆寺と法起寺の塔は飛鳥時代のものであり、法輪寺の塔は昭和時代に再建されたものです。
 現在は斑鳩町も住宅が建て込んできて、この三塔を一つの場所で見ることはなかなか難しくなっています。しかし、中宮寺が元あった場所、今は「史跡・中宮寺跡」となっていますが、ここの一角には三塔を動かずに見れるところがあります。三塔が建っている方向を矢印で表示する図が置いてあるので、それを参考にして三塔を見ると良いでしょう。家と家の間や、木と木の間の遠くに見えます。

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斑鳩三塔の方向図

落雷で焼失
 法輪寺の古代に建てられた三重塔は1944年(昭和19年)に落雷で全焼崩壊しました。この塔は国宝であったのですが、避雷針が付いていなかったのです。
 戦時中で金属が不足していたため、避雷針取り付けを申請しても許可されなかったという説明と、金属回収令によって避雷針が取り外されて拠出されたという説明の二つを聞いたことがありますが、事実はどちらだったのでしょう。以前、私は後者を事実と思っていたのですが、最近は前者が正しいのかもしれないと思うようになりました。

法輪寺三重塔の再建
 法輪寺の焼失した三重塔は、親子二代にわたる住職の熱意と勧進によって再建が開始され、1975年(昭和50年)に完成します。しかし、再建の途中では資材高騰などのために資金不足になり、工事が停滞しました。
 法輪寺の塔の再建に関しては、設計学者と宮大工職人による鉄材使用の是非をめぐる論争、随筆家・小説家である幸田文の再建支援活動、宮大工親子のライバル意識など、話題豊富です。
 そんな中で今回私が取り上げたいのは、幸田文の塔再建支援と宮大工親子の気持ちについてです。
 幸田文は名作『五重塔』を書いた幸田露伴の娘で、父の著作権を引き継いだこともあって「塔」とは深い繋がりを感じていました。法輪寺の塔の再建話を耳にして、それの資金集めに協力しようとします。斑鳩に約一年下宿住まいをして、再建工事を手伝ったり工事の進捗状況を記録したりしています。
 法輪寺の三重塔の再建に関係した宮大工として名前が出てくるのは、有名な西岡常一の他に西岡楢光、西岡楢二郎、小川三夫です。楢光は常一の父、楢二郎は常一の弟、小川は常一の唯一の内弟子です。ただ私は、ここにもう一人付け加えたい人がいます。それは常一の祖父の西岡常吉です。
 楢光は宮大工の棟梁である西岡常吉の娘婿で、結婚前は農業をしていました。常吉は、娘と楢光の子である孫の常一を立派な宮大工棟梁にしようと直接指導、言い換えれば英才教育をします。自分を飛ばされた婿の楢光の気持ちはどんなだったでしょう。想像すると胸が痛みます。
 法輪寺の三重塔の再建話が出たとき、八十三歳の西岡楢光は自分が棟梁となって塔を建てる積りでしたが、法輪寺住職から働き盛りである息子の西岡常一を棟梁にと言われ、しぶしぶ承諾したとのことです。

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法輪寺の門と再建された三重塔

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再建された三重塔の上層部

幸田文と小川三夫の本
 幸田文は法輪寺の三重塔についていくつかの随筆を書いています。特に印象に残っていますのは、幸田文全集第19巻の随筆「法輪寺の塔」にあった①の文章と、随筆「胸の中の古い種」にあった②の文章の二つです。

①「ながく塔の縁を私はうけてきたのだから、法輪寺の建立途中の塔へは、なにか、どうか、お手伝いしなければ気がすまないのである。」

②「(前略)思い立ったのは、その時だったろうか。この材をこのまま、横にしておいてはいけない。縦に立てて、組みあげていかなければ、あったら発願も、工人も、材も、そしてすでに出来上がっている相輪も、むなしいではないか、と。自分の年齢のこと、できそうもない仕事だということ、そんなことはみな押し返して、試みるまでだ、とそう思った。頓挫したのなら、起すよりほか、することはない筈だ、と思った。建てなければ、塔ではない。」

 小川三夫には『木のいのち 木のこころ(地)』という本があります。小川三夫が自分の経験や思いを語り、塩野米松が聞き書きをしたものです。この本には西岡楢光と西岡常一親子の職人ライバル意識が書かれていますが、根底に親子の感情のズレがあったのではないかと私は思います。

「その車には棟梁(常一のこと。筆者注)とおじいさん(楢光のこと。同)と俺(小川三夫のこと。同)が乗っていた。病が重かったから寝台車だった。法輪寺の前に来たんで車を止めて、
『おじいさん、法輪寺の塔ができたで、素屋根もはずれた』
 と俺がいったんだ。そうして窓から見えるように体を起こしてやった。
『見えたか、見えたか』
 って棟梁が聞いたら、
『見たっ』
 っていうんだ。しかしよ、俺がおじいさんの顔を見たら、目をぎゅっとつぶっているんだ。だから見ているわけがないんだよ。それで、
『もういいから行け』
 っていうんだ。この一週間後に、おじいさんは亡くなった。職人ってのは死ぬまでこうだもんな。」

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幸田文全集第19巻

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小川三夫著『木のいのち 木のこころ(地)』

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2025年5月23日 (金)

唐招提寺の開山忌

6月6日は唐招提寺の開山忌
 6月6日は唐招提寺を開いた鑑真和上の命日であり、開山忌が行われます。そして例年、開山忌を挟む6月5日から7日の3日間、唐招提寺御影堂が一般公開され、国宝の鑑真和上坐像を参拝することができます。
 梅雨の季節に近い日なのですが、特異日というのでしょうか、開山忌の時はあまり雨になった記憶がありません。青葉が綺麗な唐招提寺境内を歩くのは気持ち良いものです。

御影堂の障壁画
 一口に「御影堂の障壁画」と言いますが、正確には襖絵、壁画、鑑真和上坐像厨子絵の三種類で成り立っています。東山魁夷画伯が10年強の歳月をかけて完成させた素晴らしい絵画です。
 絵の内訳は、彩色で日本の海と山の風景を描いた障壁画が2点、墨絵で中国の風景を描いた障壁画が3点、そして彩色で鑑真和上たちの日本到着を描いた厨子絵が1点です。
 どの絵も素晴らしいものですが、そのような中で私の心に特に響いたのは、日本の荒々しい海から静かな渚まで連なる絵の『濤聲』と、鑑真和上坐像の厨子絵『瑞光』でした。
 『瑞光』は鑑真和上たちの乗った船が薩摩の秋目浦に入港してくる絵で、瑞雲が黄金色で描かれ、神々しいと感じました。強い使命感を持ち、艱難辛苦を乗り越えて日本にやってきた人々を神仏が祝福しているように見えたのです。

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唐招提寺・御影堂の間取りと障壁画

国宝の鑑真和上坐像
 国宝の鑑真和上坐像は日本最古の肖像彫刻で傑作と言われています。実際、坐像の前に座って像を仰ぎ見ると、そこに生きている人がいるように感じます。慈愛に満ちた言葉をこちらにかけて下さっているように思われるのです。そして盲目の閉じた目からは強い意志の力が伝わってきます。励まされているように感じるのです。
 開山忌の一般公開には多くの参拝者が唐招提寺の御影堂へ行きますので、坐像正面の焼香席には長いこと居られません。しかし、数メートル後方へ下がって座り、「鑑真和上」を仰ぎ見詰めることは時間を気にせずに出来ます。

芭蕉の句
 講堂と東室(ひがしむろ)の間に開山堂があります。数年前までは本願堂と呼ばれていたものですが、堂を修理して、鑑真和上坐像のお身代わりの像を造って安置し、現在は開山堂となりました。
 お身代わりの像は国宝の鑑真和上坐像を模して造られたものです。国宝の坐像が1年に数日しか一般公開されないのに対して、こちらは荒天を除きいつでも参拝できます。
 開山堂の手前には松尾芭蕉の句碑が建っています。石に彫られている文字は若干アレンジしてありますが、俳句は原本の『笈の小文』の表記に基づけば「若葉して御めの雫ぬぐはばや」です。

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唐招提寺(開山堂前)にある芭蕉の句碑

本『迦陵頻伽 奈良に誓う』
 拙著『迦陵頻伽(かりょうびんが) 奈良に誓う』では唐招提寺の開山忌について詳しく書いています。
 第一部とも言うべき「迦陵頻伽 奈良に誓う」の「第四章 青葉」では、国宝の鑑真和上坐像と東山魁夷画伯の描いた襖絵について書きました。

「あずさが座って目を上げると、目の前に本でしか見たことがなかった鑑真和上坐像があった。大きな黒い艶々した厨子の中は、薄い青ねずみ色の垂れ幕が左右に開かれ、適度な薄暗がりとなっていて、和上は盲目の目をつぶって静かに座っていた。高僧がそこに生きて座禅を組んでいるようだ。(中略)。膝の前に組んだ指が太い。静かだ。そこに鑑真とあずさの二人だけがいて、何も動かない。時が止まったようだ。やがて和上のゆっくりした呼吸があずさの呼吸になっていく。優しさに包まれた強さが伝わってきた。」

 第二部とも言うべき「迦陵頻伽 萬世同薫」の「第三章 雫」では、芭蕉の俳句『若葉して御めの雫ぬぐはばや』の新解釈を述べています。

「今述べましたように鑑真和上の行動を見てきますと、使命感に燃え、艱難辛苦に耐え、十二年もの歳月をかけて日本へ来た不屈の和上が、また、日本における冷遇をものともせず毅然として真の仏教を広めていった和上が、芭蕉の句の一般的解釈のように、悲しみの涙や望郷の涙を流すとは、私にはとても思えないのです。」
「(私の)解釈をもう一度まとめて言いますと、こういうことです。若葉の季節に、芭蕉は鑑真和上の尊像を拝み、感動に打ち震えます。和上の慈悲の心、不撓不屈の精神が、盲目の和上の姿から伝わってきます。降りかかってくる鑑真和上からの限りない恩顧、雫は、仮に拭い去ろうとしても出来ないほどたくさんのものだったのです。燦然と降り注ぐ木漏れ日のように。」

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鏡清澄著『迦陵頻伽 奈良に誓う』

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