「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第7回:自灯明、法灯明
<このシリーズの第1回~第10回の記事は、ホームページ『鏡清澄の部屋』に掲載したものを、ホームページの閉鎖に伴い当ブログ『鏡清澄の部屋2』に移動掲載したものです>
今回は釈迦の遺言ともいうべき教え「自灯明、法灯明」について学び、考えてみます。
●自灯明、法灯明とは
「自灯明、法灯明」とは、釈迦が亡くなる前に弟子のアーナンダに伝えた教えで、釈迦の遺言とも言えるものです。
アーナンダが「師匠のお釈迦様が亡くなったら、その後は何を頼りにしていけば良いのですか?」と釈迦に尋ねました。
釈迦の答えのエッセンスは、「自分をたよりなさい。法をよりどころとしなさい」というものでした。
釈迦の答えの本来の文章は次の通りです。
「自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
●「島」と「よりどころ」
なぜ「(自らを)島とし、(自らを)たよりとして」、「(法)を島とし、(法)をよりどころとして」と述べているのでしょうか?
それはこういう事情からです。
釈迦が説法していたインド北部地域は雨季(8月頃)に一面が大洪水になり、家も畑も水につかります。
そんな時は、小高い丘が島となって人々の避難所になります。
島が頼れるところになるのです。
その生活実感から、たよるものとしての「自ら」や、よりどころとしての「法」を、「島」と譬えたのです。
●「自らをたよる、法をよりどころとする」とは
「自らをたよりとする」とは、一人の人間として自立した生き方をすることです。
具体的には、他者に迎合したり、隷属したり、依存したりしないことです。
ここでの「法」の意味は、「真理(普遍的に正しいこと)」、「人間として生きてゆくための規範」です。
そのため、「自らをたよる、法をよりどころとする」とは、他者に頼らず自立して、普遍的に正しいこと、人間としての規範を、自分としてしっかり持って、それを依り所として生きてゆくことを意味しています。
●「自灯明、法灯明」は誤訳の産物
「自灯明、法灯明」とは、「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という教えです。
本来は「自らを島とし・・・、法を島とし・・・」と訳されるべきところのものです。
しかし、サンスクリット語で島を意味する「dvipa」と、パーリ語などの俗語で灯明を意味する「dipa」が似ているため、漢訳者が誤訳したものと考えられています。
●誤訳でもイメージが合う「自灯明、法灯明」
灯明を「灯り、松明(たいまつ)」と解釈すれば、誤訳であっても、「自灯明、法灯明」は本来の意味にほぼ合致していると私は思います。
「灯り、松明」が暗い夜道を導いてくれるように、「自らを灯りとし、法を灯りとしてゆく」と受け取れます。
インド北部の大洪水の状態と、そこでの「島」の有難さが分かりづらい日本人には、「自灯明、法灯明」の方がかえって良いように思えます。
●付録の話:「人」と「法」との関係性
繰り返しになりますが、「自灯明、法灯明」とは、「他者に頼らず、普遍的に正しいこと、人間としての規範を自分がしっかり持って、それを依り所として生きてゆくこと」の大切さを教えたものです。
その点を押さえれば「自灯明、法灯明」の学びとしては良いと思いますが、付録としてもう一歩深掘りした考えを示しておきます。
「自灯明、法灯明」の教えを深掘りした考えとして言われる事は、「人(にん)」と「法」の一体化です。
つまり、他者に頼らず、自分が一人の人間として、法(普遍的に正しいこと、人間としての規範)を自覚し、実践することで、法は人によって体現化されます。
それが「人と法の一体化」です。
人が法を自覚し実践することで、人としてより良い存在、より高度な存在、より完成に近づいた存在になると考えられているようです。
そして法もまた、人の実践によって、生きた価値のあるものになるのでしょう。
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