« 2025年9月 | トップページ | 2025年11月 »

2025年10月

2025年10月28日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)

●古代インドにおける思想の乱立
釈迦がいた頃の古代インドでは、商工業者による経済発展に伴って、いろいろな新しい思想が唱えられました。
その中で主な思想家の6人は六師と呼ばれ、それぞれが次のような考えを主張しました。
・プーラナは、道徳を否定し、殺生や強盗などは悪でないと主張。
・パクダは、人間の個体は地・水・火・風・苦・楽・命(霊魂)7つの要素の集合に過ぎないと主張。
・ゴーサーラは、宿命論で、意思による行為は不成立と主張。
・アジタは、唯物論で、地・水・火・風の4元素のみ真の実在であり、人間は死ぬと4元素に分解される主張。その結果、「生きている間は快楽を享受せよ」との快楽論を主張。
・マハーヴィラは、苦行による心身浄化や不殺生を主張。
・サンジャヤは、懐疑論で、判断や思考は無駄だから停止すべきと主張。
六師の思想は後の世に発展した様々な思想の萌芽と呼ぶべきものですが、この思想的混乱の中から現れたのが釈迦です。

●五蘊(ごうん)とは
蘊(うん)は原語のサンスクリット語ではスカンダーであり、意味は「集まり、集合、薪(まき)の束」です。
そのため、五蘊とは「5つのものの集まり」と言えます。
人間は五蘊(色・受・想・行・識の5つの基本要素)によって出来ているというのが、釈迦による「人間の捉え方」です。

色・・・本来は外界にある「物質全般」の意味ですが、ここでは「肉体」のことと考えると分かり易いです。
残る4つ(受・想・行・識)は内面、心の世界に関係する要素です。

受・・・外界からの刺激を感じ取る感受の働きです。
例としては、氷に触れた時に「冷たい!」と感じることがあげられます。
また、受は「痛」・「覚」とも訳され、われわれが何かを認知するときに生じる、快(かい)、苦、快でも苦でもない感情、などの印象・感覚をいいます。
受は全ての経験に対するわれわれの「感じ方」だけではなくて、将来の経験の仕方をも条件づけます。
つまり、「快」の経験は、その持続や再現の欲求を生じさせ、「苦・不快」の経験は、それを終わらせ、再現を阻止しようとする欲求を生じさせます。

想・・・考えを組み上げたり壊したりする構想の働きです。
事物の特徴を捉えること、心に思い浮かべることと言っても良いでしょう。
また、想は受によって生じた認知を概念としてまとめることと言えます。
例としては、「氷は冷たいもの」と考えをまとめることが挙げられます。

行・・・何かを行おうと考える意思の働きです。例としては、冷たいから氷に触れないようにしよう、というものです。
行は、原語のサンスクリット語でサムスカーラと言い、もともとの意味は「為す、作る、共に」です。
ここから、行は、形成力(形成の過程、形成されたもの)、意欲、志向などの意味を持つようになりました。
そして、ここが重要な点だと私は思うのですが、行は、成長などの過程で獲得したもの全てが、一人の人間の今に、意欲、志向性、煩悩などとして現れることだと言われています。
行は潜在的であり、通常は意識されないとも言われています。
つまり、ものごとに接して感じ取り、概念としておおよそ捉えると、経験や知識として体内に蓄積され、それらが無意識のうちに人間の行動に影響を及ぼすということでしょう。
「感じ取る」という受け身の行為が「行動する」という能動的なものに変化してくるように思われます。

識・・・心的作用のベースとなる認識の働きです。
識とは、「区別する」ことによって「知る、認識する」ことであり、「分別」とも訳されています。
識(知性)によって、人間を五蘊として理解し、その業を形成する原因である三毒を滅するように、意識的に努力していくことが、その人自身を救うことになると考えられています。

●釈迦の問題意識と人間の捉え方
釈迦の問題意識を振り返って考えれば、それは、「苦は人のどのような心の働きによって生じるのか?」です。
釈迦の人間の捉え方は、「人間は色・受・想・行・識という5つのものの集まり」というものでした。
その5つのものが縁起の法則(直接的な原因と間接的な原因(縁)が結果をもたらし、その結果がまた原因となっていく)によって影響しあっていく。
それが人間の「心身」であると捉えたのです。
言い換えると、人間の存在は「絶え間なく姿を変える意識の流れ」と捉えたと言えます。
これは唯物論や現代の自然科学に基づく人間観にどっぷり漬かっている現代人にはなかなか理解が出来ない内容ですが、釈迦は「人間を絶え間なく姿を変える意識の流れ」と捉えたのです。
縁起の法則、万物流転の思想から言えば、そういう捉え方になるのかと思いました。
なお、釈迦は、死後の世界がどうなるかなど、知ることが不可能なものを探るのではなく、心の観察によって誰もが知ることのできる「心の構造」を明らかにしようとしたのです。

釈迦の問題意識と人間の捉え方に関連して、現時点での私の理解、ないし思い付き的な気付きを以下に書いておきます。
今後、仏教について学んでいく時の検討項目になるかもしれないと思うからです。
・「一切皆苦(世界の全ては苦)、苦の原因は煩悩」と一般に言われていることが、理解を難しくしているのではないでしょうか。全ての苦しみが煩悩によって起こるとは言えないと私は思うのです。
・釈迦が言いたかったこと、したかったことは、
   ①人間は肉体と心が混ざり合い影響し合って出来ている。もしくは肉体を依り代として心が住みつき、心が変化していく、「心的変化が人間」ということを言いたかったのでは?
   ②心的苦しみがどうして発生するのかを明らかにしたかったのでは?

|

2025年10月27日 (月)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第9回:釈迦の思想(四諦、八正道)

●釈迦の思想のベース
釈迦(ブッダ)が出家をしようと考えた「きっかけ」は、釈迦が都の4つの門から外出した時に、それぞれの所で老人・病人・死人・出家者を見たことと言われています。
この話は一般に「四門出遊」として知られています。
この話から言えることは、釈迦に出家を促した直接の動機は民衆の苦しみに対する深い同情だったということです。
当時、多くの修行僧が求めていた自分自身のみの救済とは全く目的が違うものでした。
釈迦は、全ての生きものに対する同情の念(慈悲)を基に、あらゆる人間の(精神的)救済を行なおうとしたのです。
この精神的に救済され、心が安らぐ状態のことを「覚り」と捉えると分かり易いです。

●覚りへ至る道
釈迦が説いた「覚りへ至る道」の内容は「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」です。
四諦の「諦」は、「アキラメル、断念する」の意味ではなく、「あきらかにする、あきらかなもの、まこと、真理」の意味です。
四諦とは、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つの真理のことで、それぞれの意味は次の通りです。
①苦諦(くたい)・・・「迷いの生存」は苦であるという真理です。
「迷いの生存」とは、この世のものごとが因縁果で全て結びついているという真実を知らないで生きていることです。
なお、一部の仏教解説書では「苦諦を、“人生皆苦、この世は苦に満ちている”という真理」と説明しているものがありますが、私はこの解釈では救いが感じられず、受け入れることが出来ません。
釈迦も精神的な救済をしようとして、煩悩の撲滅ということに思いが至ったのだと思います。
②集諦(じったい)・・・苦の原因は渇愛のような煩悩であるという真理です。渇愛とは、喉が渇いた人が激しく水を求めるような激しい愛着のことです。
③滅諦(めったい)・・・渇愛が完全に捨て去られたときに苦が死滅するという真理です。
④道諦(どうたい)・・・苦の死滅に至る道筋が八正道にあるという真理です。
この四諦、苦集滅道は次のように解釈すると分かり易いです。
苦は苦しみが溢れているという病気の症状、集は病気の原因、滅は病気の回復、道は病気の治療方法と理解できます。
八正道とは、苦の死滅に至る道筋、煩悩の消滅を実現するための八つの道のことです。
八つの項目の簡単な説明文は、左側が浅野孝雄著『ブッダの世界観』、右側の( )書きが仏教学者の佐々木閑著『100分で名著 般若心経』からのものです。
①正見・・・・正しい見解   (正しいものの見方)
②正思・・・・正しい思惟   (正しい考え方をもつ)
③正語・・・・正しい言葉   (正しい言葉を語る)
④正業・・・・正しい行い   (正しい行いをする)
⑤正命・・・・正しい生活   (正しい生活を送る)
⑥正精進・・・正しい努力   (正しい努力をする)
⑦正念・・・・正しい思念   (正しい自覚をもつ)
⑧正定・・・・正しい精神統一 (正しい瞑想をする)
以上が四諦と八正道の説明ですが、八正道は八個も項目があるので、ちょっと理解しづらいです。

●参考・・・八正道と三学
そこで、参考として八正道の項目を三つのグループに分けてみます。
そうしますと、八正道が仏教でいうところの「三学」になることが分かります。 
八正道の、③正語(正しい言葉を語る)、④正業(正しい行いをする)、⑤正命(正しい生活を送る)の三項目は、「悪いことをせず、善いことを行なう」というグループにまとまります。
次に八正道の、⑥正精進(正しい努力をする)、⑦正念(正しい自覚をもつ)、⑧正定(正しい瞑想をする)の三項目は、「精神を統一し、思いが乱れないようにする」というグループにまとまります。
最後に八正道の、①正見(正しい物の見方)、②正思(正しい考え方をもつ)の二項目は、「静かになった心で、正しく真実の姿を見極める」というグループにまとまります。
これら三つのグループは順に、戒(かい)、定(じょう)、慧(え)と呼ばれ、それらを学ぶことを戒学(かいがく)、定学(じょうがく)、慧学(えがく)と言います。
そしてこれらの三つを合わせて「三学」と言います。
三学とは、仏道を修行する者が必ず修めるべき三つの基本的な修行の項目です。
三学の戒学、定学、慧学は次のような関係にあります。
戒を守り生活を正すことで、精神的に安定し(定:じょう)、安定して澄んだ心によって智慧を発する。
智慧は真理を悟り悪を断ち、生活を正し、仏教が体現されていく。
★私見・・・上記から、八正道は三学そのものであり、仏教の習得・実践の必修科目と言えそうです。

Photo_20251019184301

|

2025年10月26日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第8回 仏教の「死の捉え方」

●仏教と「死」
仏教は宗教ですから死について多くのことが述べられているはずと思っていましたが、調べてみたら実は意外と述べられていることが少なかったです。
仏教の創始者である釈迦が、死後のことについてほとんど語っていないのです。
そのため、現時点で知っている「仏教に出てくる死に関する事柄」を挙げて整理してみます。
そして「死」について自分なりの考えを持てれば良いなと思いますが、「死」は人生の一大事ですから、そう簡単には結論が出ないでしょう。
今後時間をかけて、「仏教に出てくる死に関する事柄」をベースにして、「死」について考えていくようにします。

●「仏教に出てくる死に関する事柄」
私が現時点で知っている「仏教に出てくる死に関する事柄」を列挙すると次の通りです。
① 四苦八苦の「生老病死」
② 仏教説話で「死人の出ていない家は無い」という話
③ 昔よく言われた「死後は天国か地獄へ行く」という話
④ 六道輪廻(ろくどうりんね、りくどうりんね)
⑤ 倶会一処(くえいっしょ)
⑥ 生死一如(しょうじいちにょ)
⑦ 十二支縁起と死
⑧ 釈迦は死後について、ほとんど語っていない
それぞれについて内容を見ていきましょう。

●生老病死
苦しい状態を表す言葉に「四苦八苦」というものがありますが、この言葉の元は仏教です。
八つの苦しみがあると仏教では言っているのですが、「四苦」に焦点を当てれば、
四苦とは、
生苦(しょうく。生まれる苦しみ)、
老苦(老いる苦しみ)、
病苦(病む苦しみ)、
死苦(死ぬ苦しみ)
の四つです。
それぞれの最初の文字を並べて「生老病死」と表現されています。

ところで、仏教の経典が書かれたサンスクリット語(古代のインド語)では、「苦」はダッカ(duhkha)で、元々の意味は「意の如くならないこと」です。
つまり、生老病死は「意の如くならない、思い通りにならない」ことと解釈できます。
「なぜ意の如くならないか?」と考えてみますに、おそらく諸々のことが変化していくからでしょう。
私にはそう思えます。

●死人の出ていない家は無い
仏教説話に以下のようなものがありました。
・キサーゴータミーという若い母親が、可愛い子供を亡くして嘆き悲しみます。
・その若い母親は釈迦に子供を生き返らしてほしいと頼みます。
・釈迦は生き返らす薬を作るために芥子の実をもらってくるよう、母親に言います。
・ただし、芥子の実はこれまでに死人の出ていない家からもらってくるように。そうでないと薬にならないと話します。
・母親は必死に何軒もの家を巡って芥子の実を求めましたが、死人の出ていない家は一軒もありませんでした。
・そこで、母親は「死が避けられない」ことを知ったのでした。

●死後は天国か地獄へ行く
かつて日本では、「人は死んだら、天国か地獄へ行く。どちらへ行くかは、生きている時の行いの善悪による」とよく言われていました。
これは次に述べる「六道輪廻(ろくどうりんね)」の考えを単純化し、分かり易く述べたものです。
生まれ変わりの考えに倫理観を結び付け、善い行いを勧めていたものと思われます。

●六道輪廻(ろくどうりんね)
釈迦は死後に関して自らの考えを述べていません。
釈迦が亡くなった後、ヒンズー教の「輪廻(りんね)」思想が仏教に入りました。
輪廻とは、生ある者が生死を繰り返すことです。
生まれ変わる場所として十の世界(十界。じっかい)があるとされました。
地獄界、
餓鬼界、
畜生界、
修羅界、
人間界、
天上界、
声聞界、
縁覚界、
菩薩界、
仏界、
です。
このうち、地獄界~天上界までの六界(六道)に、ほとんどのものは無限に生死を繰り返すとされ、それが「六道輪廻」と言われました。
そして古代インドでは、無限に生死を繰り返す輪廻から脱却することが望まれました。

●倶会一処(くえいっしょ)
倶会一処とは阿弥陀経で説いている教えです。
民衆に極楽浄土へ生まれるよう願うことを勧めています。
その理由は、浄土の仏・菩薩たちと倶(とも)に一つの処で出会うことが出来るからとのことです。
倶会一処の「一つの処」とは浄土のことを意味しています。
愚考と言いますか、私の拙い考え、感じることを述べますと次の通りです。
上記の「浄土の仏・菩薩たち」を、既に亡くなっている親しい人たち(例えば、父母、兄弟、友人など)と考えれば、「死」を恐れないで、楽しみもあると感じられるようになるのかもしれない、と思います。

●生死一如(しょうじいちにょ)
生死一如とは、「生と死は一つのもの」という意味です。
そして生死一如に関して仏教界で一般に言われていることは、次の通りです。
・生きているものは死にます。
・死ぬということは、それまで生きていたということです。
・死があることによって一所懸命に生きようとします。
・死を受け入れ、死の準備をして、精一杯生きて行くことが大切です(と説いています)。
愚考。ふたたび私の拙い考えですが、私はこのようにも思います。
・生と死は繋がり、影響し合っているから、「生と死は一つのもの」と言われている
 面もあるのではないでしょうか?
・生死が繋がっていず、一つの延長線上にない(本質的に同じものでない)とすれば、これまでの無数の命の誕生と死亡はなかったように思うのです。

●十二支縁起と死
十二支縁起とは、人の心に苦しみが生じるメカニズムを十二段階で説明したものです。
十二段階の説明の出発点は無明(苦悩の原因は因果の道理に対する無知)で、終着点は苦悩の最たるものの老死(老い死にゆくこと)と述べられています。
十二支縁起の十二の段階を逆に遡って原因を解決して行けば、苦悩は無くすることが出来ると説いています。
なお、十二支縁起の「支」のそれぞれの意味については後日学習の予定です。

●十二支縁起と循環生成
脳科学者の浅野孝雄氏が下記の説を述べています。
・十二支縁起は直線的因果関係ではなく、循環的(円環的)因果関係として把握するべきです。
・十二支縁起の「支」は、原語のサンスクリット語で「ニダーナ(ni-dãna)」といい、「次の原因となる」ことを意味しています。 
・直線的因果関係では最後に来る「老死」も、循環的因果関係では十二番目の「支」として、「次の原因、つまり最初の無明の原因となる」と考えます。
 (なお、循環的因果関係では最後とか最初とかの順番も無意味になると、私=鏡は考えます)
・十二支縁起を循環的因果関係と捉えると、古代に認識されていた「自然の循環生成」の考えと重なり合います。
 (「自然の循環生成」とは、自然に多く見られる年々の繰り返しや種々のものの繰り返しのことと私=鏡は推測しました)

Photo_20251019171501

●釈迦は死後についてほとんど語っていない
「生命は死に終わる」と仏典に書かれています。
「命あるものは必ず死ぬ」というのが、釈迦の考えであり、古代インドでの一般的な考えでした。
しかし、釈迦は霊魂や死後のことなどについて、ほとんど語っていません。
霊魂や死後の話などは、無益で、真理に合致していない抽象論だというのが、その理由です。
またまた愚考で恐縮ですが、釈迦は、この世で現実に苦しんでいる民衆を救うことが大切、と思っていたのではないでしょうか?
・「現世の利益を訴えるのは低俗な宗教だ」という意見をときどき聞きますが、本当にそうでしょうか?
・仏教を始め多くの宗教は、現実の苦しみから人々を救おうとして発生してきたのではないでしょうか?私にはそんなふうに思えてなりません。

|

2025年10月25日 (土)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第7回:自灯明、法灯明

●自灯明、法灯明とは
「自灯明、法灯明」とは、釈迦が亡くなる前に弟子のアーナンダに伝えた教えで、釈迦の遺言とも言えるものです。
アーナンダが「師匠のお釈迦様が亡くなったら、その後は何を頼りにしていけば良いのですか?」と釈迦に尋ねました。
釈迦の答えのエッセンスは、「自分をたよりなさい。法をよりどころとしなさい」というものでした。
釈迦の答えの本来の文章は次の通りです。
「自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

●「島」と「よりどころ」
なぜ「(自らを)島とし、(自らを)たよりとして」、「(法)を島とし、(法)をよりどころとして」と述べているのでしょうか?
それはこういう事情からです。
釈迦が説法していたインド北部地域は雨季(8月頃)に一面が大洪水になり、家も畑も水につかります。
そんな時は、小高い丘が島となって人々の避難所になります。
島が頼れるところになるのです。
その生活実感から、たよるものとしての「自ら」や、よりどころとしての「法」を、「島」と譬えたのです。

●「自らをたよる、法をよりどころとする」とは
「自らをたよりとする」とは、一人の人間として自立した生き方をすることです。
具体的には、他者に迎合したり、隷属したり、依存したりしないことです。
ここでの「法」の意味は、「真理(普遍的に正しいこと)」、「人間として生きてゆくための規範」です。
そのため、「自らをたよる、法をよりどころとする」とは、他者に頼らず自立して、普遍的に正しいこと、人間としての規範を、自分としてしっかり持って、それを依り所として生きてゆくことを意味しています。

●「自灯明、法灯明」は誤訳の産物
「自灯明、法灯明」とは、「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という教えです。
本来は「自らを島とし・・・、法を島とし・・・」と訳されるべきところのものです。
しかし、サンスクリット語で島を意味する「dvipa」と、パーリ語などの俗語で灯明を意味する「dipa」が似ているため、漢訳者が誤訳したものと考えられています。

●誤訳でもイメージが合う「自灯明、法灯明」
灯明を「灯り、松明(たいまつ)」と解釈すれば、誤訳であっても、「自灯明、法灯明」は本来の意味にほぼ合致していると私は思います。
「灯り、松明」が暗い夜道を導いてくれるように、「自らを灯りとし、法を灯りとしてゆく」と受け取れます。
インド北部の大洪水の状態と、そこでの「島」の有難さが分かりづらい日本人には、「自灯明、法灯明」の方がかえって良いように思えます。

●付録の話:「人」と「法」との関係性
繰り返しになりますが、「自灯明、法灯明」とは、「他者に頼らず、普遍的に正しいこと、人間としての規範を自分がしっかり持って、それを依り所として生きてゆくこと」の大切さを教えたものです。
その点を押さえれば「自灯明、法灯明」の学びとしては良いと思いますが、付録としてもう一歩深掘りした考えを示しておきます。
「自灯明、法灯明」の教えを深掘りした考えとして言われる事は、「人(にん)」と「法」の一体化です。
つまり、他者に頼らず、自分が一人の人間として、法(普遍的に正しいこと、人間としての規範)を自覚し、実践することで、法は人によって体現化されます。
それが「人と法の一体化」です。
人が法を自覚し実践することで、人としてより良い存在、より高度な存在、より完成に近づいた存在になると考えられているようです。
そして法もまた、人の実践によって、生きた価値のあるものになるのでしょう。

|

2025年10月24日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第6回:仏教の概略歴史

●仏教の概略歴史(成立期)の重要点
まず始めに、仏教の概略歴史(成立期)のポイント、重要な点を箇条書きにしてみます。
① 一般に仏様と呼ばれることが多い釈迦は、名前がゴータマ・シッダルタという歴史上実在した人物です。
② 仏教の経典、いわゆる「お経」は釈迦が自分で書いたものではなく、釈迦が亡くなった後で弟子たちが「私は釈迦がこう説いていたのを聞いた」ということを話し合って、文書にまとめたものです。
③ 成立期の仏教は、原始仏教⇒上座部仏教(小乗仏教)⇒大乗仏教と変遷してきました。
・原始仏教・・・・・釈迦が説いたのとほぼ同じ内容と言われる教え。
・上座部仏教・・・釈迦滅後、自己救済にのみ注力し大衆救済を後回しにした教え。
・大乗仏教・・・上座部仏教では釈迦の基本思想である大衆救済が出来ないと述べ、大衆救済を復活発展させた教え。
④ お経は、上記の原始仏教、上座部仏教、大乗仏教の各段階で作られたもの、その後に中国その他で作られたものなど、色々なものが有ります。

●仏教の概略歴史(成立期)を見てみる
・釈迦は紀元前463年に誕生し、紀元前383年に80歳で没しています。
・釈迦滅後すぐに第一回結集が行われます。
結集とは経典作成会議で、釈迦の弟子たちが集まって協議して経典を作っていきました。
・結集は釈迦が没してから約100年後に第二回が、約130年後に第三回が行われます。
死後100年以上も経ってから「釈迦の教えはこうだったと聞いた」、「釈迦の教えはこうだったに違いない」という話し合いが行われ経典が作られていったのです。
・そしてほぼ同時期に小乗仏教教団がいくつもの派に分かれていきます。
ある派は寺や塔を建てること、多くの寄進をすることを推奨するようになり、民衆救済から掛け離れていきます。
・そのような小乗仏教の状態を批判し、民衆救済に注力する大乗仏教運動が紀元前100年頃に興ります。
・約200年後の紀元100年頃に仏教は中国に伝わります。
中国には上座部仏教(小乗仏教)、大乗仏教の両方が伝わるのですが、民衆救済の考えから大乗仏教が受け入れられ、上座部仏教は広まりませんでした。
・そしてその400年後の紀元500年過ぎに、中国や半島三国(百済、新羅、高句麗)を経由して日本に仏教が伝来します。
中国で広まった大乗仏教のみが伝わってきました。

Photo_20251019142501

●仏教の概略歴史(日本)の重要点
ここでも仏教の概略歴史(日本)のポイント、重要な点を箇条書きにしてみます。
① 仏教が日本へ伝わった飛鳥時代には、聖徳太子が仏教の思想を広めようとしましたが、それは定着せず、仏教は主に国家鎮護のために活用されました。
② 江戸時代にはキリスト教禁止の関係で寺が統治機構の末端を担うようになり、多くの寺は民衆に寄り添ったり、教えを広めたりすることをほとんどしなくなりました。
③ 昭和の太平洋戦争後は、無縁社会化で少なからずの寺の存続が危ぶまれる状態になってきました。
そのため今後の寺のあり方が模索され始めています。

●仏教の概略歴史(日本)を見てみる
・飛鳥時代に仏教が伝来します。
聖徳太子は維摩経・勝鬘経・法華経の3つの経典について講義を行なったり、解説書(義疏)を書いたりして、仏教の考えを広めようとしました。
・奈良・平安時代の仏教は、時の政府によって主に国家鎮護の為のものと位置づけられ活用されました。
・鎌倉時代には法然・親鸞・日蓮などによって仏教が民衆に広まっていきました。
しかし仏教の思想が深く広く伝わる迄には行きませんでした。
・江戸時代にはキリスト教禁止の関係で「寺請制度」が実施されます。
それぞれの家が檀家として寺に登録され、寺が統治機構の末端の役割を果たすようになります。
その結果、寺の経営基盤が強化され、多くの寺は布教活動に熱心に取り組まなくなりました。
・明治時代の初期には「神仏分離令」が引き金になって、それまでの寺に対しての民衆の憤懣が爆発し、廃仏毀釈が行われました。
・昭和時代の太平洋戦争後は家制度の崩壊・変化、人口の都市移動などの無縁社会化で寺と家の関係は弱まり、存続が危ぶまれる寺が増えてきました。
そのため、寺はどのようにして存続し発展して行けば良いのか模索が始まっています。

Photo_20251019142502

●仏教の概略歴史から言えること
仏教の概略歴史(成立期および日本で歴史)から次のことが言えると私は思います。
① 仏教経典は時代や場所によって、新たに書かれたり、内容が変わって行ったり、尊重されるものが変化したり、してきています。
金科玉条のように墨守すべきものではないのです。
② 日本では仏教がどのようなことを説いているかを、人々に易しく伝え広めるということをほとんどしてきませんでした。
③ 寺のあり方が模索されている現在、現代の日本人が理解・納得できる仏教の解説や新たな解釈・発展、時代に合致した考えの提示が必要でしょう。

|

2025年10月23日 (木)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第5回:七仏通解偈

●七仏通解偈(1)
日本で一般に釈迦と言われているゴータマ・シダッタは、歴史上に実在した人物です。
釈迦族の生まれであったために釈迦と言われるようになりました。
釈迦は「世の真実を覚った人」という意味で「覚者」、古代インドの言葉であるサンスクリット語でブッダと呼ばれました。
ブッダが音で漢訳されて「仏」となったのです。
釈迦が生きていた時代に、釈迦を含め「覚者」、すなわちブッダ(仏)が七人いました。
釈迦だけでなく、七人の覚者イコール仏の皆が、これが教えの真髄だと説いていたもの、それが「七仏通解偈」です。
なお、偈とは仏の教えや徳を称える韻文です。

●七仏通解偈(2)
七仏通解偈は仏教で「教えの真髄」と言われています。
法句経(ほっくぎょう)に書かれている漢文の七仏通解偈は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうきい、ぜしょぶっきょう)」です。
これを現代日本語に訳すると、「もろもろの悪いことをせず、多くの善い(よい)ことを行ない、自己の心を浄めること、これがもろもろの仏の教えである」、となります。

●仏教で善いとされること、慈悲
仏教で善いとされていることに慈悲があります。
そして魔訶般若波羅蜜経の注釈本『大智度論』には、慈悲について次のように書いてあります。
「大慈與一切衆生楽(だいじよいっさいしゅじょうらく)。
大悲抜一切衆生苦(だいひいっさいしゅじょうく)。」
これを現代日本語に訳すると、「<大いなる慈しみ>とは他人に楽しみを与(與)えることであり、<大いなる悲(あわ)れみ>とは他人の苦しみを抜く(除き去る)ことである」、となります。
楽しみを与え、苦しみを抜くことから、四字熟語で「抜苦与楽(ばっくよらく)」と表現されています。

●抜苦与楽とは
抜苦与楽とは先にも述べた通り、人に楽しみを与えること、人の苦しみを抜く(除き去る)ことです。
そこで次に問題になるのは、抜苦与楽を何に基づいて行うかということです。
判断基準と言っていいでしょう。
これに関して『法句経』には次のような一文が載っています。
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」
ここで重要なのは「己が身にひきくらべて」という言葉です。
つまり、「自分がしてほしいこと」を人や万物にする、「自分がしてほしくないこと」は人や万物にしない、と捉えられます。
自分を基点にして考えると判断が適切になるのです。

●洋の東西で最高の教え、抜苦与楽
西洋には次のような言葉があります。
「So in everything, do to others what you would have them do to you.」
(何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい)。
これは 『聖書』 の中にある言葉で、最も大切な教えという意味で黄金律と呼ばれています。
一方、東洋には次のような言葉があります。
「子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也」
(子貢が質問しました。一言で終身行っていくべきものは、何ですか?
師は答えました。
それは恕(思いやり)だね。
自分がして欲しくないことは、人にしないことだ)。
『論語』の一節です。
洋の東西を問わず、抜苦与楽が最高の教えとされています。そして抜苦与楽の判断基準は「自分がどう思うか」です。

Photo_20251019075901

●奈良の薬師寺の北門「與楽門」
奈良の西ノ京にある薬師寺の北門には「與楽門」という門札が掛かっています。
與楽門の「與楽」とは仏教用語の「抜苦與(与)楽」から来ています。
この門を通る時、思います。「私達は人や万物に対して、嫌なことをしないで、喜ぶことをしているだろうか?」と。

Photo_20251019080001

|

2025年10月22日 (水)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第4回:涅槃寂静

●「涅槃寂静の意味と語源」の通説
通説をまず述べます。「涅槃(ねはん)」という言葉は、通常、次の2つの意味で使われています。
1つめは、釈迦の入滅。死亡のことです。
2つめは、燃え盛る煩悩の火を吹き消して、悟りの智慧を獲得した境地のことです。
この2つめが涅槃寂静の時の涅槃の意味です。
「寂静(じゃくじょう)」という言葉の意味は、
 1つめは、もの静かなさまのことです。
 2つめは、煩悩を離れ、苦しみを滅して、真理に達した涅槃の境地のことです。
この2つめが涅槃寂静の時の寂静の意味です。
つまり「涅槃」も「寂静」も意味は同じで、「煩悩を離れた悟りの境地」ということです。
涅槃寂静は同じ意味の言葉の涅槃と寂静を2つ一緒にして、意味を強調したものです。
通説では涅槃の語源を次のように捉えています。
涅槃のサンスクリット語(古代インドの言葉で、仏教経典が書かれた言葉)はニルヴァーナです。
ニルヴァーナの語源は一般にニル・ヴァー(吹いて、なくす)と言われています。
そして、そこから、涅槃は「燃え盛る煩悩の火を消して、悟りの智慧を獲得した境地」と解釈されています。

●「涅槃寂静の意味と語源」の異説
次に異説です。
異説では、涅槃の意味は「心を覆うものがない解放された状態」のことです。
寂静の意味には「もの静かなさま」というものがありますから、涅槃寂静は「わだかまりが無く、精神が解放されて静かに心落ち着いたさま」と理解できます。
異説では涅槃の語源を次のように捉えています。
ニルヴァーナ(涅槃)の語源は通説のニル・ヴァー(吹いて、なくす)ではなく、ニル・ヴリ(覆いが無い)です。
この解釈は空海、宗教学者の松本史郎氏、僧侶の宮坂宥洪師、外国のパーリ語(サンスクリット語の俗語)の研究者などが支持しています。

●施身聞偈(せしんもんげ)
涅槃寂静に関連して思い出す言葉が「施身聞偈」です。
施身聞偈とは、雪仙童子(せっせんどうじ)が鬼の唱えている偈(仏の教えや徳を称える韻文)を聞きつけ、続きの偈を聞くために、自らが鬼の餌食になることを約束して、それを実行するという話の中で書かれている韻文のことです。
その偈文は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」です。
施身聞偈の話の情景が、奈良県斑鳩の法隆寺の「玉虫厨子」の側面に絵として描かれています。
施身聞偈の私の解釈は次の通りです。
偈文と意味を対照して書きます。
諸行無常・・・全てのものは変化・生滅します。
是生滅法・・・変化・生滅が世の法則なのです。
生滅滅已 寂滅為楽・・・そのことを悟り、欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるのです。
なお、悟りとは知り、納得し、受け入れることです。
また、生滅滅已と寂滅は共に欲望や執着から解き放たれたことです。

●涅槃寂静と施身聞偈
「涅槃寂静」は通説・異説のどちらの解釈でも、「施身聞偈」の後半部の「生滅滅已 寂滅為楽」と意味はほぼ同じです。
ちなみに、もう一度それぞれの意味を見てみましょう。
涅槃寂静の通説の意味は、煩悩を離れた悟りの境地です。
異説の意味は、わだかまりが無く、精神が解放されて静かに心落ち着いたさまです。
施身聞偈の後半部の意味は、(前半部分のことを悟り、)欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるです。
このことからどんなことが言えるかと言いますと、涅槃寂静と施身聞偈の後半部分は意味がほぼ同じなのだから、施身聞偈の前半部分も涅槃寂静に当てはまることになる、ということです。
結果、涅槃寂静も次のように解釈できます。
諸行無常・・・全てのものは変化・生滅します。
是生滅法・・・変化・生滅が世の法則なのです。
涅槃寂静・・・そのことを知り、納得して受け入れると、欲望や執着から解き放たれ、心安らかになるのです。

●仏教が「涅槃寂静」で教えようとしていること
これまでの説明から、仏教が「涅槃寂静」で教えようとしていることは、次のことだと言えます。
全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則であることを知り、納得して、受け入れると、精神が解放され心が落ち着くのです。
宇宙の理(ことわり)、自然の摂理というものを知り、受け入れることの大切さを教えています。
なお、宇宙の理を知り、それに身を委ねることは最も重要な認識ですが、これは運命論者になることとは異なります。
後日、少し詳しく述べる積もりですが、仏教は行動、実践を推奨しているからです。

|

2025年10月21日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第3回:一切皆苦

●一切皆苦
「一切皆苦」とは、文字通り「一切(全て)が苦しみである」と理解できます。
つまり、「人生は苦しみで満ちている」と仏教では述べています。
「苦」のサンスクリット語の原語はduhkhaダッカであり、この語の本来の意味は「意の如くならないこと」です。
意の如くならないから苦しみになるのです。
そしてなぜ意の如くならないかというと、全てのものは絶えず変化していく(諸行無常、諸物変化)ためです。

●四苦八苦(1)
一切皆苦に関連して思い浮かぶ仏教の言葉は「四苦八苦」です。
日常で四苦八苦が使われている場合の意味は「大変苦労すること」ですが、仏教で四苦八苦と言う場合、四苦は生老病死(しょうろうびょうし)を示しています。
① 生(しょう。うまれること)、
② 老(ろう。おいること)、
③ 病(びょう。病むこと)、
④ 死(し。死ぬこと)の4つです。
仏教では、この4つを人間の避けられない苦しみと捉えています。

●四苦八苦(2)
ここで疑問が発生します。
なぜ生(生まれること)が苦しみなのか?
生まれる(出産)の時に赤子も苦しいからでしょうか。
生まれた世の中が苦しみの多い所だからでしょうか。
私が思うに、おそらく、生まれようとして生まれたのではなく(意の如くではなく)、生まれるからでしょう。
生老病死は、どれも意の如くではなく(人間の意志に無関係に発生する)、という意味でしょう。
なお、生老病死の「生苦」を「生まれる苦しみ」ではなく、「生きる苦しみ」と捉える説があるが、これは間違いです。
生苦のサンスクリット語の原語はjanma duhkhaジャンマ・ダッカ(誕生・苦)であり、「生まれる苦しみ」が正しい理解です。

●四苦八苦(3)
八苦とは生老病死の四苦に次の4つの苦しみを加えたもののことです。
⑤ 愛別離苦(あいべつりく。愛する人と分かれる苦)、
⑥ 怨憎会苦(おんぞうえく。憎い人と会う苦)、
⑦ 求不得苦(ぐふとくく。求めても得られない苦)、
⑧ 五陰盛苦(ごおんじょうく。人間は存在そのものが苦、世の中に存在するものへ執着する苦、の2つの解釈がある)。

●一切皆苦、四苦八苦で仏教が言おうとしていること(1)
一切皆苦、四苦八苦は「人生は苦しみで満ちている」と述べています。
そして仏教の教えは次のように展開していきます。
「人生は苦しみで満ちている」とは、「苦の世界からなかなか抜け出せない。苦の世界に何度でも生まれ変わる(輪廻)」からです。
そこで、苦の原因を追究し、原因が分かったら解決策を実行します。
それによって苦の世界から脱出できると、仏教では説いています。

●一切皆苦、四苦八苦で仏教が言おうとしていること(2)
一切皆苦、四苦八苦の仏教の考えで、私が抱いた疑問と問題意識があります。
今後、思考を深めていきたいと思いますが、それらは次の通りです。
① 人生や世の中が苦で満ちているという考えは、あまりに悲観的見方ではないでしょうか。
人生には楽しみも喜びもあるはずです。
楽しみや喜びは長続きせず、すぐに苦しいことや悲しいことが起こるから、やはり人生は苦に満ちているのだと言う人もいます。
しかし、これは「苦に満ちている」と言うための強引な論のように感じます。
また、釈迦の時代には苦が満ちていたとしても、現代にそのまま適用は出来ないと思います。
② 輪廻(りんね)の考えは、もともと古代インドにあった世界観が仏教に取り入れられたもので、現代人には受け入れがたいものだと私は思います。
なお、輪廻とは次のことを言います。
「人間は、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の6つの世界に無限に生まれ変わる、というものです。

|

2025年10月20日 (月)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第2回:諸法無我

●諸法無我
日本では通常、「法」というと「法律」を連想します。
また、「無我」というと、「我が無い、我意(わがまま)がない、無心」の意味のどれかと受け取られます。
しかし、諸法無我の法と無我は上記の意味ではないので、一般の日本人には理解が難しいです。

●諸法無我の意味
結論から言いますと、諸法無我の意味は、「全てのものは(ものは全て)我のものに非(あら)ず」です。
ものは全部が我のものではないということで、分かり易い四文字熟語にすれば「万物非我」です。
言葉を分解して説明します。
諸は、もろもろ、全て、の意味です。
法は、ここでは「もの、事物」の意味です。
なお、法については後で多少詳しく補足説明します。
無我は我のものに非(あら)ず、の意味です。

補足説明 ①
仏教経典が書かれた古代インドの言葉であるサンスクリット語では、「法」の原語はdharmaダルマで、元々の意味は「保つ、保つもの、人を人として保つもの」です。
ここから、下記の多くの意味を持つようになり、いろいろな場面でそれぞれの意味で使われるようになりました。
規範、義務、法律、善い行為、真理、法則、宗教、それらについて説かれた教え、「法」によって作られた事物。
日本では主に法が「法律」の意味で使われていますが、諸法無我では「事物・もの」の意味で使われていることになります。

補足説明 ②
「我」のサンスクリット語の原語はãtmanアートマンです。これに否定の接頭辞anを付けたのが、「無我」の原語のanãtmanアナートマンです。
否定の接頭辞を「無」ととらえ「無我」と訳されましたが、これは「非我」(何かが我なのではない)と訳されるべきものです。
この主張は仏教学者の植木雅俊氏がなされていて、私もこの説だと「諸法無我」の意味がスムーズに理解出来ました。
「非我」(何かが我なのではない)とは、何かのものを自分として、または自分のものとして、思い込み、それに執着してはいけない、と戒めることに結びつく言葉です。

●諸法無我で仏教が言おうとしている事(1)
「諸法無我」の意味は「全てのものは我のものに非ず」ですが、この「全てのものは(ものは全て)我のものに非ず」という考えはどういうところから来たのでしょうか?
それは、仏教では「もの」と「自分」との関係を次のように考えたところから来たと考えられます。
「もの」は単一のものではなく、いろいろな小さな物質の基本要素が組み合わさって出来た集合体です。
「もの」は、お互いに原因になり、縁(影響を与えるもの)になり、結果になって、絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないのです。
そのため、何かの「もの」が絶対的に存在して、それが「自分」であったり、「自分のもの」であったりとは言えませんから、執着してはいけないということになります。
なお、原因、縁、結果は、それぞれの言葉から一文字を取って因縁果(いんねんか)と総称されています。

●諸法無我で仏教が言おうとしている事(2)
「絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がない」ということは、次のことも言っていると考えられます。
人間も「もの」であり、いろいろな小さな物質の基本要素が組み合わさって出来た集合体です。
それが因縁果で絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないということは、人間はお互いに基本要素が混ざり合っているということです。
つまり人間は共通する構成物質で出来ている、いわば仲間であり、相争うべき性質のものではないと言えます。

|

2025年10月19日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第1回:諸行無常

●仏教を少しだけ学ぶ
「仏教は奥が深く、経典は非常に多い」と言われています。
そのため、僧侶でもなく仏教学者でもない私のような一般人が、仏教を深くかつ広く学ぶことは大変難しいと思います。
しかし、寺々が身近にあり、曲がりなりにも仏教徒の多い日本において、「仏教がどんなことを説いているのか」を知らないのは、あまりに勿体無いような気がします。
そこで、本当にほんの少しだけですが、仏教の一端を学びたいと思いました。
勉強不足のために理解間違いや底の浅い解釈もあるはずと躊躇する気持ちが大ですが、まずは一歩を踏み出してみます。
分からない所は分からないと書き、現時点でどうも納得出来ない所は納得できないと素直に自分の疑問を書き、今後の勉強の課題とするようにしたいと思います。
ともあれ、仏教を少しだけでも学び、考えてみます。

●仏教思想の四つの柱
仏教の思想と言いますか、考え方と言いますか、仏教の基本的主張の特徴は「四法印」と言われるもので、四つの項目で成り立っています。
その四つとは、
① 諸行無常(しょぎょうむじょう)、
② 諸法無我(しょほうむが)、
③ 一切皆苦(いっさいかいく)、
④ 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)です。
時には、③の一切皆苦を除いた三つのものが「三法印」とも呼ばれています。
それでは、今回は①の諸行無常について述べ、次回以降では②、③、④と順次学んで要点を書いていくようにいたします。

●諸行無常
諸行無常というと、日本では『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」の一文が有名です。
『平家物語』は平家一門の滅亡の物語ですから、「諸行無常」と聞くと、多くの日本人は「無常、あわれ、はかなさ」を感じます。
そして少なからずの人が、諸行無常の意味を「あわれ、はかなさ」と思っています。
しかし、諸行無常の本当の意味はそうではありません。

●諸行無常の意味
結論から言いますと、「諸行無常」の本当の意味は「全てのものは変化する」ということです。
分かり易い漢字表現で直接的に述べれば「万物変化」です。
言葉を区切ってそれぞれを説明すれば、次の通りです。
諸行無常の「諸」の意味は、もろもろ、全て、です。
「行」の意味は、作られたもの、です。
「無常」の意味は、常なし、同じままでない、変化する、です。
これらから諸行無常の意味は「全てのものは変化する」となります。
なお、「行」について補足説明をします。
「行」のサンスクリット語(仏教経典が書かれた古代インドの言葉)の原語はsamskãraサムスカーラで、「作ること、作られたもの」がその意味です。
仏教では、
① 人間の意識が物や現象を作り出す、
② 物や現象は絶えず変化し生成消滅していく、
と考えらえていました。
諸行無常の「行」は、「おこない、行為」ではなく、「過ぎ行くもの(現象)。(そこから派生して)作られたもの」と解釈すると理解し易いです。

●「諸行無常」で仏教が言おうとしていること
「諸行無常」の意味は、「全てのものは変化する」ということです、と繰り返し述べてきましたが、この「全てのものは変化する」という考えは、どういうところからきたのでしょうか?
それは仏教では「もの」と「世の中」について次のように考えたからです。
・「もの」は単一のものではなく、いろいろな小さな物質の基本要素が組み合わさって出来た集合体と捉えました。
・そして物質の基本要素の組み合わせも、周囲の環境も、時とともに変化し、それぞれが影響し合っていくと考えました。
・「もの」は、お互いに原因になり、縁(影響を与えるもの)になり、結果になって、絶えず変化し、生成消滅をしていくのだと考察しました。
・その結果、「全てのものは変化する」という考えに至ったのです。
「全てのものは変化する」とは言い換えれば、「世の中は変化して止まない」ということです。
「世の中は変化して止まない」ということが仏教思想のベースとなっていますので、このことを認識しておくことが重要だと私は思っています。

|

2025年10月 1日 (水)

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第6回:疑問4の(2)

●第6回:疑問4の(2)
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?
答は、聖徳太子は、国家運営の根本に、仏教の「人間観や生き方の考え」を据えようとしたためと考えられる、です。
なお、三教義疏とは仏教の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の解説書のことです。
三教義疏の元の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』のうち、『維摩経』『勝鬘経』は前回説明済みですので、今回は3番目の『法華経』から説明を行います。

●法華経の内容
法華経全体の中で説かれる主な教え
・人は出家・在家、男女、老若などの別なく平等に、誰でも如来蔵を持っています。
・如来蔵とは、人に具わっている「仏(覚者。真理を知り、心安らかな人)になれる可能性」のことです。
・古代インドの言葉であるサンスクリット語で覚者を意味する「ブッダ」を、音で漢訳(音写)したのが「仏」です。
・日本で俗に言う「死んだらホトケになる」のホトケではありません。
・また如来蔵とは、他の経典で言う「仏性」「仏の本性」のことであり、仏の素晴らしさに通じる「人の尊さ」のことです。それを人間は誰でも持っているのです。
・人それぞれが持っている「素晴らしいもの、自分の尊さ」が知られなかったり、その良さが発揮されなかったりするのは、勝鬘経で言う煩悩(貪欲、憎悪、愚か)のためです。
・自分が素晴らしいものを持っていること(自分の尊さ)を知り、他の人も誰もが素晴らしいもの(その人の尊さ)を持っていることを知りましょう。
・そして、その同じことを他の人にも知ってもらうのです。
・結果、互いに相手を尊重し合うようにします。
・そういう人間関係、社会を作ることによって、誰もが心安らかに、幸せに暮らせるようになるのです。
・この考えを粘り強く広めていくことが大切です。

●法華経の特徴
法華経は「難信難解」(なんしんなんげ)
・法華経は信じることが難しく、理解することも難しい、と言われています。それは何故でしょうか?
・法華経の説いている平等の考えや善の実践行動が、当時のインドに広まっていたカースト制度に代表されるバラモン教の考えと大きく違っていて、理解が困難だったのです。
・周囲の環境が厳しい中、革新的な法華経の考えを信じ、解釈を深め、実践していくことは容易ではありませんでした。

法華経は譬喩(ひゆ。たとえ話)が多い
・いろいろな環境・立場の多くの人に教えの内容をしっかり伝えようとする場合、譬喩が有効でした。
・仏教が興った古代インドの地は論理的思考をする人が多く、手を変え、品を変えての説得が必要でした。

法華経は平等主義
・インドは古くからカースト制の差別意識が浸透していましたが、法華経は出家・在家、老若、男女などに関係なく、誰もが平等に、悪い輪廻のクビキから解放されると説きました。
・人は、出自でなく、おこなったことで評価されるのだと説きました。

仏教(≒法華経)は人間主義
・仏教そして法華経は、自分も他人も素晴らしいものを持っていることを認識し、相互に尊重し合うという人間の関係性から、ものごとの善悪、道理を考えています。絶対的な神を判断基準にしていません。
・人間の尊さを主張し、その発揮拡大を求めています。

法華経は教えを実践し、広めることを推奨
・教えは単なる知識ではなく、実践することが大切です。そして周囲へ教えを広めていくことを推奨しています。

法華経の特徴を専門用語で述べると
①「一仏乗」
・小乗仏教と大乗仏教を統合し、「誰もが仏になれる」(真理を覚り、心安らかになれる)と説いたことです。
②「久遠実成」(くおんじつじょう)
・「釈迦は遥か遠い昔に既に覚っていて、その後いろいろな仏が出てきているのは、釈迦が姿を変えて現れたもの」と述べ、古代インドで当時語られていた種々の仏の統一を図ったことです。
・これは釈迦の教え(真理)がいつの時代にもあったこと、言い換えれば、教えの永遠性を説いています。

●法華経の真髄
教えの中心的メッセージ
・人は誰でも等しく自分の中に優れたものを持っています。
・その優れたものを互いに尊び、活かして、皆で幸せになっていくのです。
人間の平等と尊厳、そして善いことの実践による成長を高らかに謳っているところが法華経の真髄です。

●3つの経典の内容(まとめ)
聖徳太子が三経義疏で解説した3つの経典について、それぞれがどんなことを説いているのかを、もう一度まとめて見てみましょう。
『維摩経』は、在家の人の「日々の生活での働き、役割遂行の大切さ」を教えています。
『勝鬘経』は、女性の「人への思いやりと良い教えの普及の重要さ、女性救済」を教えています。
『法華経』は、全ての人の「本来持っている良い本質の発揮での成仏(自他共に幸せになる生き方)」を教えています。
なお、成仏のここでの意味は、幸福と考えて良いと私は思います。
聖徳太子は、これら3つの経典に示されていることを人間の生き方の根本の考えに据えようとしたのです。

●三経義疏と聖徳太子の政治
三経義疏には、参考にした解説書の内容について、ところどころに太子の感想や意見が書かれていますが、「教えの内容のどこを政治に活かそう」ということは書かれていません。
しかし、仏教の基本的な考えや三教義疏の元の3つの経典の教えと同じものが、「憲法十七条」の条文にあります。
第一条:和を貴ぶ。
第二条:曲がった心を仏教で正す。
第七条:人は担当する任務を忠実に行なう。
第九条:仕事は他者の為に尽くす気持ちで行う。
第十条:意見が違う場合、十分に話し合う。
第十四条:嫉妬心を捨て、人の長所を認める。
また、冠位十二階の制は豪族の身分秩序を打破して、能力による人材登用を図ったものですから、仏教の平等思想に一歩前進したと言えます。

●聖徳太子の思い(私の推測)
仏教の経典について学び、「皆が幸せになれる、皆で幸せになろう」という考えを知った時、聖徳太子は、これこそが自分が実現したい人間のあり方であり、政治で求めるべきあり方だと、心の底から思ったに違いありません。
繰り返しますが、聖徳太子は現実の政治が嫌になって仏教の研究にいそしんだのではなく、理想の社会を作っていくために人間はどうあるべきかを明らかにしようとしたのです。

●より詳しくは
より詳しくは、朝皇龍古/鏡清澄著『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』をご覧ください。

042813_thumb

|

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第5回:疑問4の(1)

●第5回:疑問4の(1)
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?
答は、聖徳太子が、国家運営の根本に、仏教の「人間観や生き方の考え」を据えようとしたためと考えられる、です。
なお、三教義疏とは仏教の3つの経典『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の解説書のことです。
理由は次の通りです。
太子は国の為政者として民を幸せにしたいと思っていて、釈迦の教え、仏教の思想に触れ、感動してこれを学んでいった、のだと推測されます。
「憲法十七条」で、主に官僚に対して「こうあるべきだ」と規範を示したが、それをしっかり実行・定着させるためには、人間の根本の在り方、生き方の考えから変えていかなければいけないと太子は思ったのだと推測されます。
現実の政治に嫌気がさして、仏教研究にいそしんだのではありません。

●三経義疏の3つの経典
一般に三経義疏と一括りで呼ばれる『維摩経義疏』『勝鬘経義疏』『法華義疏』のそれぞれが解説している元の経典について概略を見てみましょう。
1.維摩経
維摩経は、在家信者の維摩が、釈迦の弟子たちや菩薩たちに仏教の真髄をドラマチックに説いているお経です。
2.勝鬘経
両親からの勧めで仏教に出会った勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が、在家信者として仏教の精神・理念を実践し、教えを広めていこうとする姿を描いて、仏の教えを説いているお経です。
なお、勝鬘夫人は古代インドの舎衛国(しゃえいこく)という国の王女で、東方の国の王妃となった人です。
3.法華経
人は、自分も他の人も素晴らしいものを等しく持っています。
そのことを自覚し、素晴らしさを発揮していって、周囲にもその考えを広めていってください。
そうすることによって相互に尊重し合い、皆が心安らかに、幸せになれるのです、ということを説いているお経です。
仏教はどんな教えかを心から知ろうとする者たちへ贈られる、熱いメッセージと言えるものです。

●維摩経の内容
それでは次にそれぞれの経典の主な内容を見てみます。
維摩経は、在家信者の維摩が、釈迦の弟子たちや菩薩たちに仏教の真髄をドラマチックに説いているお経です。
最初に釈迦が、多くの弟子や菩薩に仏教の基礎を説きます。
次に釈迦は、「維摩が病気になったので見舞いに行くように」と弟子や菩薩に言うのですが、誰もが行くことを辞退します。
かつて維摩に誰もが自分の至らなさをやり込められ、ぐうの音もでなかったためです。
そして、その指摘事項を今も改められていないからでした。
最後に指名された智慧の文殊菩薩が維摩を見舞いに行くことになり、他の菩薩や弟子たちも付いて行きます。
維摩と文殊菩薩の対話(激論)を聴くためです。
維摩経全体の中で説かれる主な教えは次の通りです。
・仏教者は、山に籠って悟りを開き、自分一人の安住を求めるというのでは、いけないのです。
・世俗の中で、社会の一員として日常の仕事を続けながら、世の人に恵みを与え、他者や社会に関わり、安寧な地域を創っていくことこそが大切です。
・一人ひとりが、より良く生きようとすること。それが人々を幸せへ導くのです。
・上記の他に、仏教の基礎とも言える「空」(くう)について説いています。
・空(くう)・・・全てのものは、それ自体の固定的本質というものは無く、基本的要素の一時的な集合体に過ぎないのです。
それを分かって、執着心を無くすと、心安らかになれるのです。

●勝鬘経の内容
勝鬘経は、古代インドの舎衛国(しゃえいこく)という国の王女であった勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が、東方の国の王妃となり、在家信者として仏教の精神・理念を実践し、教えを広めていこうとするお経です。
古代インドは女性差別がきつい社会でしたが、仏教は在家の女性が教えを説くという形で、女性の貢献や救済を訴えました。
まず、勝鬘夫人は、大変素晴らしい教えを聞いたからという両親からの勧めで仏教に出会います。
仏の教えを知り、歓喜し感動した勝鬘夫人は、自分が感動した教えを夫の国王と自分の子供たちに語り、そして国王と共に国民に仏の教えを広めていきます。
国民と共に幸せへの道を歩もうと思ったのでしょう。
勝鬘夫人は、仏教の教えに従うこと、自分自身の善い行いによる功徳で他者を救おうとすること、人々に仏の教えを広めることに、全力を尽くすと誓います。
なお、人々に仏の教えを広めることを誓うのは、素晴らしい教えを広めないと、周囲環境が良くならず、誰も彼も幸せになることが出来ないからです。
勝鬘夫人の誓いの内容が勝鬘経で説かれる主な教えです。
勝鬘経全体の中で説かれる主な教えは次の通りです。

【自身への戒め】
・仏教信奉者が守らなければならない戒めを犯しません。
・年長者や師を敬い尊びます。
・生きとし生けるものを害しません。
・自分と他人を比べて妬(ねた)むことをしません。
・物惜しみしません、意地悪しません、頑(かたく)なになりません。

【他者への接し方の誓い】
・今後は自分の為でなく、人々を救う為に蓄財をします。
・自分の利益の為でなく、人々の為に、救済活動をします。
・人々の苦しみを除き、安穏にします。
・仏の教えを、その人に合った方法で教えます。
・今後、仏の教えを堅持して決して忘れることはしません。

【如来蔵(仏性)と煩悩、そして八正道】
・如来蔵(仏性)とは、人に具わっている「仏(覚者。真理を知り、心安らかな人)になれる可能性」のことです。
・日本で俗に言う「死んだらホトケになる」のホトケではありません。
・全ての者には如来蔵(仏性)が具わっているのですが、煩悩がそれを覆い隠しています。
・煩悩を取り払い、如来蔵を引き出すことが肝要です。
・煩悩を克服し、正しく生きるための基本的精神が八正道と言われるものです。
・八正道は八項目からなりますが、その数例を挙げてみます。
正見:正しい見解。物事に対する正しい解釈や評価です。
正語:正しい言葉遣い。正しい言葉は人を良い方向へ誘います。
正精進:正しい精進(努力)。戒律を守り心身を清らかにすることです。

|

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第4回:疑問3

●第4回:疑問3
疑問3:聖徳太子と一日違いで亡くなった王后は誰か?
答は、一般に言われている膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)ではなく、正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)と考えるのが妥当です。
これは歴史学者の喜田貞吉氏および私の説です。

理由は次の通りです。
理由の1つ目は、聖徳太子死亡時(西暦622年)の前後の状況が刻印されている法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘に「干食王后」という文言があり、その解釈が通説と私で異なることです。
理由の2つ目は、当時の女性は出自でランク付けされていたことです。聖徳太子の妃の中でランク一番は敏達天皇と炊屋姫(後の推古天皇)の子の菟道貝蛸皇女です。
推古天皇が他の妃を王后とは刻印させないはずです。
理由の3つ目は、後世の聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』(完成年は早くても西暦700~750年)と『上宮聖徳太子伝補闕記』(完成年はおよそ西暦800年)は信頼性が低いことです。

●釈迦三尊像光背銘の一般的釈文
釈迦三尊像光背銘を解釈する時、一般的には添付の画像のように区切られて読まれます。
そこで、「干食王后」が次のように解釈されています。

●「干食王后」の解釈・・・通説
通説では、聖徳太子と一日違いで亡くなった「干食王后」とは、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)であると解釈されています。
その根拠として次のような論が述べられています。
・ 「干食王后」については、太子の伝記の一つ『上宮聖徳法王帝説』に、膳加多夫古(かしわでかたぶこ)の娘の膳菩岐々美郎女と注記されています。膳氏は天皇家の食膳のことを担当していた豪族です。
・当時、炊事を担当する召使である廝丁(しちょう)のことが「かしわで」と言われていて、木簡に「かしわで」のことが「干食」と書かれているので、光背銘の「干食王后」は膳(かしわで)夫人(菩岐々美郎女)のことです。
・干食は食を干(もと)む、食に干(かか)わるとも解釈できるので、「干食王后」は天皇家の食膳のことを担当していた膳氏出身の膳(かしわで)夫人(菩岐々美郎女)のことです。
という論です。

●「干食王后」の解釈・・・私見
聖徳太子と一日違いで亡くなった「干食王后」とは、正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)である、というのが 私の見解です。
その根拠は次の通りです。
・光背銘の文章は四六駢儷体(しろくべんれいたい)という古い文体で書かれているので、一句は四字または六字(四文字、六文字区切り)で解釈するべきです。
・四六駢儷体の主な特徴は、
①主に一句が四字または六字から成っている。
②対句表現が取り入れられている。
です。
・光背銘文の「上宮法王枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與諸臣」を、通説の一句四字での解釈と、私見の一句四字または六字での解釈を比較すると次の通りとなります。
・一句四字の解釈。・・・これが通説となっています
上宮法王。枕病弗悆。
干食王后。仍以労疾。並著於床。
時王后王子等。及與諸臣。
・一句四字または六字の解釈。・・・これは私の見解です
上宮法王枕病。弗悆干食。
王后仍以労疾。並著於床。
時王后王子等。及與諸臣。
・私の見解の方が綺麗に対句表現になっていると思います。

次に通説と私見の両方の読みと解釈を見てみましょう。
・ 通説の読みと解釈
上宮法王。枕病弗悆。
干食王后。仍以労疾。並著於床。
上宮法王は、病に枕し悆(こころよ)からず。
膳夫人(菩岐々美郎女)は、看病疲れで、並んで床についた。
が通説の解釈です。
・私見の読みと解釈
上宮法王枕病。弗悆干食。
王后仍以労疾。並著於床。
上宮法王、病に枕し、悆(こころよ)からず食を干(ほ)す。
王后(菟道貝蛸皇女)は、看病疲れで、並んで床についた。
これが私の読みと解釈ですが、ポイントは「容体が悪くなって食事が摂れなくなった」という解釈です。

●出自ランクによる「王后」の判断
当時の女性は出自でランク付けされていました。
聖徳太子の妃として歴史に残っている人は、
①敏達天皇と推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女
②敏達天皇と推古天皇の孫娘の橘大郎女
③大臣・蘇我馬子の娘の刀自古郎女
④臣・膳加多夫古の娘の菩岐々美郎女
の四人で、一番のランクは菟道貝蛸皇女でした。

041410_thumb
聖徳太子が亡くなったときには推古天皇も権力者の蘇我馬子も健在だったのだから、我が娘を差し置いて、当時の序列で言うと四番目の妃の菩岐々美郎女のことを「王后」と、聖徳太子と等身の釈迦三尊像の光背に刻印させるはずはありません。
親の気持ち、人情を考えれば、このことは納得して頂けると思います。

●聖徳太子の伝記で信頼性が低い二冊の本
聖徳太子の伝記としてしばしば取り上げられる『上宮聖徳法王帝説』と『上宮聖徳太子伝補闕記』は信頼性が低いです。
『上宮聖徳法王帝説』の完成年は早くても西暦700~750年で、聖徳太子が死んでから約70~120年後に書かれたものです。
・また、本書には「干食王后」とは膳菩岐々美郎女であると注記されていますが、その根拠は示されていません。
・さらに本書には、聖徳太子の后の菟道貝蛸皇女のことを太子の一族の中に書いていません。正妻のことを一族の系譜に書かないというのは不可解です。
『上宮聖徳太子伝補闕記』の完成年はおよそ西暦800年で、聖徳太子が死んでから約170年後に書かれたものです。
・本書には「吾得汝者、我之幸大」と太子が菩岐々美郎女を誉めちぎった言葉が書いてあります。そのため、それほど愛していたのなら「干食王后」は膳菩岐々美郎女だろうと思われ易いのです。
・しかし本書は元ネタとして膳家の記録が使われているので、そのまま信じられません。

|

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第3回:疑問2

●第3回:疑問2
疑問2:聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?(移住したとされているのか?)
答は、聖徳太子は飛鳥と斑鳩という二拠点を往来して、しっかりした政治を行なおうとしたです。
聖徳太子は蘇我馬子と意見が対立したり、政治に嫌気がさしたりして、斑鳩に移住したのではありません。

●●理由
その理由は次の通りです。
1つ目の理由は、斑鳩は飛鳥と難波を結ぶ交通と情報の要衝であったことです。
2つ目の理由は、斑鳩宮とそれに付随する建物は、難波津から飛鳥へ来る外国使節に、大和盆地の入口で大和の素晴らしさを印象付ける役割もあったことです。
3つ目の理由は、飛鳥と斑鳩での政治一体運営を示す、斑鳩宮の敷地の傾きと太子道(筋違道(すじかいみち)の存在です。
4つ目の理由は、聖徳太子は斑鳩宮の建設後も遣隋使や『天皇記』『国記』編纂など重要施策を実施していることです。

●交通と情報の要衝:斑鳩
斑鳩は、大和盆地を流れる多くの川(曽我川、飛鳥川、寺川、竜田川、佐保川等)が合流した大和川が流れる所のすぐ側にあります。
難波と飛鳥を結ぶ水運の重要な場所なのです。
また、難波と飛鳥を結ぶ陸路の「竜田道」も設けられました。
河内から大和の都へ至る入口として、半島三国や大陸からの情報もいち早く入手できたのです。

●大和の川と飛鳥・斑鳩
ここからは添付した画像について説明します。
まず、大和の川と飛鳥・斑鳩の図をご覧ください。

040805_thumb

大和盆地を流れる多くの川(曽我川、飛鳥川、寺川、竜田川、佐保川等)が斑鳩の地で合流して大和川となります。
斑鳩は交通の要衝であることがよく分かります。

●斑鳩の主要伽藍は西傾約20度
法隆寺の若草伽藍(聖徳太子の時代に斑鳩寺の在ったところ)や東院(同じく斑鳩宮が在ったところ)、および元の中宮寺跡や法起寺・法輪寺など斑鳩の主要伽藍の敷地は西に約20度傾いています。

040806_thumb

●斑鳩主要伽藍の傾きの先、南に在るもの
斑鳩主要伽藍の傾きの先の南に在るもの、より正確には南南東に在るものをみますと、飛鳥寺など飛鳥の主要建造物なのです。
そして、斑鳩の主要伽藍と飛鳥の主要伽藍の間には、西傾約20度のほぼ直線の道路「太子道」(筋違道)が通っているのです。

040807_thumb_1

これらは、飛鳥と斑鳩が一体となって政治を行なっていたことを示すものでしょう。
聖徳太子は飛鳥と斑鳩を行き来していたのだと考えられます。
考古学者の酒井龍一氏は、飛鳥を首都、斑鳩を副都、太子道(筋違道)を首都と副都を結ぶ幹線道路だと述べています。

●馬に乗って太子道を行く聖徳太子の像
現在の奈良県磯城郡三宅町の白山神社には馬に乗って太子道を行く聖徳太子の像があり、往時を偲ばせています。

040808_thumb

●今に残る太子道
また、三宅町には太子道の痕跡があって、「太子道」の標識が掲げられています。

040809_thumb

|

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ第2回:疑問1の(2)

●第2回:疑問1の(2)
今回は、疑問1への答えの理由について、その続きを述べます。

疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。
●●理由④
4つ目の理由は、新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されていることです。
最初に、新羅征討軍の大将軍(総大将)に厩戸皇子の同母弟の来目皇子(くめのみこ)が任じられています。
そして来目皇子が病死すると、その後任には異母弟の当麻皇子(たぎまのみこ)が任じられています。
国軍の総大将のポストに弟二人を続けて就任させるということは、大王という非常に強い立場と責任感を持った人でないと出来ないでしょう。
このことからも、厩戸皇子は大王であったはずと言えます。
●●理由⑤
5つ目の理由は、大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任していることです。
・斎宮(さいぐう)とは
 古代では、大王位に即くときは、姉妹や娘など大王の近しい親族の未婚女性が斎宮になり、政権を祭祀面から支えるのが慣習となっていました。
・酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。用明大王の娘であり、厩戸皇子の異母姉)が斎宮に就任したのは、用明大王が即位した西暦585年で、斎宮を37年間務めました。
・585年に足掛け37年で621年、満37年で622年になりますから、酢香手姫皇女が斎宮を退任したのは西暦621年もしくは622年ということになります。
これは『日本書紀』もしくは「法隆寺金堂釈迦三像光背銘」「天寿国繍帳」の厩戸皇子の死亡年と合致します。
・このことから歴史学者の門脇禎二氏は、大王になった厩戸皇子を酢香手姫皇女が斎宮として祭祀面から支えていたと考えられると述べています。

●歴史用語の学び直し
歴史学は年々研究が進んでいますので、ここで歴史用語の学び直しをしましょう。
・皇太子・・・「皇太子」は律令制に基づく用語です。
そのため、『日本書紀』に厩戸皇子を「皇太子」と書いている箇所は7世紀末以降に書かれたことになます。(仏教学者の石井公成氏の調査です)
・摂政・・・厩戸皇子の時代には摂政(せっしょう)という地位はありませんでした。
そのため、厩戸皇子が摂政となって政治を行っていたということはありません。
『日本書紀』の記述も「録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしめ」(いっさいの政務を執らせて)と、摂政が動詞として使われています。
・大王・・・大和朝廷の首長のことです。「天皇」の呼称が使われる前の呼称と、一般に言われています。
・天皇・・・現代の歴史学の通説では、天皇号は天武天皇もしくは持統天皇の時代に使われるようになったとされています。
しかし、推古の頃には大王と天皇が同時に使われていました。実例は天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)です。
この時には大王と天皇の2つの号に何らかの役割の違いがあったのではないか、と私は推測しています。

●疑問1に対する答えとその理由のまとめ
ここで疑問1に対する答えとその理由をまとめて再確認しましょう。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答:厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったと推測されます。
理由の主なものは次の5つです。
①『日本書紀』の記載内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったと言えます。
② 外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えます。
③ 厩戸皇子は国家運営の根幹にかかわる大政策を実施しているが、これらは国家のトップでなければ実施できないものです。
④ 新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されています。
⑤ 大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任しています。

|

『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ  第1回:はじめに&疑問1の(1)

●『聖徳太子 本当はこうだった!?』シリーズ
2024年11月に朝皇龍古さんとの共著本『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』を出版しました。
その本の一部を、このブログで「聖徳太子 本当はこうだった!?」シリーズとして簡潔に紹介しようと思います。
なお、このシリーズ記事は共著本の要約ですので、記事の中に出てくる「私は〇〇と思う」や「私見」は朝皇龍古さんと鏡清澄の共通の見解と捉えて下さい。

●はじめに
聖徳太子は日本の歴史上の人物で人気ランキング第1位です。
冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使、仏教興隆など多大の業績をあげた人物です。
しかし一方では、一度に十人が話すのを聞いて内容が分かったとか、馬で空を飛び富士山に登ったとか、信じられない伝承があります。
荒唐無稽な話は別にして、聖徳太子はどんな人だったのか、次の4つの疑問点について多くの資料から答えを求めていきます。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
疑問2:聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?(移住したとされているのか?)
疑問3:聖徳太子と一日違いで亡くなった王后は誰か?
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?

●第1回:疑問1の(1)
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。

●●理由①
その理由としては、『日本書紀』に書かれている内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったといえるためです。
『日本書紀』には厩戸皇子が天皇の業務を行なったと書かれています。
推古元年(西暦593年)の4月のところには、「厩戸皇子に一切の政務を執らせて、国政をすべて委任された」と記載されています。
国政をすべて行うのは、通常、大王の役割でしょう。
また、用明元年(西暦586年)の正月のところには「(厩戸皇子は)国政をすべて執り行って“天皇事(みかどわざ)したまふ”と記されています。
“天皇事(みかどわざ)したまふ”は一般に「天皇の代行をなさった」と現代語訳されています。
しかし私は、“天皇事(みかどわざ)したまふ”は文字通り「天皇の仕事をなさった」、即ち「天皇であった」と解釈するのが良いと思います。
これらのことから、政治の責任者が厩戸皇子であったことはほぼ間違いないです。
そして推古は祭事(神事)の最高責任者であったと思われます。
この頃、祭事と政事(せいじ。まつりごと)は分担されていたと考えられます。
なお、『日本書紀』の実際の文章は以下の画像「『日本書紀』の記述」の通りです。

008_thumb

009_thumb

●●理由②
2つ目の理由は、外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えるためです。
『隋書』東夷伝、倭国条には、西暦600年当時の倭王としてアメタリシヒコという姓名とオオキミという呼称が書かれ、その後に王の妻の呼称が書かれています。
このことは、その時の倭王は男性であることを意味します。
また、西暦607年に遣隋使として隋へ行った小野妹子は隋の使者・裴世清(はいせいせい)を倭国へ連れてきましたが、裴世清の出張報告とも言うべき内容が『隋書』東夷伝、倭国条に掲載されています。
それには、倭王が女性であるとは書いてありません。
当時は、女性の王は特異な事例でした。
このことは、時の倭王は男性であること、つまり倭王は厩戸皇子であったことを意味しています。

●●理由③
3つ目の理由は、厩戸皇子が国家運営の根幹にかかわる大政策を実施していることです。
大政策は国家のトップでなければ実施できないものです。
厩戸皇子が実施した政策は沢山ありますが、その中で特に重要なものを4つ挙げますと、仏教興隆、冠位十二階の制定、十七条の憲法の制定、遣隋使です。
仏教興隆は、当時の東アジアの政治・社会情勢に後れを取らないために必要でした。
仏教を広めていない国は野蛮な国、遅れている国と見られる風潮だったのです。
冠位十二階の制定は国造りに必要な人材を登用するためのものでした。
十七条の憲法は、国家運営の基本方針の明示と、それを実行するための役人への訓示をしたのです。
遣隋使は、大陸文化を半島三国経由せずに直接導入すること、大陸の大国との国交樹立が目的でした。
これらは大変重要な政策ですから、実施責任者は国家の最高責任者、すなわち大王しか考えられません。

|

般若心経の意味を知る(第7回)

§7.私たちにとっての般若心経の価値

第1節 はじめに

ある寺でセミナーがあった時、セミナーの冒頭の司会者が「ここは寺なので、セミナーの前にお勤めをしましょう」と呼びかけました。
若いお坊さんが般若心経を唱え始めたら、セミナーのほとんどの受講生が経本もプリントも見ずに大きな声で それに和していきました。
私は、これほどまでに般若心経が身近なものになっているのだと、改めて認識しました。
そこで、般若心経が多くの人に親しまれ、大切にされている理由は何なのかを考えて見ました。
思い当たったのは次の三つです。
一つ目は「読経や写経の効用」です。
二つ目は「努力の大切さを教えていること」です。
三つ目は「祈りの強い力を説き、伝授していること」です。
私は「祈りには力がある」と思っています。望みを叶えたい時、物事を成し遂げようとする時、よほどの幸運でもない限り努力が絶対に必要です。
しかし、努力しても、努力しても、それでも物事が達成しない時、人は達成できますようにと神様や仏様に祈ります。
祈ることによって、再び努力する気持ちになります。
絶対的なものの前で謙虚になり、励まされて努力を継続して行くのです。
そのことが、物事の達成を引き寄せるように思います。

第2節 私たちにとっての般若心経の価値

さて、今回のシリーズで般若心経の意味を説明してきました。
その要旨は、般若心経は末尾の「祈りの言葉」(呪文)を教えようとしたものであること。
そして祈りの言葉(羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶)は
「なろう、なろう、皆でなろう。皆が善い生き方をして、幸せになろう。思いは叶うぞ。うれしいなぁ!」
ということでした。
この般若心経の意味および、般若心経の呪文は「祈りの力」が最も凝縮されたものであることを考慮すると、
般若心経の要点は
私たちに前向きに生きる勇気を与えてくれること、
私たち皆が幸せになるのだと訴えていること、
であり、このことが私たちにとっての般若心経の価値と言えます。
以上で、「般若心経の意味を知る」シリーズを終了します。

**********************************

付録

「般若心経の意味を知る」シリーズのポイント

全7回にわたる「般若心経の意味を知る」のシリーズの要点を述べると以下の通りです。
①般若心経は、釈迦の直接の教えではなく、釈迦の人間救済の思想に立ち返って作られた大乗仏教の経典です。
②般若心経の意味が分からないのは、サンスクリット語から音での漢訳(音写)、内容の省略、サンスクリット語文法の理解不足などのためです。
③般若心経には「般若経のエッセンス」と「呪文の提示」という2通りの解釈があります。
④私の理解ですが、般若心経とは、「思いが叶う祈りの言葉」を伝えようとしたものです。
祈りの言葉の意味(私訳)は、「なろう、なろう、皆でなろう。皆が善い生き方をして、幸せになろう。思いは叶うぞ。うれしいなぁ!」です。
⑤般若心経は「思いを叶えるために、努力して、祈って、(努力して)、生きて行く」ことの大切さ教えています。
⑥般若心経は、皆で幸せになるのだと真理を訴えています。

より詳しくは

・より詳しくお知りになりたい方は鏡清澄著『般若心経 私のお経の学び(1)』をご覧ください。
・オンラインショップのAMAZON、および一般書店(取り寄せ)で販売しています。
・発行所はデザインエッグ株式会社で、価格は2,222円(税込)です。

080708_thumb

|

般若心経の意味を知る(第6回)

§6.「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」の再考

第1節 はじめに・・・般若心経の2つの解釈

●般若心経の意味を理解しようとして幾つかの解説書を手に取ってみると、その説明内容・解釈に大きな違いがあることに気づきます。
この違いが般若心経を理解する際に混乱をもたらすことにもなっています。そのため、まず解釈の違いを把握しましょう。
●般若心経の解釈は大きく分けると、2種類あります。
1つめは、「般若心経は般若経のエッセンスである」という解釈で、これが言わば通説です。法相宗や禅宗などで述べられています。
2つめは、「般若心経は呪文の提示をしている」という解釈で、真言宗などで述べられています。近年、こちらの解釈を支持する人が増えてきているように私には感じられます。
●解釈1.般若経のエッセンス
 ・般若心経は「般若経の重要な教えを説いた経典」という捉え方です。
 ・心経の「心」は心臓、真髄、核心、重要の意味との理解です。
 ・般若波羅蜜多は「仏様が覚った真実(智慧)」。
 ・仏様が覚った「空と縁起」の思想、つまり“万物は変化するので、それ自身の性質(固定的な本質)は無い。因縁果で変化する”という思想を身に付けて、自分に拘(こだわ)ることを止め、苦しみから脱しようとの教えです。
 ・六波羅蜜多(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の取り組みの必要性も訴えています。
●解釈2.呪文の提示
 ・般若心経は「思いが叶う(苦しみから救われる)祈りの言葉を伝えようとしたもの」との捉え方です。
 ・心経の「心」は心呪のことで、呪文の意味との理解です。
 ・般若波羅蜜多は「呪文、祈りの言葉」のことです。
 ・般若心経は、大乗仏教の智慧が完成・凝縮された「般若経、特にその祈りの言葉」を教えているという考えです。
 ・自己努力では叶わない救済を、神秘なもの、絶対的なものに願うという考えです。
 ・祈りの言葉は、「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」です。
●私が良いと思う解釈
・私が良いと思う解釈は、解釈2の「呪文の提示」を主としながら、そこに解釈1の一部分である「六波羅蜜多の修行」を付け加える、というものです。
・その理由として、次の①から③をあげることができます。
①般若心経の中で詳しく述べられていない「空」の思想を、般若心経の中心的教えであると説くことが、般若心経を難しく感じさせているように私は思います。
②般若波羅蜜多には「六波羅蜜多の修行」の意味もあるので、般若心経は「呪文の提示」を主にしながらも、それに加えて、修行していく、努力していく、という意味合いがあると解釈するのが良いと思われます。
③前々回、本シリーズの第4回で説明した通り、般若心経を段落で区切って現代日本語訳し、各段落の内容を順に追ってみると、般若心経は般若波羅蜜多という「呪文の提示」をしている、と考えるのが妥当だと分かります。

第2節 「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」の再考

・第1節の般若心経の2つの解釈および私が良いと思う解釈に深く関係する3つのキーワード、「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」について再度考察し、理解を深めるようにします。

第1項 「空」とは
●「空」とは
   ・まず初めに「からっぽ、無」といういみがあります。これは一般的な理解と言えます。
   ・次に空とは「因縁果によって変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないこと」という理解があります。これは釈迦の理論、解釈です。
   ・3番目に空とは「人間を苦しみから救う絶対的なもの、神秘的なもの」という解釈があります。これは大乗仏教の考えです。
●釈迦の「空」と大乗仏教の「空」は違うわけですが、違う意味のことを、なぜ同じ「空」という文字で表現したのでしょうか?それは、「空」の文字に2つの意味があるからです。
●「空」の2つの意味:「から」と「そら」
   ・釈迦の「空」は、形あるものの「それ自身の性質(固定的な本質)は無く」、他のものとの因縁果で変わってくるものだから「空っぽ」の「空(から)」です。
   ・大乗仏教の「空」は、膨らんで、膨らんで、出来た大きな空間(=大空)という考えから「空(そら)」 と言えます。
     *ちなみに、「空」のサンスクリット語(古代インド語)の語源「シューニャ」は「膨らむ」という意味の動詞です。
     *空間の果てしない広がりは宇宙と同じと考えられ、知恵の及ばない神秘なものと認識されました。
   ・インド哲学大家の中村元(はじめ)氏は次のように述べています。
     「『そら』は『大空』や『天、天空』のことで、古代人にとって天空は神々の住む偉大な領域であった。」

第2項 「般若波羅蜜多」とは
*般若のサンスクリット語は「プラジュニャー」です。サンスクリット語の俗語のパーリ語では「パンニャ」です。
この「パンニャ」を音写、音で漢字に置き換えたのが般若です。
般若は「智慧」という意味です。
*波羅蜜多のサンスクリット語は「パーラミター」で、これを音写したのです。波羅蜜多は「完成した」という意味です。

●般若は「智慧」、波羅蜜多は「完成した」という意味ですから、般若波羅蜜多は「智慧の完成」という意味になりますが、「智慧の完成」には2通りの解釈があります。
   ・1つは「智慧を完成させること」という解釈で、六波羅蜜多の修行をしていくことの 必要性を説いています。奈良の薬師寺や興福寺その他の多くの寺がこの解釈をしています。なお、六波羅蜜多とは、仏になる前の修行者が取り組むべき6つの修行項目のことで、次回の第7回に少し詳しく説明をします。
   ・「智慧の完成」のもう1つの解釈は「完成された結果としての智慧」というものです。
     これは呪文、祈りの言葉ということになります。密教と呼ばれる真言宗や天台宗などでこの解釈がされています。
●なお、般若心経の「完成された仏の智慧」とは、釈迦が直接言った言葉や智慧のことではなく、釈迦の慈悲の心を踏まえて発展させた「大乗仏教の智慧」のこと、という点に注意すべきです。

第3項 般若心経の呪文の意味
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」の意味について考えてみましょう。
●これについては、「呪文なのだから翻訳せず、そのままの音で唱えるのが良い」との考えが根強いです。
●しかし私は「意味を分かって唱えるべき」と思っています。
なぜなら、意味が分かってこそ祈りに思いが込められると思うからです。
●玄奘三蔵法師が、呪文なので呪力が弱まらないよう、翻訳せずにそのまま唱えるように言ったのは、
①この呪文の意味を説明した上で言った、もしくは
②説明しなくても意味が分かる弟子たちに言った、
のだと私は思います。つまり、意味を分かった上で、原語のサンスクリット語で呪文を唱えたのだと思います。
●さて、般若心経の呪文の一般的な訳は次のようなものです。
  ・「行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ」
  ・これはNHKテレビテキスト『100分de名著 般若心経』での仏教学者・佐々木閑(しずか)氏の訳ですが、インド哲学の大家の中村元(はじめ)氏なども同じような訳をしています。
  ・正直なところ、この訳は私にはちょっと意味が理解しづらいです。
●そこで、般若心経の呪文「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」をサンスクリット語からの音写でなく、その意味で漢訳したものを見てみましょう。
唐の僧の法蔵という人が直訳したものがこれです。「度、度、彼岸、彼岸普度、覚成就(ど、ど、ひがん、ひがんふど、かくじょうじゅ)」。
「度」の意味は①渡る、越える、②救う、③解き放たれる、の3つがありますが、ここでは①の「渡る」でしょう。
「彼岸普度」の「普」は①あまねく、すべてに広く、の意味です。
●この法蔵の呪文の直訳をもとに、日本人の高神覚昇師が素晴らしい意訳をしています。
なお、文章が過去形表現であることを記憶に留めておいてください。
  ・ 「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普(あまね)く一切の人々を皆行かしめ終わった。かくてわが覚(さとり)の行(ぎょう)が完成した」
●大乗仏教の基本の考えは民衆救済です。「皆で一緒に救われよう」というものです。
●菩薩は「皆が救われるまで、自分も救われないで良い。苦しい世界で皆を救済する活動をし続ける」と決意したと言われています。皆が悟りの彼岸へ行き、救われたと分かったとき、菩薩は大感激し喜んだはずです。
●その理想の実現を高らかに宣言したのが、この呪文(マントラとも真言とも言う)であり、高神覚昇師の意訳です。
●そして、このサンスクリット語の呪文は、文法的に過去形と取ることも、未来形と取ることも可能です。そのため、サンスクリット語の元々の文章を過去形として扱わず、将来の希望として扱い、訳すことも可能と言われています。
●奈良の薬師寺の管主(かんす)だった高田好胤師は、般若心経の写経の納経料で薬師寺の伽藍を復興させた人として有名ですが、高田好胤師が「羯諦 羯諦・・・」の呪文を将来の希望として訳したものがあります。
  ・「行こう、行こう、さあ行こう、みんなで力を合わせ、心を合わせ、みんなで幸せの国を作りましょう。そして、みんなで幸せの国へ行きましょう。」
●高田好胤師の訳は「羯諦 羯諦(ぎゃてい ぎゃてい)」から始まって「波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)」までのもので、「菩提薩婆訶(ぼうじそわか)」が入っていません。
そこで、高神覚昇師の解釈を踏まえ、高田好胤師の訳文を参考にし、「菩提薩婆訶」までを含めて私として呪文を訳してみます。
なお、菩提薩婆訶は神仏に願い事をする時の最後に唱える言葉で、意味合いは「わが捧げものをご嘉納あれ!」です。
●私訳
  ・「なろう、なろう、皆でなろう。皆が善い生き方をして、幸せになろう。思いは叶うぞ。うれしいなぁ!」

第4項 皆で幸せになる(私見)
●般若心経の呪文の一般的な説明で言われる「悟りの彼岸」とは、真理(善い生き方)を知り、実践して、幸せになることだと私は思います。
●「皆で幸せになる」ことは菩薩の切なる願いです。
● 「皆で幸せになる」という言葉には2つの重要な意味が含まれていると思います。
   ・1つは、「皆で一緒に幸福になってこそ、幸せを心の底から感じられ、喜べる」ということです。
   ・もう1つは、「皆で幸福になることが、幸せになる秘訣である」ということです。一部の人たちが幸せであっても、他の人々が不幸であったら、一部の人たちの幸せも長続きしないからです。

付録:もう少し知りたい

この第6回は、般若心経のキーワードである「『空』と『般若波羅蜜多』と『呪文』」について論じることが主眼です。
これまでの説明でほぼ理解いただけたかと思いますが、『呪文』については若干詳しい説明を追加で行います。題して「付録:もう少し知りたい」です。
●漢字の「呪(しゅ)」について
  ・日本では「のろい」「まじない」の意味に取られることが多いですが、「呪(しゅ)」には「いのり」の意味もあります。
  ・漢字の「呪(しゅ)」は、もともと漢字の「祝(しゅく)」、意味は(いわう、いのる)から出来たものです。
●般若心経の「呪」について
  ・呪はサンスクリット語のマントラを漢訳したもので、他に呪文、真言、祈りの言葉、真実の言葉、などと日本語訳されています。
●仏教学者の米澤嘉康氏による「真実語」の研究によれば、
  ・古代インドでは、「誓いを公言し、誓いをある期間実践すると、誓いが真実の言葉となり、願うことが叶えられる不可思議な力を得る」と思われていた、とのことです。
●ここから言えること(私見)は、「誓いを実行するという努力を前提にしなければ、願いを叶える不可思議な力は出てこない」、ということでしょう。
  ・繰り返しますが、「努力を前提にしなければ、願いを叶える不可思議な力は出てこない」、というところがポイントだと思います。

|

般若心経の意味を知る(第5回)

§5.日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由

日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由を日本での仏教の歴史から、考察してみます。 

第1節 日本での仏教の概略歴史

「日本での仏教概略歴史」を年表にしてみました。

042503_thumb
飛鳥時代の「仏教の導入」から始まって、奈良時代の「国家鎮護の思想」の広まり、鎌倉時代の「仏教の民衆化」があり、江戸時代には寺々が「統治機構の末端」を担い、明治初期には寺々への憤懣が爆発し、現在は仏教のあるべき姿が「模索」されています。

第2節 日本での仏教の歴史

それぞれの時代の仏教をもう少し詳しく見ていきましょう。
●聖徳太子は仏教の内容を教え、広めようとしました。
 ・維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、法華経(ほけきょう)という3つのお経について、教えの内容を解説する本を聖徳太子は執筆しています。その本のことをまとめて三教義疏(さんきょうぎしょ)と言います。
 ・また、聖徳太子はお経の内容を推古天皇その他の人々へ講義をしています。
 ・参考画像として、三教義疏のうちの1つである『法華義疏(ほっけぎしょ)』巻一の冒頭部分を示します。この『法華義疏』は聖徳太子が自ら書いたものと言われていて(異説もあり)、御物となっています。
●奈良時代には鎮護国家の仏教となっていきます。
 ・僧侶は国の官僚機構に取り込まれます。
 ・そして興味深いことには、(経典の内容理解よりも)読経の発音の正確さが重視されます。奈良時代の養老4年(西暦720年)には、「今後、僧侶は唐から来た僧などに読経するときの発音を習い、変な読み方をしないように」という詔(みことのり)が出ています。
●鎌倉時代に仏教は庶民に広がっていきます。
 ・「念仏を唱えることで救われる」などと簡単な教え方で仏教が広まっていきます。
 ・また、仏式の葬儀が少しずつ行われるようになったのもこの時代からです。
●江戸時代は寺が統治機構の末端になりました。
 ・キリシタン取締が目的の寺請制度の実施により、寺が民衆に対して権力を持つようになります。寺請制度とは、簡単に言えば、ある寺の檀家になることでキリシタンでないことを証明してもらう制度です。他国へ移動する時の許可証も寺が発行するようになり、民衆の上に寺が存在するようになってしまいます。
 ・寺は多くの檀家を保有し、経営基盤を確保しました。そうなると真面目に布教活動などをしなくなります。お経の教えなどを民衆に分かり易く伝えることなどはされません。
 ・もちろん多くの寺の中には民衆に寄り添った寺や優しいお坊さんもいたでしょう。しかし、全体の割合から言うと、寺は民衆の上に存在していたのです。
●明治時代の初めに廃仏毀釈が起こります。
 ・神道を国家統合の根本にしようとして政府が神仏分離令を出しました。これは仏教排斥を狙ったものではないと言われています。
 ・しかし、民衆の寺に対する怒りが爆発し、寺や仏具を破壊する廃仏毀釈運動が各地で起こります。
 ・廃仏毀釈に関する参考画像を2枚示します。1枚目は、修学旅行などでよく皆で記念撮影をする奈良・興福寺の五重塔(国宝)の写真です。

042509_thumb
この五重塔は、廃仏毀釈の時に当時の金額で25円(異説あり)、現在の貨幣価値に換算して10万円程度で売られそうになりました。
 ・2枚目は、江戸時代には西の日光と言われた大きな寺であった、奈良県天理市の内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)跡の写真です。廃仏毀釈で堂塔は破壊され、現在はかつての浄土式庭園の跡である池があるのみです。

042510_thumb
 ・廃仏毀釈は数年で下火になりますが、日本各地の寺は非常に疲弊しました。
●明治半ば以降、仏教研究の飛躍
 ・これまで中国や半島三国を経由して日本へ伝わっていた仏教は大乗仏教で、それ以外の仏教があることを日本ではほとんど知られていなかったのですが、世界との交流によって釈迦の元々の教えの原始仏教と小乗仏教が存在することが分かり、それらの研究が始まりました。
 ・また、漢訳の仏典だけでなく、仏教の経典が元々書かれた古代インド語のサンスクリット語の仏典による研究が始まりました。漢訳仏典は簡潔に表現されていますので、内容の理解がいろいろと可能です。そのため、誤った解釈がなされていることもあることが分かってきました。
 ・この時期、日本では仏教研究が飛躍的に進歩したのです。
●昭和後半以降、仏教の弱体化が進み、それへの対処策の模索と再生への取り組みが開始されます。
 ・戦後の高度成長で地方から都市へ人が大量に移動していきます。また、家制度の廃止、核家族化で寺の檀家との結び付きが弱体化します。
 ・『寺院消滅』の危機が発生し、それに対してどうしたら寺々が生き残れるかが模索され、再生への取り組みが一部で始まりました。
 ・参考画像として、近年出版された本の表紙を示します。1冊はタイトルそのものが『寺院消滅』で寺院存続の危機を書いています。もう1冊は寺院の再生への新たな取り組みを紹介している『ともに生きる仏教』です。

042511_thumb
 ・なお、団塊の世代の高齢化の伴い、生死の問題に関心が向くことが予想されますので、今後は寺々や仏教に対する関心度やニーズが高まってくると思われます。

第3節 日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由

第1項 統治のための利用
①奈良時代から鎌倉時代には般若心経だけでなく仏教全体が、鎮護国家の思想で活用されるようになりました。
・疫病(天然痘)、天災(大雨・日照り・地震)、反乱等から国家を守ることを祈るためのツールとして仏教が使われました。
②江戸時代になると寺院は統治機構に組み込まれ、寺請制度などで寺院の収入が保証されると、一部の心ある僧侶を除き、僧侶は本来の自分の使命である布教活動をしなくなりました。
③仏教の本質は「良い生き方の教え」なのですが、その教えは民衆へ広く説明されませんでした。

第2項 仏教の解釈と説明の難しさ
・日本への仏教の伝わり方や、伝わってくる情報の不十分さという歴史的事情により、仏教や般若心経を解釈・説明する際に難しさがありました。これも日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由のひとつと考えられます。
①仏教は、漢訳仏典によって日本へ伝わったため、解釈の難しさが増しました。
 ・漢字や漢文は簡潔表現の為、多くの意味に取れます。
②明治時代の半ばまで小乗仏教の存在が分からず、大乗仏教の般若心経の位置づけが理解困難でした。
 ・小乗仏教の情報は、江戸時代の鎖国が解かれ日本が世界と結び付くことによって、明治半ばに日本へ入ってきました。

第3項 分からないものを有難がる日本の変な思想
①分からないものを有難がる変な思想(集団的な特性)が日本にはあります。また、分からないものにしておくことで、有難がらせ、権威付けする傾向があります。
・この特性や傾向は、長い時間を掛けて一部の人達によって意図的に作られてきた可能性があります。
・その証拠に、経典の和訳や口語訳がほとんどされてきませんでした。他国では現地の言葉に訳されているのにです。
・また、日本人の話す普段の言葉で書かれた『心経鈔(しんぎょうしょう)』(*)は、近代の日本の仏教学者が編集した『日本大蔵経』にも『大日本仏教全書』にも入っていません。
 *『心経鈔(しんぎょうしょう)』は江戸時代前期の僧侶の盤珪永琢(ばんけいえいたく)が書いた『般若心経』の解説本です。
・なお、念のため言葉を付け加えておきますが、近年、心ある僧侶や仏教学者は「上記のようなことではいけない」と、経典を分かり易く説明する取り組みを始めています。

|

般若心経の意味を知る(第4回)

§4.般若心経を現代日本語に訳してみる

第1節 はじめに

般若心経の全文訳を取り上げるのは長くなりすぎるので、全体をその内容から6段落に分けて段落ごとの要約を説明します。
段落ごとに要約して読むと、般若心経の全体の文章の流れ(論理展開)が分かり、内容が理解しやすいのです。
具体的には般若心経に次のように段落をもうけました。全体的には次の図のようになります。

04_thumb
それでは段落ごとに要約します。

第2節 般若心経の各段階の要約

第1項・・・「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」から「度一切苦厄(どいっさいくやく)」まで
  ・観自在菩薩(観音様)は、全ての人を苦しみから救いたいと思い、それが実現されるまでは仏にならず、人々と一緒の世界に住んでいようと考えていました。
  ・観音様は修行していた時、「人間を形作っているものは絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)が無いのだ」と明確に認識しました。
  ・そして、般若経の持つ不思議な力、絶大な力について気付き、一切の苦しみや憂いから解放されたのです。

第2項・・・「舎利子(しゃりし)」から「亦復如是(やくぶにょぜ)」まで
  ・観音様は舎利子に次のように教えました。
  ・以前にお釈迦様は、こう言いました
    「人間は肉体と心で成り立っています。
    肉体は小さな物質の要素が組み合わさって出来た集合体です。
    物質要素の組み合わせも、周囲の環境も、時とともに変化し、それぞれが影響し合って変わっていきますから、『完全に固定的なものはない』と言えます。
    心もいろいろなことで変化し、影響し合って変わっていきますから、『完全に固定的なものはない』と言えます。」
  ・そしてお釈迦様は、世の中のすべてのものは「完全に固定的なものはない」から、何事も変えることができ、人は苦しみから脱却できると説きました。
  ・「完全に固定的なものはない」ということをお釈迦様は「空のようなもの(釈迦の空)」だと言ったのです。
  ・しかし、大乗仏教の智慧が完成・凝縮された「般若経」では、すべてのものが「空のようなもの」ではなく、「空そのもの」なのです。存在しないのです。

第3項・・・ 「舎利子(しゃりし)」から「以無所得故(いむしょとくこ)」まで
  ・すべてのものが無く、人間を成り立たせている要素も無いのですから、その存在を前提としてお釈迦様が説かれた、人の心に苦しみが発生する仕組みと、それを消滅させる方法もないことになります。
  ・つまり、世の中の構成要素の分析や理論によって、世の真実を把握し、人間を救うことはできません。

第4項・・・「菩提薩垂(ぼだいさった)」から「得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)」まで
  ・そのため、悟ろうとする者や、人々を救おうとしている者は、神秘な絶対的な力を持つ「般若経の最重要部分」を拠り所とするのです。

第5項・・・ 「故知(こち)」から「説般若波羅蜜多呪(せつはんにゃはらみたしゅ)」まで
  ・般若経の最重要部分は、あらゆる苦しみを鎮める、信頼の置ける、思いが叶う祈りの言葉です。

第6項・・・「即説呪曰(そくせつしゅわっ)」から「般若心経」まで
  ・思いが叶う祈りの言葉は次の通りです。
    「なろう、なろう、皆でなろう。
    皆が善い生き方をして、幸せになろう。
    思いは叶うぞ。うれしいなぁ!」

第3節 各段落のさらなる要約

各段落の要約をさらに圧縮してまとめると次のようになります。
第1項・・・観自在菩薩は、般若経の持つ不思議な力、絶大な力について気付き、一切の苦しみや憂いから解放された。
第2項・・・釈迦は、世の中のものに「完全に固定的なものはない」から、何事も変えることができ、人は苦しみから脱却できると説いた。しかし、大乗仏教の智慧が完成・凝縮された「般若経」では、すべてのものが存在しないと説く。
第3項・・・釈迦が説いた「世の中の構成要素の分析や理論によって、世の真実を把握し、人間を救う」、ということはできない。
第4項・・・悟ろうとする者や、人々を救おうとしている者は、神秘な絶対的な力を持つ「般若経の最重要部分」を拠り所とする。
第5項・・・般若経の最重要部分は、思いが叶う祈りの言葉である。
第6項・・・思いが叶う祈りの言葉を伝授。
この「各段落のさらなる要約」から読み取れる文章の流れ(論理展開)は、第1項は観自在菩薩が覚ったということを述べ、第2項から第6項まではその覚った内容について観自在菩薩が舎利子に教えているということです。
そして教えの内容は、「釈迦の教えを乗り越えていき、大乗仏教の思いが叶う祈りの言葉を伝授する」というものです。

第4節 般若心経の理解のポイント

般若心経は大乗仏教の思想で書かれた教えです。
釈迦の教え(*1)を乗り越え、新しい大乗仏教の教え(*2)で救われようと説いています。
それが釈迦も望んだ民衆救済につながる方法であるという考えです。
*1:釈迦の教えとは、世の中を理屈で考え、自己努力で救われよう、というものです。
*2:大乗仏教の教えとは、自己努力はしつつも、神秘的・絶対的な力に頼って救われよう、というものです。
なお、前述第1項の観自在菩薩の覚りは、第1ステップとして釈迦の教えを明確に理解し、次に第2ステップとして(思索が深まって)、大乗仏教の教えである神秘的・絶対的な力にも頼るべきことを知った、と解釈すると分かり易いです。

第5節 般若心経の全文訳について

なお、般若心経の全文訳は拙著『般若心経 私のお経の学び(1)』を参照ください。
ページを上下2段に分けて、上段には漢訳の経文を、下段には現代日本語の通読訳(始めから終りまで一通り読み通すことが出来る訳)を載せています。
また、重要単語の逐語訳も書き添えました。

13_thumb

|

般若心経の意味を知る(第3回)

§3.般若心経の意味が分からない理由

般若心経の意味が分からない理由としては、
「1.言葉が分からない」
「2.訳文の意味が分からない」
「3.現代の日本の常識から言って、内容が理解しにくい」
「4.肝心なことの説明がない」
が挙げられます。

1.言葉が分からない理由

「1.言葉が分からない」ことの中身を具体的に見てみます。
①漢訳のお経は漢字の羅列で文の区切りがありません。そのため、当然のことながら、どう読み、どう解釈するか不明です。
②言葉が難しく意味が分かりません。これは後で実例Aとしても説明しますが、音写(おんしゃ)と呼ばれるものが大きな原因です。
音写とは、古代インド語であるサンスクリット語の言葉が、一部、意味ではなく音で漢訳されていることです。
音がそのまま写されているのです。そのため、漢字の意味から、その言葉の意味を推測することは不可能です。
音写部分が特殊な文字、例えば日本語の場合は外来語をカタカナで書きますが、そういうことは漢文ではありませんから、日本人には音写であることすら分からないのです。
③省略されている内容が分かりません。これについても後で実例B(乃至、ないし)として説明します。
実例A:言葉が難しい(音写)
●般若心経を漢訳した玄奘三蔵法師は、漢訳方針として次の5種類のものは意訳でなく音写をしました。
①秘密の言葉であり、音を変えてしまうと呪力が減ってしまうと思われるもの。
②以前から音写が定着しているもの。
③多くの意味を持っている言葉。
④インドにあって中国にないもの。
⑤訳すことで言葉の重みがなくなってしまうもの。
●般若心経に含まれる音写の言葉の一例は「般若」です。
・「般若」は「仏の優れた智慧」という意味です。
・「智慧」と訳すと、先に述べた音写方針の⑤「言葉の重みがなくなってしまう」と考えたのです。
実例B:省略されている内容が分からない
●仏教の知識不足のために、般若心経の文中で文言が省略されていること、およびその内容が分からないということです。
●省略の一例は「眼界も無く、乃至、意識界も無し(げんかいもなく、ないし、いしきかいもなし)」です。
●乃至(ないし)は○○から○○までという意味ですから、間に入るものがあります。
・この例の意味は、仏教が人間を捉えるときの考え方である「十八界」の、眼界から意識界までの18個の界も全て無いということです。
・ 「十八界」=(イコール)眼や耳や鼻などの6個の感覚器官+(プラス)色(形)や声や香などの6個の感覚対象+(プラス)感覚対象を感知して生じる6個の認識=(イコール)18個というものです。

2.訳文の意味が分からない理由

●訳文の意味が分からないものとしては3つの種類があります。
①は文字通り、「訳文の意味が分からない」ものです。実例Cとして後ほど述べる「照見五蘊皆空度一切苦(しょうけん ごうん かいくう ど いっさい く)」が、これに当たります。
②は「同じ言葉の主語と述語の入れ替えの意味が分からない」というものです。実例Dの「色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)」が、これです。
③は「似た言葉が列挙されているが、その意味の違いが分からない」です。実例Eの「色不異空、色即是空(しきふいくう、しきそくぜくう)」で説明します。
実例C:訳文の意味が分からない
●「照見五蘊皆空度一切苦(しょうけん ごうん かいくう ど いっさい く)」について、解説書には、
①「五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極め」ることで、
②「すべての苦しみを取り除かれた」
と説明してありますが、どうしてこの①と②の2つが繋がるのかの説明がありません。
また、五つの要素についても説明が不足しています。
●そのため、訳文の意味が分からないと感じるのです。
●なお、参考までに末尾付録の「もう少し知りたい」に「照見五蘊皆空度一切苦」の解釈を掲載しています。
実例D:同じ言葉の主語と述語の入れ替えの意味が分からない
●「色即是空」と「空即是色」は主語と述語が入れ替わっています。
●現代日本語訳の一例(花山勝友師)
  「色即是空」・・・形あるものはそのままで実体なきものであり
  「空即是色」・・・実体がないことがそのまま形あるものとなっている、です。
・正直言って、私はこの日本語訳は分かりづらいと思いました。
●私が、納得がいった宮坂宥洪(みやさか ゆうこう)師の説明は次の通りです。
・サンスクリット語では、主語と述語が入れ替わっても意味は変わらない。
・つまり 「色即是空」=(イコール) 「空即是色」。
・これですと、私は理解できるように感じました。複雑な解釈をする必要がないからです。
・意味は「形あるものは変化し、それ自身の性質(固定的な本質)はない」と理解すれば良いと思います。
実例E: 似た言葉が列挙されているが、その意味の違いが分からない
●「色不異空」と「色即是空」は、「色は空に異ならず」と「色は即ちこれ空」と読め、意味は似た言葉と思われますが、何か違いがあるのでしょうか?
●違いはありません。両方とも「色は空である」と同じことを述べています。
●古代インドでは、「重要なことは繰り返して言う」ということが行われていました。

3.現代の日本の常識から言って、内容がりかいしにくい理由

●現代の日本の常識から言って、内容が理解しにくいものの例は「不生(ふしょう)にして不滅(ふめつ)、不垢(ふく)にして不浄(ふじょう)、不増(ふぞう)にして不減(ふげん)なり」です。
・現代の常識で考えれば、いろいろなものが生まれ、死滅していきます。物は汚れ(垢がつき)、掃除をすれば綺麗(浄らか)になります。増えもすれば、減りもします。
●常識から言って、理解しにいことが書いてあるのは、「不生不滅・・・不増不減」の文の前提として「この世は『空』で、何もないから」と述べられているためです。
●なお、付録の「もう少し知りたい」に、「不生不滅・・・不増不減を理解するには」を掲載しています。

4.肝心なことの説明がないことについて

●般若心経は般若経の「空(くう)」の思想や「因縁果(縁起)」の法について教えているお経だと一般に言われているのですが、般若心経には「空」や「因縁果(縁起)」について詳しい説明がないのです。
●近年、仏教学者の村上真完氏は「『般若心経』の空を理解することは、『般若心経』だけからでは容易にできない」と述べていて、他の仏教学者もこのことに賛同しています。
●なお、付録の「もう少し知りたい」に、「空とは、因縁果(縁起)とは」を掲載しています。


付録:もう少し知りたい

 この第3回は「般若心経の意味が分からない」ことを論じることが主眼ですが、出てきた文言の意味や問題の答えなどが分からないままでは、消化不良の気持ちになる方もいらっしゃると思います。
 そのため、付録として若干の説明を述べます。題して「もう少し知りたい」です。
●「照見五蘊皆空度一切苦」の解釈
「照見五蘊皆空度一切苦」は2通りの解釈が可能です。
・解釈1は、「五つの要素がいずれも固定的な実体がなく、いろいろなものの影響で変わっていくものなので、執着することを止めて、苦しみから脱却した」というものです。
・解釈2は、「五つの要素がいずれも実質的に存在しないので、理論的に考えることは不可能だから、絶対的なもの、神秘的なものに頼って、すべての苦しみから脱却した」というものです。
●「不生不滅、不垢不浄、不増不減」を理解するには
・「不生不滅、不垢不浄、不増不減」の前にある文の「「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)」が、「この世の中のあらゆる存在や現象は『空そのもの』で、何もない、ということだから」、「空という考えに立てば」という意味であることが分かると、「不生不滅・・・不増不減」も理解可能となります。
・何もないのだから、生まれも滅びもしないのです。
●「空」とは、「因縁果(縁起)」とは
・「空」とは、簡単に言えば「無」、「空っぽ」のことです。多少難しく説明すれば、「空とは、絶えず変化しているため、それ自身の性質(固定的な本質)がないこと」です。
・「因縁果(縁起)」とは、ものごとの直接的な原因と、間接的に影響するものである「縁」と、それらによって生じる結果のことです。
・仏教の基本的な考えは、「世の中に存在するものは、絶えず変化して、それ自身の性質(固定的な本質)はなく、互いに因縁果の関係で影響し合っている」というもの です。

|

般若心経の意味を知る(第2回)

§2.仏教の概略歴史(成立期)

仏教の成立期の歴史を知ると般若心経の内容がよく理解できるようになりますので、成立期の概略の歴史を見てみましょう。

クイズ
・本題への呼び水として、ここでクイズをします。仏教の経典であるお経について、次の3項目のうちどれが正しいでしょうか?
①お経は釈迦の教えである。
②お経は釈迦の教えではない。
③お経は釈迦の教えであるとも、教えでないとも言える。
・正解は③です。
・お経は、釈迦の没後に弟子たちが集まり、「私は釈迦の教えをこう聴いた」(如是我聞、にょぜがもん)と話し合ってまとめました。
・その後、「釈迦の考えはこうだったに違いない」と思われたものも、お経としてまとめられました。
・つまり、お経の思想のベースは釈迦の教えですが、経典はいろいろな人達によって作られたのです。

仏教の概略歴史(成立期)の年表

05_thumb
・図表の「仏教概略歴史(成立期)」を見て下さい。紀元前463年に釈迦が誕生し、紀元前383年に80歳で釈迦は亡くなります。釈迦は歴史上に実際に存在した人物なのです。
・釈迦没後まもなく、第1回結集(けつじゅう)が行われます。結集とは、言うならば経典作成会議で、釈迦の弟子たちが集まって、皆で釈迦の教えを思い出し、経典にまとめようとする会議です。
・第2回、第3回の結集も行われます。原始仏教経典が作られ、小乗部派の分裂があり、大乗仏教運動が興り、大乗仏教経典が作られていきます。
・般若心経は、紀元400年頃作成されます。釈迦が亡くなってから約800年後に作られたことになります。

釈迦・原始仏教・小乗仏教・大乗仏教
 ●釈迦
・仏教の成立期の歴史をもう少しだけ詳しく述べます。
・お釈迦様と一般に言われるゴータマ・シダッタ(以下、釈迦と記載)はインドで生まれた実在の人物です。
・釈迦は人間が種々の苦しみから解放されるためにはどうしたら良いかを知りたいと、修行や瞑想(真理探究の思索)を行いました。そして修行開始から6年、釈迦は苦しみの原因や苦しみから解放される方法を把握したのです。
・釈迦は真理を覚った人とのことで覚者(インド古代語のサンスクリット語でブッダ)と呼ばれるようになりました。
 ●原始仏教
・釈迦の教えは原始仏教と呼ばれます。以下はその要点です。
・万物は非常に小さい物質の基本要素が組み合わさって出来ていて、それらは絶えず原因と縁によって変化し、結果が出て来ます。
・「全てが移ろい変化していく」ことを知れば、ものごとや自分に執着することがなくなり、心が安らぎます。
・執着を断ち切るためには真理を理詰めで考えて納得し、自分を自己努力で救うことが必要です。
・日頃の生き方として勧めていることは、「良いことをして、悪いことをせず、心を浄(きよ)らかに保つ」ことです。
 ●小乗仏教(現在の呼称は部派仏教、上座部仏教)
・釈迦と同じように真理を覚りたいと多くの出家者が山に籠り、緻密な分析や理論構築を行いました。
・出家者は自分が苦しみから脱却できることを求めました。在家の人は出家者に布施を行い支援することで、出家者の功徳を間接的に得ようとしました。これは小乗仏教と呼ばれます。
・小乗とは少人数の乗り物という意味で、「これまでの仏教は少人数しか救済できない」と、後から興った大乗仏教側が相手を悪く言ったものです。
   (部派仏教とは釈迦の教えに対する解釈の違いによって仏教界が20ほどの部派に分かれた状況を言いいます)
 ●大乗仏教
・小乗仏教が緻密な理論構築に取り組んで、直接的に民衆救済をしなかったことや、インド国内が戦乱で疲弊し、一般民衆が出家者の支援をしていられなくなったことで、大乗仏教の考えが広まっていきます。
・大乗仏教は、出家者は民衆の中に入って多くの人々を救済しなければいけないと考えました。
・大乗仏教の考えは、「非常に小さい物質の基本要素はない。因縁果の法則もない。理論的に真理を把握して安らぎを得ることはできない」という考えです。そこで、「神秘的な力に頼る」という考えが示されます。
・大乗仏教はある意味、釈迦の教えを否定し、乗り越えようとしたと言えます。一方では人間救済の釈迦の教えに回帰したとも言えます。

インドでの仏教興隆と日本までの伝播の経緯

10_thumb_1
・インドで仏教が興ってから日本へ伝わってくるまでの経緯を図でもって見てみましょう。インドの状況は再度の説明です。
・インドで起こった原始仏教(釈迦の仏教)は、真理を覚り、自己努力で解放されようという教えです。
・その後、この真理を覚り、自己努力で解放されようということが、出家をして緻密な理論構築をすることに埋没してしまうようになり、民衆救済を後回しにするようになります。いわゆる小乗仏教が盛んになってきます。
・そこで、民衆救済に注力する大乗仏教が興ってきます。
・小乗仏教と大乗仏教は共に中国へ伝わるのですが、小乗仏教は民衆救済の考えの面で中国では受け入れられませんでした。中国では大乗仏教だけが広まったのです。
・そのため、中国から直接、または中国から半島三国(百済、新羅、高句麗)を経由して日本へ伝わった仏教は大乗仏教でした。日本では明治の初めまで大乗仏教のことを仏教と理解し、大乗仏教以外の仏教があることをほとんど知りませんでした。

|

般若心経の意味を知る(第1回)

はじめに

 ●奈良の寺々
  ・奈良には東大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺など沢山の寺があります。

010807_thumb
 ●奈良は仏都
  ・奈良(県)には多くの寺があり、素晴らしい仏像や芸術品が数多くあります。
  ・具体的に言いますと、国宝彫刻、これは仏像が大半ですが、全国136件中74件、割合にすると54パーセントが奈良にあります。また国宝建造物、これは大半が寺ですが、全国227件中64件、28パーセントが奈良にあり、全国の都道府県で一番多いです。
 ●私の奈良巡りの変化
  ・私の奈良巡りの変化を一言で言いますと、「観光から感動へ、そして『仏の教え』へ関心が移っていった」ということです。
  ・最初は観光気分で奈良巡りを始めました。
  ・寺々を訪ねているうちに、唐招提寺の鑑真和上、薬師寺関連で玄奘三蔵法師と高田好胤師、東大寺の行基菩薩と公慶上人、法隆寺の聖徳太子、などの生き方を知って感動しました。
  ・その人たちを行動へと突き動かした「仏の教え」とはどんなものだったのか?!そこへ関心が移っていきました。
  ・そこで、まずは読経や写経で身近な般若心経の意味を知りたいと思いました。
 ●本シリーズの内容
  ・次の7セクションに分けて般若心経の意味を述べるようにします。
    §1:般若心経とはどんなものか?
    §2.仏教の概略歴史(成立期)
    §3.般若心経の意味が分からない理由
    §4.般若心経を現代日本語に訳してみる
    §5.日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由
    §6.空と般若波羅蜜多と呪文(真言)の再考
    §7.私たちにとっての般若心経の価値(添付:本シリーズのポイント)

§1.般若心経とはどんなものか?

 ●孫悟空も聞き、スティーブ・ジョブズも唱えた般若心経

010812_thumb
  ・画像の写真は、左側が物語『西遊記』の主人公の孫悟空で、右側がアップル社の共同設立者の一人であるスティーブ・ジョブズです。
  ・ちなみに、孫悟空に扮している人は堺正章さんです。
  ・孫悟空が般若心経を聞いた、スティーブ・ジョブズが般若心経を唱えたということが、どうして言えるかと次の通りです。
 ●孫悟空のお師匠様
  ・『西遊記』で孫悟空のお師匠様は三蔵法師です。この三蔵法師のモデルと言われる人は、中国からインドへ仏教を学びに行った玄奘三蔵法師です。
  ・玄奘はインドへの求法の旅で困難に遭うと、般若心経を一心に唱えました。
  ・当時、鳩摩羅什という僧侶が漢訳した経典の般若心経があったのです。鳩摩羅什訳の経典の正式名称は『魔訶般若波羅蜜大明呪経』と言いますが、大明呪とは「素晴らしい呪文」という意味です。
  ・玄奘はインドから中国へ帰って仏教経典の漢訳をするわけですが、『般若心経』は鳩摩羅什訳を尊重して漢訳しました。鳩摩羅什訳の『般若心経』に助けてもらったという気持ちが強かったのだろうと思います。

 ●オークションで落札された『AppleⅠ』とスティーブ・ジョブズのメモ
  ・『AppleⅠ』はApple社が作った最初のコンピューターで、製造年は1976年です。この1976年製の完全に動作する『AppleⅠ』が、2012年のオークションにおいて約3,000万円で落札されました。
  ・同じ日のオークションで、スティーブ・ジョブズが19歳の時に書いた4枚のメモ用紙が約220万円で落札されました。
  ・メモ用紙の末尾には般若心経の呪文(真言、思いが叶う祈りの言葉)が英文で書いてありました。オークションを伝える記事に載っていた、そのメモの日本語訳は「進み、進み、超えていく。常に超えて進み、悟った者になっていく」です。先端技術で製品を開発していくジョブズのイメージにピッタリの訳のように思いました。
 ●ビートルズのジョン・レノンも般若心経に関心を持っていた
  ・ビートルズのジョン・レノンも般若心経に関心を持っていました。彼の着ているジャンバーの袖には「魔訶般若波羅蜜多心経」という文字が施されています。
 ●一般的な般若心経
  ・日本で一般に広まっている般若心経は玄奘が漢訳したものをベースにして、若干だけ玄奘訳とは異なるところがある「流布本」と言われるものです。

010816_thumb
  ・般若心経の流布本の文章は画像の通りです。出だしの「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄(かんじざいぼさつ ぎょうじん はんにゃはらみたじ しょうけん ごうんかいくう どいっさいくやく)・・・」という文言は多くの人が聞いたことがあるのではないでしょうか。
  ・漢文のお経は、全く意味が分かりませんので、次に読み下し文を見てみましょう。
 ●般若心経の読み下し文

010817_thumb
  ・般若心経の読み下し文の出だしは、「観自在菩薩 深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。・・・」です。読み下し文でも意味がほとんど分かりません。意味については追い追い考えていくとして、ここでは般若心経とはこんなものだという認識をしておけば良いと思います。
 ●般若心経の大本と小本
  ・実は般若心経には、全体を表した大きな本で「大本」と呼ばれるものと、その中の一部分を抜き出した「小本」と呼ばれるものがあります。一般に般若心経として親しまれているのは小本のことです。
  ・小本が本文部分で、大本は小本の前に前段部分を、小本の後に後段部分を配置したものです。前段部分は、どういう状況でこの教えが語られたか、という状況説明が書かれています。後段部分は、この教えが素晴らしいとの賛嘆の言葉が書かれています。
  ・教えが説かれる状況は、次のように説明されています。釈迦は山で瞑想(真理探究の思索)をしていました。周りには多くの弟子や菩薩たちがいました。そこの菩薩の一人である観音菩薩に、釈迦の弟子の中で智慧が一番優れている舎利子が「般若波羅蜜多」について尋ねます。なお、舎利子は舎利弗とも訳されている人で、阿弥陀経などでよく「シャリホー」と読み上げられています。
  ・後段の部分の、「教えの内容を賛嘆する」情景は、次のように描かれています。観音菩薩が舎利子に教えた内容を釈迦が素晴らしいと太鼓判を押します。そして多くの弟子や菩薩たちが、素晴らしい教えだと褒め称えます。

010819_thumb

|

著書『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』のご紹介

●本のタイトルと内容
本のタイトルは『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』です。
古代史研究家で小説家の朝皇龍古(あさみりゅうこ)さんに、私(鏡清澄)が日本の古代史について質問して答えて頂きました。

●本の惹句
聖徳太子は摂政だったのか?
法興寺(飛鳥寺)は蘇我氏の寺か?
聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?
など飛鳥時代の種々の事柄について、歴史小説『飛鳥から遥かなる未来のために』の著者の朝皇龍古氏が対談で丁寧にかつ簡潔に説明します。
対談の相手は古代史ファンの鏡清澄氏(ママ)で、日頃疑問に思っている飛鳥時代のことを次々に質問していきます。
朝皇氏の歴史考察の拠り所は、
① 文献的裏付けがあるのか
② 理屈や人間心理に合っているのか
③ 現実の事象や結果と符合しているのか
④ 外国の史料と整合しているのか
です。
これら4種類の観点で論拠を探り、荒唐無稽にならないよう最低でも3つの論拠を基に考察して、朝皇氏は質問に答えていきます。
あなたは(読者の皆さんは)最終章で提示される朝皇氏の仮説に、どのような論拠で、どう見解を述べるのでしょうか?

●本の出版関連情報
この本の出版関連情報は次の通りです。
題 名:『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』
著 者:朝皇 龍古 / 鏡 清澄
出版社:Independently published
販売元:アマゾンジャパン合同会社
 紙書籍(ペーパーバック)と電子書籍(Kindle本)をオンライン書店のAMAZONで販売中。
価 格:紙書籍は1,320円(税込)、電子書籍は1,000円(税込)。
 *なお電子書籍はAMAZONのKindle Unlimited会員の場合、0円で読めます。
紙書籍の頁 数:195ページ(四六判)
紙書籍のISBN :979-8342806312
紙書籍のAMAZONのURL: https://www.amazon.co.jp/dp/B0DLZ7KGWK/

20241110_thumb
朝皇龍古/鏡清澄著
『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』

|

著書『奈良のこころ(2)』のご紹介

2022112001_thumb
鏡清澄著『奈良のこころ(2)』

●本の惹句

 奈良の奥深い魅力に触れる旅へ、ご一緒してみませんか。
 四季折々の奈良県各地、あまり知られていない寺社や古道や花々などを巡ります。
 それらの奈良巡りを楽しく行っていきながら、寺社が世の中のために行っている事や、仏の教えの一端に触れたいと思います。

●目次と主な記載事項

第一章 四季折々の奈良
(春から初夏)
  桜大仏の壷阪寺
・1長谷寺界隈を歩く
ーー拾遺和歌集の行基菩薩の歌と竹林寺の歌碑
(夏)
  南都七大寺のひとつ、元興寺
 ー蓮の花の美しさ
ーー東大寺で盆踊り
(秋)
  奈良豆比古神社の翁舞
ーー葛城古道を歩く
ーー箸墓古墳を観て、檜原神社、大神神社へ
(冬から春へ)
  東大寺にある榊莫山の書
ーー法隆寺界隈を歩く
ーー三つの寺の修二会

第二章 寺と福祉
・奈良と薬
・生駒・宝山寺の二つの顔
・おてらおやつクラブ

第三章 仏の教えに触れる
・仏教にまつわる絵や像
・喜光寺での写経
・唐招提寺の復興された薬草園

●本の出版情報

この本の出版関連情報は次の通りです。
題 名:『奈良のこころ(2)  四季折々の奈良、仏の教えに触れる』
著 者:鏡 清澄
出版社:Independently published
販売元:アマゾンジャパン合同会社
紙の本(ペーパーバック)と電子書籍(Kindle本)をAMAZONで販売。
価 格:紙の本は1,320円(税込)、電子書籍は990円(税込)。
    *なお電子書籍はAMAZONのKindle Unlimited会員の場合、0円で読めます。
頁 数:236ページ(四六判)
ISBN :979-8848763317
AMAZONの本書のURL:https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLWLRRWV/

|

著書『般若心経の意味を知る』のご紹介

「この本は僧侶でも仏教学者でもない一般人(仏教の素人)が書いた般若心経の解説本です。
各種の般若心経に関係する本を読み、納得いくまで調べ、考えて書きました。
分からないことを有難がったり、有難がらせたりすることはせず、普通に考えて納得できる説明をした積りです。
般若心経の意味を知りたい方、これまで他の般若心経の本を読んでよく理解できなかった方に、この本を読んで頂けたら幸いです。
なお、本書は印刷本の拙著『般若心経 私のお経の学び(1)』の内容を簡潔表記したものです。」

●書籍情報

100頁たらずの小冊子とも言うべき本ですが、般若心経の意味が理解し易いよう簡潔にまとめました。
①電子書籍
   ・AMAZONで販売中(Kindle版)
   ・500円(税込み)
②紙の印刷本
   ・AMAZONで販売中(ペーパーバック)
   ・750円(税込み)

20211214_thumb_2
鏡清澄著『般若心経の意味を知る』

|

編著書『鶴のように』のご紹介

●『鶴のように』(副題:スウェーデンと日本の友人間で交わされたメール)の内容

人それぞれの生き方、死生観、介護、孤独など、人生の第4コーナーを回った人が考えたり経験したりすることが、メールでいろいろと語られています。

●編者からのメッセージ

スウェーデンからのメールは透明感があって涼やかなものでした。
それに対する日本からのメールも澄んでいて思い遣りのあるものでした。
一般に、時と共にメールは忘れ去られ、パソコンからデータが消されていきます。
しかし、この北欧と日本の友人の間で送受信されたメールは、そうさせてしまうのは惜しいと思いました。
メールにはそれぞれの人の思いや経験が入っています。自然の変化と時の移ろいの中で人生観が深まり、生きとし生けるものの定めを感じ取って、心静かに歩んでいる姿が見えるような気がしたからです。
この本は、種々のメールのやり取りの中で、勝手ながら私が印象深いと感じたものを抜き書きし、まとめたものですが、書かれていることは、人生の第四コーナーに来た方々が、身近に経験したり我が事として考えたりする事柄かと存じます。

●本の出版関連情報

<プリント本(紙の本)については次の通りです。>
題名 :『鶴のように』
副題 :スウェーデンと日本の友人間で交わされたメール
編者 :鏡 清澄
制作 :MyISBN
発行所:デザインエッグ株式会社
ISBN :978-4-8150-2824-4
ページ:162ページ(A5版)
販売 :オンラインショップのAMAZON、および一般書店(取り寄せ注文)で販売
発売日:2021年8月10日
AMAZONストア価格 :1,870円(税込)

<Kindle本(パソコンやスマホ等で読める電子書籍)については次の通りです。>
題名 :『鶴のように』
副題 :スウェーデンと日本の友人間で交わされたメール
編者 :鏡 清澄
ASIN :B09CCKV725
ファイルサイズ:3,942KB
販売 :オンラインショップのAMAZONのみで販売
発売日:2021年8月10日
AMAZONストア価格 :500円(税込)

20210816_thumb
鏡清澄編『鶴のように』

|

著書『般若心経 私のお経の学び(1)』のご紹介

●『般若心経 私のお経の学び(1)の内容』
般若心経の意味と教えを私なりに調べて学び、その結果をまとめたものです。

●著者からのメッセージ
般若心経は読経や写経で身近なお経ですが、何を教えようとしているお経なのでしょうか?
多くの解説書が出版されているのに、一般人には般若心経の意味がほとんど分かられていません。なぜでしょうか?
本書は、僧侶や仏教学者などの仏教専門家ではない一般人が、多くの解説書を読んで般若心経を学び、内容をまとめたものです。
執筆に当たり心掛けたことは
①素人の素朴な視点でものを見ること
②一般的な理解力で物事を把握すること
③理解したことを分かり易い文章で書くこと
の三点です。
般若心経の意味を知りたいと思っている一般の方に、「私の学習記録ノート」とも言うべきこの本が参考になれば、それはとても嬉しいことです。

●目次
第一章 般若心経のあらまし
第二章 なぜ般若心経の意味が分からないのか
第三章 仏教と般若心経について調べた(第一ステップ:意味)
第四章 仏教と般若心経について調べた(第二ステップ:歴史)
第五章 般若心経を私なりに分かり易く訳した
第六章 分かり易く訳した般若心経でも残る疑問
第七章 仏教と般若心経について調べた(第三ステップ:日本の仏教史)
第八章 その他、般若心経に関して分かったこと
第九章 「空」と「般若波羅蜜多」と「真言」を再度考えてみる
第十章 現代と般若心経
終章 般若心経・現代日本語訳(訳文のみ再掲載)
巻末注
参考書籍等

●本の出版関連情報
この本の出版関連情報は次の通りです。
題名 :『般若心経  私のお経の学び(1)』
著者 :鏡 清澄
制作 :MyISBN
発行所:デザインエッグ株式会社
ISBN :978-4-8150-1572-5
販売 :オンラインショップのAMAZON、および一般書店(取り寄せ注文)で販売
発売日:2019年12月9日
AMAZONストア価格 :2,222円(税込)

1215_thumb
鏡清澄著『般若心経 私のお経の学び(1)』

|

著書『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』のご紹介

●『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』
『奈良のこころ』は奈良・西ノ京にある「唐招提寺」「薬師寺」の二寺の姿を四季折々でとらえ、紹介するところから始まります。
そして、外観だけでなく、時代をこえてお寺に引き継がれた「こころ」の部分を描きだしていきます。ここがこの本の特長です。
本書31ページの【御めの雫と甘露】の一文で紹介されている、芭蕉の句「若葉して御めの雫ぬぐはばや」の解釈は、著者の野心的見解です。

●目次(概要紹介)
巻頭写真

第一章 唐招提寺
 【一】四季折々
 【二】日中交流
 【三】風月同天と萬世同薫
第二章 薬師寺
 【一】四季折々
 【二】薬師寺で忘れ得ぬ人
 【三】菩薩への道を歩いた人
第三章 奈良
 【一】四季折々
第四章 奈良が貢献できること
 【一】東日本大震災と奈良
 【二】奈良が貢献できること
あとがき

●本書の出版関係情報
この本の出版関連情報は次の通りです。
題 名:『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』
著 者:鏡 清澄
発行所:ブイツーソリューション
発売元:星雲社
価 格:1,320円(税込)、
頁 数:243ページ(四六判)
ISBN :978-4434194863

Kagami_thumb
鏡清澄著『奈良のこころ』

|

著書『迦陵頻伽(かりょうびんが) 奈良に誓う』のご紹介

●本の惹句
 四季美しく、心育まれる古都、奈良。二人は奈良で出会った。

●あらすじ
 東京で新たに陶器店の運営を任された槇野あずさは、奈良・西ノ京の唐招提寺で弥勒如来に事業の成功を祈った。しかし、その仏様は願いを叶えてくれないのだということを耳にする。
 西ノ京からほど近い赤膚焼きの窯元で、あずさは一人の青年に会う。青年の橘貴一は、偶然にもその日あずさが宿泊を予約していた宿の跡取り息子だった。家業見習いをしながら奈良の魅力を発信している貴一は、あずさに奈良の見どころを紹介し、案内を買って出てくれた。
 あずさの陶器店運営は成功するのか。貴一は奈良でどんなことを学んでいくのか。それぞれの仕事や課題に真剣に取り組みながらも、二人は機会を見つけて奈良を巡った。桜の吉野、国宝・鑑真和上坐像を拝観する唐招提寺の開山忌、奈良公園の夜に灯りが揺らめく燈花会、仏像が燦然と輝く観月讃仏会、東大寺講堂跡の銀杏の黄葉・・・。

●本の出版関連情報
書 名:迦陵頻伽 奈良に誓う
著 者:鏡 清澄
発行所:ブイツーソリューション
発売元:星雲社
発売日:2009年8月15日
ページ:429ページ(四六判)
ISBN :978-4434133688
販 売:AMAZON他の電子書店、および一般書店(取り寄せ注文)にて販売中

Top1
鏡清澄著『迦陵頻伽 奈良に誓う』

 

 

 

|

3月:雪の唐招提寺・・・【奈良に誓う】の「第十章 陽光」より

・・・前略・・・

 貴一はあずさを連れて、芭蕉の句碑がある旧開山堂のわきの階段を上っていく。ポタッ、ポタポタッと水滴が二人の頭に降ってきた。木々の枝や葉に積もった雪が融けて落ちてきたのだ。貴一は傘を広げてあずさの頭上にかざした。木々の枝が大きく張り出している下を通ると、パラパラッと大小の水滴が傘にあたって音を立てた。

 二人は御影堂を囲む土塀のところへ来た。塀の上にわずかに御影堂の屋根が見える。土塀に沿って歩いていき、御影堂の門の前を通り過ぎた。左手は腰の高さの土手になり、土手の上には竹で垣根が作られている。木々が生えていて、その根が地面から浮き出ていた。右手は土手も垣根もなく木々が鬱蒼としている。左手と同じく木の根が地表に出ていた。歩いていく地面の雪は一様ではない。木々の枝と葉が上にあるところはほとんど雪がなく、それらがないところは雪が積もっている。積もった雪も徐々に融けてきて地面がジクジクし始めている。貴一はあずさの手を取った。やがて道の左側が古びた土塀になった。土塀は土の地肌の中に古瓦が幾つもの層を作って塗り込められている。わずかに上に反っている瓦、穏やかにうつ伏せになっている瓦、それぞれが作る波線が静かで美しい。土塀の上には黒い瓦が並び、屋根になっていて、その上にところどころ雪が載っていた。道の右側はこれまでと変わらず木々が生えている。視線を行く手の先に向ければ、雪に濡れた土塀が両側に連なっていた。

 塀が切れ、門になっている所を貴一は左に曲がる。あずさも土塀の中に入った。その瞬間、地面の緑が目に飛び込んできた。苔だった。何本もある杉木立が降る雪を止めたのだろう、鮮やかな緑の苔だ。水を吸って生き生きしている。雪が降り、融けていないところはまだうっすらと白い。数多い立ち木の根本の一部は雪がなく土が顔を出している。苔と雪と土が場所を棲み分けているかのようだった。それほど広くはないが、ここは苔の庭なのだとあずさは思った。木々の枝や葉に積もっている雪に陽が射して、そこかしこで銀色に輝いている。雪は少しずつ融け、雫となって小枝や葉の先から落ちている。葉の先端の雫が陽の光を宿し、大きくなって、地面に一つ、また一つと降っていく。

 足下を見ると、一本の道が緩やかな下り坂になって前へ延びている。玉砂利が敷かれていて、雪はほとんどなかった。貴一は傘をかざしてあずさと歩いていく。その時、視界を横切るものがあった。小鳥だ。小鳥が鳴いている。リュリュン、リュリュン、リュリューン。ピピーッ、ピピーッ。チュ、チュ、チュ。明るい声が聞こえてくる。パサッと音がした。雪が木の枝から苔の上に落ちたのだ。鮮やかな緑が白くなった。バサッと雪の落ちるもう一段高い音が後方から聞こえた。二人が立ち止まって振り返ると、落ちた雪の後に続く無数の雪のかけらが、陽を浴びて光の霧となり、キラキラと輝いて降っていた。

・・・後略・・・

2010012701_thumb

2010012702_thumb

|

12月:唐招提寺の鑑真和上の廟所・・・【萬世同薫】の「第五章 同薫」より

・・・前略・・・

 永田は頷いて玉垣の文字を見た。判読しようとしたが、多くの箇所で分からない。

「非常に達筆で、読めません。詩もとても難しいように思います。なんと書いてあるのですか」

「石に彫ってありますから、読みづらいのでしょう。詩はこのように書いてあります」

 西川は前かがみになって行書体の漢字を指差しながら、書き下し文で読んだ。

「像の立つこと人在るが如し。

喜ぶ、豪情の帰り来たること万里、天に浮かび海を過(よぎ)るを。

千載一時の盛挙、更に是れ一時千載なり。

添うるに恩情代々に尽きず。

還りて大明明月の旧に復し、招提と共に両岸光彩騰(あ)がる。

兄と弟と、倍して相愛す」

 西川は御廟に向かって右側の玉垣の詩を読み終わり、左側の玉垣へ移って行った。永田は西川の読む詩を真剣に聴き、ときに頷き、ときに考えていた。そんな永田を貴一はじっと見つめていた。読み上げられた後半部分で永田の印象に強く残ったのは、「民族の脊梁(せきりょう)は夸(こ)語(ご)に非(あら)ず」、「魯迅衷(こころ)より感慨す」、「千廻百折するも能く碍(がい)無し」という三つの言葉であった。

・・・中略・・・

 焼香台の上にある暗緑色の大きな香炉に目をやった永田が、香炉の正面の胴に浅く刻まれた文字を見つけた。横に四つの文字が並んでいた。永田は右から左へ読んでいく。

「萬世同薫。いつの世でも同じように薫る、という意味ですね」

「そうです。鑑真和上が日本へ来るきっかけになったと言われています『風月同天』という言葉、場所は違っても風月は天を同じくしているという言葉を踏まえての表現のように思われます」

「ところは違っても同じ思いを持つ人がいて、時は変わっても同じように薫る……」

「鑑真和上は何度もの困難に負けず、初心を変えることなく、中国から日本へやって来ました。そして、ここ奈良の唐招提寺を拠点に全国へ仏教や文化、その他のいろいろなことを広めました。その心の尊さがどの場所にも伝わり、いつの世にも影響を与えるのだと思います」

「森本孝順長老と趙樸初会長も、同じように世の中に影響を与え合い、輝き合ったのですね」

 永田は感慨深げに言った。そして、王のことを思い、微力ながらも自分たちも協力し合って、さらに良い仕事をしていこうと心を新たにした。そのような永田の言葉を聴き、表情を観ていて、貴一はまたひとつ学んだように思った。

・・・後略・・・

2009122802_thumb

2009122803_thumb_1

2009122801_thumb

|

11月:奈良公園の紅葉・黄葉・・・【奈良に誓う】の「第八章 講堂跡」より

・・・前略・・・

「空がとても大きいわ。地面が広いせいか木や建物が低く感じられて、ゆったりと落ち着いて見えます」

 あずさが奈良公園のおおらかさを喜んでくれているのを見て、貴一の心配は消えていった。

「向こうに紅葉の綺麗なところがあるから行こう」

 二人は浮雲園地を北の方へ歩いて行った。

「ウワー」

 感嘆の声をあずさが上げた。カエデが真っ赤に紅葉している。木は大きくなく、趣のある枝ぶりである。紅いいくつもの葉が連なって広がり、浮き上がって見える。陽があたって赤い葉が透けて光り輝いている。紅や黄色のカエデが小さな川を挟んで両側に何本もあり、重なり合ってずっと続いていた。紅葉のトンネルの下に流れている小川は、ところどころ段差のあるところで小さな滝のように水を落としている。木の根本には散ったカエデが茶や赤の色をして敷いたようになっていた。

「写真を撮らせてもらっていいかな? そこに立ってみて」

 貴一はポケットに入れていた小型のカメラを出してあずさにレンズを向けた。あずさははにかむようにカエデの木の側に立った。久しぶりにレンズ越しにあずさを見て、その美しい顔が以前にも増して美しくなっていると貴一は思い、何度もシャッターを押した。

 川に沿ってなだらかな斜面を上って行く。あずさは貴一についていきながら川岸のそこかしこに鹿の姿を見た。一頭の鹿のみが角を生やしているのを見て、他の鹿が角切りをされ、この鹿だけが角を切られなかったのだと気付いた。

「この川は吉城(よしき)川(がわ)といって、奈良公園でカエデが一番綺麗なところなんだ」

貴一の説明にあずさは頷き、感動の面持ちで真っ赤なもみじを観ていた。貴一は、あずさが秋のひんやりした空気で寒くないだろうかと一瞬気にかかったが、陽が射しているから大丈夫だろうと思った。橋がある。橋に書いてある名前をあずさは読んだ。

「春日野橋」

 確か燈花会の時も小さな橋を渡ったような気がする。この橋だったのかとあずさは思う。あの時は夜だったから、木々がこんなに美しく紅葉するカエデだったとは想像もしなかった。橋を渡った先は広大な白い芝生の野であり、空には大仏殿の大きな屋根とふたつの輝く鴟尾が見えた。

「ここが春日野園地」

 しばし二人は広い園地と青空にくっきりと建つ大きな屋根に見とれた。

・・・後略・・・

2009111301narapark_thumb

2009111302narapark_thumb

|

10月:正倉院展・・・【萬世同薫】の「第四章 書状」より

 氷室神社・国立博物館のバス停でバスを降り、車に気をつけて狭い道路を渡った。奈良公園の芝生に一頭の鹿がいて、澄んだ瞳でこちらを見ている。貴一は鹿に微笑んだ。鹿が首を回して歩き去っていく。その先に立て看板があり、正倉院展と書かれていた。シンプルで機能的な美しさを持つ国立博物館新館の壁面にも正倉院展と大書された看板が掲げてある。貴一はこの展覧会を楽しみにしていた。シルクロードの終着点といわれる正倉院の御物が、年に一度公開されるのだ。レトロな欧風建築の国立博物館本館を右に見て、左手の新館に向かっていく。開催初日で開館四十分前の時間だが、入口前にはもう人の列が出来ていた。入場券を買おうとする人たちの列と、既に前売りの入場券を持っている人たちの列があり、入場券を持っている人たちの列は、入場整理のテープによって幾重にも折りたたまれたようになっていた。数百人が並んでいるように思えた。みんな早くから来ている。

 貴一は前売り入場券を持っている人の列の後ろについて並び、これぐらいの人数なら、まだゆっくり観られるなと思った。ポケットから入場券を取り出して、そこに印刷されている琵琶の写真を見る。螺鈿(らでん)がちりばめられた美しい楽器である。これを一番に見に行く積りだ。今回は出品物を事前にチェックできなかったが、入場券に載っている琵琶の現物を観るだけでも満足感が得られると思った。貴一は正倉院の琵琶というだけで、是非とも観たいという気持ちになる。それは以前に観た螺鈿(らでん)紫檀(したん)五(ご)弦(げん)の琵琶がとても素晴らしかったからだ。いろいろな貝を薄く加工して琵琶にはめ込み、ラクダに乗った人や樹や鳥などの絵を描いていた。今回展示されるのは「楓(かえで)蘇芳染(すおうぞめ)螺鈿(らでん)槽(そう)琵琶(びわ)」というものだ。いつの間にか、貴一の後ろに次々と人が並んで、非常に長い列になっていた。

 開館時間の二十分前に入場が始まった。あまりの人の多さに開館時間を繰り上げたのだ。人が次々と博物館へ入っていく。貴一はゾロゾロと入館していく人の後について入口を入り、階段を上って二階の展示コーナーまで来た。しかし、そこからは大勢の人がするように手前の展示物から順にゆっくり観るということはしなかった。会場をサッと見渡して歩き、「琵琶」を探した。あった。足早に近づいていく。

 琵琶はガラスケースの中に、斜めに傾けて展示されている。演奏している時の角度で見せているのだろう。琵琶の弦を巻き取る部分が九十度に折れ曲がっている。茶褐色の琵琶の表面には四本の弦が張られ、撥(ばち)で弾くところにはくすんだ茶色の山水画が描かれている。見るからに中国風の絵だった。白い象の上に四人の人物が描かれていた。一人は大人で腰のところで鼓を打ち、二人の少年と思われる人が笛を吹き、もう一人は踊っている。象と四人がいる谷の周囲の木々は紅葉していて、遠くに山々があり、群れをなして飛んでいく鳥たちがいる。

 琵琶の裏面には螺鈿のきれいな花模様が円形に施されている。落ち着いたこげ茶色の木の胴体に薄く加工した貝殻をはめ込み、幾つもの花の形を示している。白い貝片は葉のようでもあり、花のようでもある。白の中の橙色は間違いなく花だが、それは白い花の中にある橙色した花芯のようにも見えた。瑞雲が描かれ、花を咥えた鳥が二羽飛んでいる。螺鈿細工は素晴らしい。貴一はあらためてそう思った。螺鈿細工をされた琵琶や碁盤は正倉院展の最高展示物だ。 ・・・後略・・・

2010100401_thumb

|

9月:唐招提寺の讃仏観月会・・・【奈良に誓う】の「第六章 月光」より

・・・前略・・・南大門は開け放たれていた。中秋の名月の時は拝観料がかからないのだ。石段を上り、門の下をくぐる。夜の暗い境内には参道の両側に点々と行灯が置いてあった。二列の置き行灯に導かれてその先に目をやると、金堂の扉が開けられていて、堂内が明るい。その上には横に長い黒々とした屋根があり藍色の空と一線を画していた。真っ直ぐにのびた参道を歩く。両側には木々が生えていて、生垣の手前にはたおやかに垂れている枝がたくさんある。萩である。虫の声が聞こえる。あずさは耳をすました。鈴虫の澄んだ声にこおろぎのジージーという鳴き声が重なって聞こえてくる。貴一も虫の音に耳を傾けた。松虫の鳴き声は聞こえないように思えた。

 二人は金堂の正面に来た。金堂の扉が三か所開けられ、黒い額縁のようになっていて、中には照明が当てられ光り輝く大きな仏像が見える。夜の暗さに慣れてきた目には、金色の光を発する三体の仏像がまぶしい。あずさは光の御堂に圧倒された。直線で区切られた一つずつの額縁の中に、それぞれ一体の仏像が黄金に輝いている。中央に本尊の盧舎那仏坐像、左に数多くの手を持って立つ千手観音、右には、頭部と胴体に丸と楕円のような光背を付けた薬師如来立像である。

「観月讃仏会の時は、お堂の外から仏像を拝んだ方が良いのです」

 貴一の言葉にあずさは頷き、開け放たれた扉の枠の中の仏像をあらためて観る。盧舎那仏の顔、厚い胸、そして光背の無数の小仏が燦然と輝いていた。盧舎那仏は頬や衣の一部に金箔がはげて黒い地色のところもあるが、その黒を吸収してしまったかのように光っている。光背の小仏は二十仏くらいずつが一つのまとまりになり、そのまとまりが何十と盧舎那仏の周りに配されている。盧舎那仏そのものと、この光背が発する輝きは驚くべきものであった。千手観音はたくさんの手に目を奪われる。正面では、胸のところで合掌している大きな手の他に、腹のあたりで指を組み合わせている手があり、側面にはいろいろな物を持った大きな手が何本もある。そしてそれ以外に小さい手が無数にあった。それらの手が観音の周りに円を描くように伸びている。千手観音は胸や手の金箔が落ちて黒い。しかし、その地色さえ黒く輝いている。薬師如来も金箔の多くがはげ落ちている。薬師如来の細長い楕円の光背などはほとんど黒と濃い緑に変色しているが、わずかに残った金の部分とともに輝き、如来の後光を感じさせた。あずさは三体の仏像の輝きが明るいライトのせいでも、金箔のせいでもなく、仏像の体内から発されているように感じた。三体の仏像を拝観していて、そのまばゆさにしばし時を忘れた。

 眼を下へ転じると金堂の基壇に幾つかの行灯が置いてある。行灯は上部がわずかに広くなった四角のもので、上に取手のような細い横木が渡されている。側面には少しだけ模様が入っていて、木の枝と花のようだ。中を覗くと薄紫色の花のついた萩が一枝入れてあった。風情のある演出である。振り返って東南の空を見上げる。黄から白に色が変わった月が輝いていた。月は形が小さくなったが、澄んで明るい。お堂の中で黄金の光を発して燦然と輝く仏像と、無限に広い夜空から白く澄んだ光を照らしてくる月。その素晴らしい組み合わせにあずさは酔った。

 二人は金堂を離れ、木立の中の小道を通って礼堂の方へ向かった。点々とある置き行灯が暗がりに反比例するように明るさを増して揺らめき、足下を照らしていた。何個かに一個の割合で行灯の中に萩の一枝が入っていて、影絵が美しい。虫の声がしきりに聞こえる。数組の人が月明かりに濡れている礼堂の縁側に座っている。貴一とあずさも、その人たちから少し離れて縁側に並んで座った。空を見上げれば木々の上に月があった。二人は黙って月を観ていた。小さな薄い雲が月の前を過ぎようとしたが、月の明るさに圧倒されたのだろうか、雲はわずかの間に消えていった。貴一があずさの方を見る。月に照らされたあずさの横顔が白く透き通るように美しかった。・・・後略・・・

2010092601_thumb

2010092606_thumb

2010092603_thumb

2010092602_thumb

2010092604_thumb

 

|

8月:なら燈花会・・・【奈良に誓う】の「第五章 浮雲園地」より

・・・前略・・・

 宿泊出張用のビジネスバッグに手帳をしまい、代わって葉書を取り出した。七月に送られて来た大和路便りで、葉書の片面は例によって奈良の写真である。写真をまじまじと見る。夜の帳の中に無数の灯りが点されて、川のように連なっている。真ん中はゆったりと湾曲した道で、その両側にたくさんの黄色い灯りが置かれている。一群の灯りの隣には黒い空白地帯があって、その先にはまた幾重にも光の川が流れている。貴一の撮った写真はどれを見ても美しい。行ってみたい、見てみたいと旅心を誘われるのだった。写真の下の説明書きには「なら燈(とう)花会(かえ)……奈良の夜にきらめく光の雲海。八月六日から十五日まで開催」と書いてある。明日の会議は午前十一時からであり、明朝に東京を発てば間に合うものだった。しかし、燈花会を少しでも見てみたかったので、自費で前泊することにした。大阪のビジネスホテルに宿泊予約を入れ、到着は夜遅くなると伝えた。今回は貴一に奈良へ行くとは連絡しなかった。貴一もお客様の世話などでいろいろと忙しいだろうし、幻想的に揺らめく灯りを一人で眺めてみたいと思ったからである。

・・・中略・・・

 あずさは立ち上がり、灯りの海の中から出て、借りたマッチをスタッフに返した。灯りが置いてない草地の道をゆっくり歩きながら、あらためて周りを見る。あちこちでフラッシュがたかれている。小さな子供が点火器でろうそくに火を点けようとしている姿を父親が写真を撮っている。浴衣姿の三人組の女性が仲良く灯りの海の中で写真撮影のポーズをしている。灯りの中で紺地や白地の浴衣が映える。帯の後ろに差し込んだ団扇が見える。夏の夜のきれいなイベントにボーイフレンドに誘われて来た女性がいる。皆嬉しそうだ。夏の夜、こんな素敵な場所に一人で来て間違ったかしらと、少しだけあずさは思った。貴一に連絡すれば見所を案内してくれただろう。でも、奈良の揺らめく灯りを一人で見てみたかったのだから、これで良いのだと思った。

・・・中略・・・

 音に魅せられて演奏している場所へ行こうとした。途中に小川のようなものがあって渡れず、橋のある所まで回らなければならなかった。道沿いに何本かの木々があった。木の下で恋人同士が手をつなぎ何も言わずに一面の灯りを見ている。同じ場所で同じ美しいものを見、心を通わせている。幸せそうな顔だ。あずさは胸苦しくなった。夏のモヤーッとした大気に、ゆらゆらと輝く無数の灯り。日ごろ仕事に熱中しているあずさにしても、この美しさと周りの幸福感は魅惑的だった。逃げ出したいような、身をまかせたいような、そんな二つの気持ちが微妙に行き交った。

20100806002_thumb

20100806003_thumb

20100806005_thumb

20100806006_thumb

・・・後略・・・

|

6月:唐招提寺の開山忌・・・【奈良に誓う】の「第四章 青葉」より

・・・前略・・・

 宸殿の間に入った瞬間、あずさはアッと息を呑んだ。一歩も動けなくなった。五十畳もあろうかという広い畳敷きの部屋の正面右側から左側面に向かって大きな海の絵が描かれている。ドドーッという波の音が聞こえてきたような気がした。多くの参拝者が襖絵の前に置かれた仕切りの黄色い竹のこちら側に座って絵を観ている。一方で、何人もの人が仕切りの竹に沿って列を成し、膝をついて左手へ進んでいる。貴一が右手にある最初の四枚組みの襖絵を前に、少し下がって座った。あずさもそれに倣った。座ると視線が上の方に向かい襖絵が大きく思えた。二人の前を、膝を折った参拝者が中央での焼香のために次々と通っていくが、気になることはなかった。

 人の向こうに雄大な自然があった。四枚の襖には濃い青色の海が全面に描かれ、右手上方から白く大きな波頭が左手方向へと動いて来る。自分の方に波が激しく迫ってくるようだ。強い風の音が絶え間なく、果てしなく聞こえる。左隣の二枚組の襖には、心持左に傾いた岩が海中から突き出ていて、波があたって砕けた後の絵が描かれている。岩からは白い泡になって潮が流れ落ちる。海中に立つ大きな岩の頂には松が一本生えていて、横なぐりの激しい風を受け、常緑の枝をこれ以上曲がらないほど左に傾かせている。しかし飛ばされない。根ががっちり岩を掴んでいる。岩の下では波が砕け落ち、白く幾重にも泡立っている。素晴らしい、凄い迫力とあずさは思った。海に呑み込まれない、海に抗する、そんな情景だった。さらに左手の方を見る。襖がない部分があり、その向こうには平たいが頑丈な岩が描かれ、岩の上から白い海水が幾筋にもなって流れ落ちている。そして波は多少小さくなりながらも岩を越えて左へ左へと進んで行く。柱を中にして襖が直角に左へ折れる。波はその折れた襖にも寄せて行っている。やがて波はさざ波になって砂浜に近づき、静かに寄せては返していた。

 貴一が立ち上がり、あずさと一緒に歩いて襖のない所の前まで行った。そして今度は、できるだけ仕切りの竹に近いところへ行き、あずさを自分の右手すぐ前に座らせた。あずさが座って目を上げると、目の前に本でしか見たことがなかった鑑真和上坐像があった。大きな黒い艶々した厨子の中は、薄い青ねずみ色の垂れ幕が左右に開かれ、適度な薄暗がりとなっていて、和上は盲目の目をつぶって静かに座っていた。高僧がそこに生きて座禅を組んでいるようだ。剃ってある頭が大きい。閉じた大きな両目が落ち窪んでいて痛々しい。頬の線は顎が強く張り、胸元は肋骨が見えて老人の姿だががっちりした体である。衣は時を経た朱のものを着ていて、上に袈裟だろうか、右肩袖をぬいて黒い衣をかけている。膝の前に組んだ指が太い。静かだ。そこに鑑真とあずさの二人だけがいて、何も動かない。時が止まったようだ。やがて和上のゆっくりした呼吸があずさの呼吸になっていく。優しさに包まれた強さが伝わって来た。

・・・中略・・・

 あずさは貴一の後について東室を出た。外は明るかった。立ちくらみをしたような気がしたのは明るさのためではなかった。鑑真和上は十二年もかかって日本へ来たのか。何度も何度も挑戦して日本へ来たのか。船が難破したということと盲目になったということは知っていた。しかしベトナム近くまで漂流して、そこから陸路を盲目の身で上海近くまで帰ってきたとは知らなかった。そしてまた日本渡航に挑戦するとは、なんという精神力だろう。あずさは大きな衝撃を受けていた。不撓(ふとう)不屈(ふくつ)という言葉がある、初志貫徹という言葉も知っている。しかし、鑑真和上ほどこれを実践した人はいないのではないだろうか。自分はその万分の一でも頑張れるだろうかと自問していた。

|

5月:唐招提寺の団扇撒き・・・【萬世同薫】の「第一章 千手」より

・・・前略・・・

 講堂の中央から戻って裏手を回り、貴一は東室(ひがしむろ)へ向かった。東室は普段は扉が閉まっていて入れないが、今日は中に入れる。ここで特別招待客に茶が点てられるのだ。畳敷きの細長い部屋に屏風が幾つも立てられていた。くの字形に広げられて立っている屏風には年号と年が表示され、多くのハート形の紙が貼ってある。古代の服装をした女性の絵や牡丹などの花の絵、そして俳句や有名な言葉などの書が見え、それらが過去に揮毫された団扇のものであることが分かる。俳優や歌手、政治家に脚本家、お茶の家元、学者や落語家、それに画家や僧など知った名前が団扇の紙の隅に書いてある。著名人の名前を見つけるのも楽しいが、それよりも貴一は書いてある内容に心惹かれた。「一期一会」、「美しき日々越」、「思無邪」、「風月同天」などが個性的な文字で書かれているかと思うと、きれいな花の絵に「淡如水」と書が添えられているものもある。いろいろな絵や言葉の中で最も心を捉えたのは、「苦難を超えて人は真実に出逢う」という書だった。あの人がこんなことを書いていたのか、どんな人生経験をしたのかと、しばし団扇の文字を見つめていた。

2010050101_thumb

・・・中略・・・

 一旦マイクを置きかけた僧侶が時計を見たらしく、もう一度マイクを手に持った。

「まだ数分、時間がありますね。折角ですから唐招提寺の教えの話をさせていただきます。唐招提寺の金堂には千手観音立像が安置されています。普通、千手観音像といっても四十二本の手しか持っていません。観音様が胸の前で合掌している二本の手を別にして、他の四十本は一本が二十五本の意味を持っているからです。しかし、唐招提寺の観音様は本当に千本の手があります。もっとも、四十七本が欠けてなくなっていますから、現在は九百五十三本の手です。千手観音の千本の手が何故あるかといいますと、それは私たち衆生を救うためなのです。仏教で千という字は無限を意味します。無限の民を救うための手なのです。

・・・中略・・・

 少しの間があって、ドーンと太鼓の音が鼓楼の方から聞こえた。鼓楼の二階の縁側に、上が白い着物で下が黒い袴姿の僧が数人出て来た。団扇を取って撒き始める。ワーッと喚声が上がる。撒かれた団扇を求めて手が伸び、奪い合う。捕ったと思う瞬間、他の手が何本も同時に伸びてきて、団扇の柄が折れる、扇面の紙が破れる。団扇が撒かれるたびに、何度か同じ光景が続いたが、そのうち誰かがコツを示す。団扇の柄の端を掴んだら、腕を高く上へ伸ばして、他の人の手が届かないようにするのだ。完全に確保された団扇まで奪いに来る人はいない。皆も他の人の物を奪い合っては意味がないことを知り始める。それに次々にたくさんの団扇が撒かれるから、それを捕った方が良いと思うようになる。

2010050102_thumb

・・・中略・・・

 再び貴一が鼓楼の近くに戻ってきた時は、二階の撒かれる団扇があらかたなくなってきていた。まだ団扇を捕れていない人が大勢いる。疲れと諦めの雰囲気が周りに感じられ始めてきた。撒いていた僧が二階の鼓楼の中に入っていったかと思うと、宝扇をもう一山持ち出してきた。参拝客から大きな歓声が上がる。再び撒かれる団扇に多くの腕が伸びる。これが最後と思うのか、腕が何本も何本も上へ伸び、それぞれの指が無数に広げられ突き出されている。シャッターを押すためにファインダーを覗いていた貴一の唇から言葉が漏れた。

「千手だ……」

 無病息災を願って団扇を捕ろうとする手、幸せを得ようとする手、それは求める手である。しかし、それがいつの間にか貴一には幸せを与える手に思えた。千手観音の手だった。

2010050103_thumb

・・・後略・・・

|

4月:吉野山の桜・・・【奈良に誓う】の「第三章 吉野」より

・・・前略・・・

 奥千本口の空気は冷やっとしていて爽快感がある。ちょっと寒いくらいだ。頭上の桜の蕾はまだ固い。多少膨らんで来たかなという枝もある。桜の木々を見ている間に、一緒にバスに乗って来た他の多くの人たちは、既に山を下って行って視界から消えた。一部の人は逆に山を登って奥千本へ向かって行った。貴一、あずさ、加奈、の三人は爽やかな空気を胸いっぱい吸って、麓に向かってゆっくり歩き出した。早春を感じながら歩く。貴一はナップザックを背負い、あずさと加奈はショルダーバッグを肩から斜めに掛けている。両手が空いているのも気分良い。道の両側は山の木々である。山を下っていくに連れ、沿道のところどころにある桜の蕾がふくらみ、いくつかの花が開きかかっている。やがて、一分咲き、二分咲き、三分咲き、そんな変化が見て取れるようになった。体も寒い感じがなくなってきた。

・・・中略・・・

 歩き続けて、ついに満開になっている桜の場所に着いた。目の前、頭上、ぐるりと周りを見渡す。すべてが満開の桜である。咲いてない桜はなく、散っていく桜もない。桜の花びらの一枚いちまいが薄い茶色の葉と細かく混ざって全面に広がり、ヨーロッパの点描画のようである。

「すごい」

 感極まったようにあずさが声を上げて立ち止まる。加奈も同じだ。

「ここの辺りが上千本から中千本に変わっていくところです」

 多くの人が満開の木の下や空地で花見の宴をしている。みんなこの上なく楽しそうだ。十数人のあるグループは、全員が横一線になって向こうの山の桜を見ながら花見の弁当を食べている。その人たちの嬉しさが、ずらり並んだ後ろ姿から伝わってくる。登山用 のコンロでお湯を沸かしている家族連れがいる。シートを広げて缶ビールやお酒を飲んでいる団体がいる。そんな人たちを左右に見ながら三人は満開の桜の下を歩き、山道を下って行く。

・・・中略・・・

 蔵王堂から出て右手の階段を下りた。満開の桜の大きな木があって、ちょっとした広場になっている。花びらがちらちら、ひらひらひらと翻りながら散っている。貴一はそこへ行く。二人もついて行く。満開の桜の木を見上げる。白く小さな花びらが二つ、一つ、三つと舞って来て地面に下りていく。

 軽く風が吹いた。その瞬間、無数の花びらが一斉に樹から解き放たれ、宙に舞い、散って来た。あずさと加奈の顔がたくさんの花びらの中に見える。美しさに驚き、美しさに触れて幸せを感じている顔だ。

 ひとときの花の舞いが過ぎた後に、目を細め微笑して至福の時を実感しているあずさの顔があった。貴一は瞬間的にカメラを向けシャッターを切った。立て続けに二度目のシャッターを押そうとした時、再び風が吹き、花びらが舞った。花びらの舞の向こうにカメラを意識したあずさの美しい笑顔があった。自然にシャッターが切られた。

 次に加奈へレンズを向ける。加奈も嬉しそうだ。シャッターを押した。あずさと加奈の二人一緒の写真も桜の中で撮った。風が止まり、桜の花びらの舞いも一段落した。貴一はそろそろこの小さな広場から立ち去ろうとした。

 その時あずさが、

「もう少しだけ、このままここに居させて下さい」

 貴一は微笑んで頷き、桜に見とれているあずさを見ていた。また風が吹いた。桜の花びらが滝のように降ってくる。あずさは再び至福の時を感じた。もう少しこの素晴らしい時間を味わっていたかった。仕事に追われる日々、このような安らぎの時は久しく持てなかった。目を閉じると桜の香りが感じられ、閉じている目に花びらのたくさん舞い散っている光景が映る。目を開ければ気持ちよく晴れ渡った青空があり、くっきりとした山並みが見えた。

・・・後略・・・

2010040401_thumb_20250909190201

2010040402_thumb

2010040403_thumb

|

1月:若草山焼き・・・【奈良に誓う】の「第二章 若草山」より

・・・前略・・・

 一月の奈良は、夜になるとグッと冷え込んで来る。お客様を案内する必要がなくなって、大池へ迎えに行くまで空白の時間が出来た。見慣れた山焼きだが、折角だから近くで見ようかと、貴一も若草山の前に立った。さっきは白っぽく見えた枯れ草の山が、今は黒く夜の色になっていた。道路には多くの観光客が次々とやってくる。山焼きの場所につめかける人は皆、コートや厚いジャンパーを着て、手袋をしている。マフラーで首や顔をすっぽり包んでいる人もいた。黒い山の中にチラッ、チラッと懐中電灯の黄みを帯びた白い光が動く。山焼きの関係者がいろいろな準備をしているのだろう。寒い。足下から冷えて来る。小さく足踏みしている人もいる。点火はまだかな、と皆が山を見つめている。風で微妙に揺れて動く赤い光は松明の火だ。松明がいくつかあるように見える。間もなく点火されるだろう。

 ドン、ドン、ドン、と急に大きな音がした。直後、真上と思うほどの空に大きな花が咲いた。花火だ。また続いてドン、ドン、ドン、ドン、ドンと音がして大空いっぱいに花が開く。間近で仰ぎ見る冬の花火は果てしなく大きく、美しい。そして淋しい。冷たく澄んだ空気の中で花は輝き、一瞬に消えていく。花火がまた上がった。次々と花開いていく。以前に比べ、花火の数が増えている。

「火が点けられたぞ」

 誰かが叫んだ。

「どこ、どこ」

「あそこ、あそこ」

「本当だ。見える、見える」

「火が二つになった」

「三つになったぞ」

「燃えていく、燃えていく」

 黒い山の中に赤い火が点き、何個所かの点になり、次第にその点が繋がり出した。一本の赤い線が見えたと思う間もなく、線は複数になった。線は時間とともに太くなり長くなり、隣の線と結びついていく。枯れ草が燃えていく。初めのうち弱かった火が隣の火と一つになることで勢いを増していく。火は線から面になっていった。ぼうぼうと燃える。広い山の斜面を次第に火が燃え移って行く。若草山が火の海となっていく。貴一は槇野あずさのことを思い出していた。彼女にもこの若草山山焼きを見せてあげたかったなと思いつつ、紅蓮の炎を群衆の中で独り見ていた。

・・・後略・・・

|

11月:赤膚焼と西ノ京の宿・・・【奈良に誓う】の「第一章 西ノ京」より

・・・前略・・・

「お客さんはどちらから来られたのですか」

 運転手の話し方は丁寧だった。

「東京からです」

「そうですか。奈良に観光に来ても、赤膚焼の窯元のところへ行く人は以前はあまりなかったのですが、最近少しずつ増えています。やはり陶芸ブームのせいですかね」

「そうかもしれませんね」

 客と話が出来ることが嬉しいという感じで運転手は話しかけてくる。客が若い女性だからということより、一日黙って運転ばかりすることが耐えられないのだろう。運転手に返事をしながら、あずさはまわりの風景に目をやった。家並みの間に木々があり、視界の開けたところには田畑があって、田はすでに稲刈りが終わっていた。一本の若木のイチョウがすっくと天に伸びているのが前方に見える。光に輝く黄色い葉のイチョウは爽やかな風を受けて、葉を一枚も散らさず、多くの人が拍手をしているかのように葉の表裏を交互に見せていた。車は走っていき、今度は民家の庭に多くの実を付けた柿の木が見えた。大和路の秋を感じた。

 窯元に着いた。料金を払ってタクシーを降りると、見応えのある情景が目に入ってきた。車が十数台とめられる空地があり、空地の向こうには大きく古い木造の二階建て家屋が横に長く伸びている。焼物の里特有の白い土埃を感じさせつつ、瓦屋根が二層になって美しく波打っていた。屋根の上には裏山の木々が茂っている。ガラス戸の入口の上には五葉松の枝が張り出していた。情緒のある建物だとしばし見惚れた。目を左に転じると作業場と思われる建物があり、手前が高床になっていて縁の下に薪が積んである。あずさは建て屋に近づいて行った。入口の柱には「自由にご覧下さい」と書いてある厚紙が下げてある。引き戸を開けて中へ入った。

「いらっしゃいませ」

 五十前後の女性が親しげに声をかけた。

 建て屋の中は土間で、正面は裏口が開いていた。そこだけが明るく、土間の左手は薄暗かった。室内がひんやりしていると思っているうちに目が慣れてきた。壁面にそって置いてある棚には白い釉薬(ゆうやく)がかかった皿や素焼の器が載せられている。主に製作途中の物が置いてあるという感じである。それらを見ながら土間の奥の方へ入っていった。型によって作られている皿で、デザインの面白い物があった。お寺の丸瓦をそのまま皿の模様にしていたのである。直径十センチほどの丸皿に大安寺とか西大寺とかの文字が焼かれていた。土間の突き当りまで棚の器を見ていって、戻りは土間に置かれた台の陶器を見た。台には菱形の葉を四枚組み合わせて、それ自体を菱の形にした皿があり、あずさの目を引いた。これも型作りと思われた。良い作品になるデザインだと思った。展示台の先の壁面には会計のカウンターがあって、先ほど声をかけてくれた女性が器を包装している。カウンターの左手にはあずさが入ってきた入口があり、その左にこちらの土間とは区画された部屋があって、そちらが本格的な展示コーナーになっていた。

・・・中略・・・

 タクシーを降りて今日泊まる宿を見た。瀟洒な木造二階建てである。建て屋は植木に囲まれていて、木々の向こうにのどかな田園風景が広がっている。遠くには低い山々が見える。屋根のついた門があり、屋根の下に自然な形の木の額が掲げられていて、「幸せの宿・わだち」と書いてある。両側の庭の植え込みを見ながら敷石を踏んでいく。ほどなく玄関があった。いらっしゃいませと宿の人が迎えた。宿のロビーは大きくはないが、こげ茶色の柱と調度品を配して落ち着いた空間である。知人から良い旅館があると紹介されて来たのだが、これは予想以上に良いところを紹介されたとあずさは喜んだ。仲居さんに案内されて行った部屋は二階にあり、青い畳が気持ち良い。清潔で落ち着いた部屋である。窓の障子を開けると薬師寺の東塔と西塔、二つの塔が秋の夕空に見えた。西ノ京の風景にしばし見とれた後、お風呂に入った。

・・・後略・・・

|

新ブログ『鏡清澄の部屋2』のスタート・・・私のホームページとブログを統合

この度、これまで別サイトで運営していた私のホームページ『鏡清澄の部屋』と、当ブログ『本を読んでいく奈良 鏡清澄』を統合して、訴求力を高めていくことにします。
統合にあたって、ブログのタイトルを『鏡清澄の部屋2』と変更し、ホームページの一部内容(4カテゴリー:31記事)を当ブログに移行掲載いたします。

ブログの新タイトル:『鏡清澄の部屋2』
ブログの新内容  :奈良の社寺・名所・隠れた穴場等の紹介、仏教と日本古代史に関する学びの報告などをしていきます。
統合の実施日   :2025年10月1日(記事の移行は10:00から順次実施)
移行掲載記事   :カテゴリー①鏡清澄が推奨する奈良の「月々の情景」・・・11記事
          カテゴリー②鏡清澄の本・・・7記事
          カテゴリー③般若心経の意味を知る・・・7記事
          カテゴリー④聖徳太子 本当はこうだった!?・・・6記事
従来からの掲載記事:カテゴリー⑤本を読んでいく奈良・・・26記事
          カテゴリー⑥詩(作詩、訳詞、他)・・・4記事
          カテゴリー⑦その他・・・1記事
なお、カテゴリーは今後少しずつ追加充実していきたいと考えております。 

|

« 2025年9月 | トップページ | 2025年11月 »