法隆寺は謎の多い寺
奈良県斑鳩町の法隆寺は謎の多い寺です。いつ、誰によって、何のために建てられた寺なのか、今でも明確には分かっていません。
一般に法隆寺は聖徳太子によって建てられたと言われていますが、聖徳太子が建てたのは斑鳩寺であって、現在の法隆寺(西院伽藍)ではありません。もっとも、斑鳩寺が燃えてしまったので現在の法隆寺が再建されたと考えれば、法隆寺は聖徳太子が建てたと言えなくもありませんが、寺の性格がかなり大きく変化しているように思うのです。
斑鳩寺の創建趣旨は、推古天皇の兄であり、聖徳太子の父でもある、用明天皇を弔うというものでした。しかし現在の法隆寺は聖徳太子を尊崇する寺になっています。奈良・平安時代以降の聖徳太子信仰の高まりがそういう変化をもたらしたのでしょうか。
また、あれだけ大きくて立派な寺なのに『日本書紀』などに建築の記事がないのが不思議です。
法隆寺の西院伽藍(金堂と五重塔)
法隆寺境内にある若草伽藍跡
法隆寺の西院伽藍から東院伽藍へ向かう道の南側に実相院、普門院という塔頭がありますが、それらの建物の南側に広々とした空き地があります。昔に斑鳩寺があった若草伽藍跡です。草が短く刈られ芝生のようになった空き地に礎石がポツンと置いてあります。西方に目を向けると西院伽藍の五重塔の上部が樹々の上に見えます。
真偽のほどは分かりませんが、『日本書紀』によれば、西暦643年に蘇我入鹿の手の者に襲われて聖徳太子の嫡男の山背大兄王子とその一族が斑鳩寺で自害したとのことです。また斑鳩寺は西暦670年に火災で全焼したと『日本書紀』に書かれています。
若草伽藍跡
本『隠された十字架―法隆寺論』で提示された大胆な仮説
現存の法隆寺が何故建てられたのかについて、大胆な仮説が今から約50年前の1972年に発表されました。哲学者の梅原猛氏が豊富な知識と人並はずれた直観力で考察執筆した本がそれで、タイトルは『隠された十字架―法隆寺論』です。発表当時、非常に話題になりベストセラーとなりました。私も知的興奮の中で、夢中になって読んだ記憶があります。
本の結論は「法隆寺は怨霊鎮魂の寺である」というものでした。その論拠として印象に残っている主なものは次の三点です。
①法隆寺中門の真ん中に柱があるのは、聖徳太子の怨霊をとじこめるためである。
②夢殿の本尊の救世観音は聖徳太子の等身像であるが、その光背は像の頭部に太い大きな釘で打ち付けられている。すなわち、呪いをかけられ閉じ込められている。
③法隆寺の重要な法要である聖霊会で踊られる蘇莫者(そまくしゃ)の舞は、蘇我の莫(な)き者の霊を年に一度慰め、閉じ込めておくためのものである。
中門(真ん中に柱)
歴史家たちによる批判・反論
『隠された十字架―法隆寺論』について多くの歴史家や美術史家から批判・反論が起こりました。批判・反論した主な人は田村園澄氏、坂本太郎氏、直木孝次郎氏、町田甲一氏、石井公成氏などで、上記の①~③項への批判・反論は次の通りです。
①法隆寺(西院)が建てられる頃にはまだ「怨霊」を恐れる認識がなかった。聖徳太子の死後、太子が怨霊となったという文献史料はない。
②救世観音の光背は頭部に太く大きな釘で打ち付けられていない。事実誤認である。
③蘇莫者(そまくしゃ)は、「蘇我の莫(な)き者」というものではなく、シルクロードで盛んになって中国で流行した冬の行事であって、その祭りの西域の呼び名を漢字で「蘇莫遮」(そまくしゃ)と音写したものである。
これらの歴史家たちからの批判・反論に対して梅原猛氏は「ほとんど反論はない」として、まともに答えなかったため、歴史家さんたちでの評判は良くないようです。
ただし、それまで歴史家などの専門家が個別の分野ごとでは精密な研究や論文発表して来てましたが、誰が、何のために、いつ、法隆寺を建てたのかというような全体的な考えを発表してなかったため、梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』を初の総合的な考察として評価する意見もあります。
本『隠された十字架―法隆寺論』
本書は冒頭から読者の心をグイッと鷲掴みにします。その挑戦的な文章を引用掲載します。
「この本を読むにさいして、読者はたった一つのことを要求されるのである。それは、ものごとを常識ではなく、理性でもって判断することである。常識の眼でこの本を見たら、この本は、すばらしき寺、法隆寺と、すばらしき人、聖徳太子にたいする最大の冒瀆に見えるであろう。日本人が千何百年もの間、信じ続けてきた法隆寺像と太子像が、この本によって完全に崩壊する。」
梅原猛著『隠された十字架ー法隆寺論』
本『法隆寺の謎』に書かれていた「注目すべき謎」
ベストセラーになった『隠された十字架―法隆寺論』ほどには注目されませんでしたが、法隆寺管長の高田良信師の書いた本に『法隆寺の謎』というものがあります。この本に書かれていたことで、一点だけ今も私の心に強く残っている「謎」があります。それは次のものです。
「皇極二年(六四三)、山背大兄王らが自決した斑鳩寺とは本当に今の若草伽藍であったのだろうか。もし、若草伽藍の地で自害されたのならば、太子とその御一族を尊崇し渇仰する人びとは、法隆寺の再建、夢殿の建立につづいて、山背大兄王ら殉教者が自決した聖地である若草の地に供養堂を建てているべきではなかったか。しかし、記録の上でも、発掘の結果もそのような痕跡は見出されない。若草の地は永年、荒野として放置されたままである。私はこれをどのように解釈していいのか、どうしても納得できないものを感じる。」
高田良信著『法隆寺の謎』