不思議と心に残る本『春の鐘』
本『春の鐘』
日本の美と情感、特に女性の心情を古都の情景の中に描くことで読者を得ている小説家に立原正秋がいます。その立原が奈良を舞台にして書いた小説で有名なのが『春の鐘』です。
ストーリーは東京に住む奥さんと奈良に単身赴任中の夫の「ダブル不倫」物ですが、かつて北大路欣也、古手川祐子、三田佳子らによって映画化されたことが印象に残っています。
『春の鐘』で主人公たちが巡る奈良の寺々
『春の鐘』では、主人公の美術館長が一緒に働くことになった離婚歴のある若い女性を奈良の寺々へと案内します。出てくる寺は唐招提寺、秋篠寺、室生寺、長谷寺、法隆寺など旅心を誘われる所ばかりです。寺への行き方もバスや電車の話が詳しく書かれていて、本を読むと旅行をしている気分になります。
落ち着いた雰囲気の奈良の寺々を楚々とした和服姿の女性が訪ねるのですから、立原ワールドここに極まれり、という感じです。また、作者がグルメなためでしょうか、美味しそうな食べ物が次々と出てきて、こちらも楽しめます。
何故か心に残る「下手な小説家が作った歌」
不倫小説である『春の鐘』は、「主人公は、よくもまぁ、これだけ暇と金があるな」とか「ストーリーがありきたりだ」とか、良くない評判も耳にします。私もそういう面は頷(うなず)けるのですが、この本で非常に心に響いたのは、文中に出てくる「下手な小説家が作った歌」です。この歌があったから、この本が忘れられなくなったと言えます。
その歌とは、おそらく作者の立原正秋が作った歌だろうと思うのですが、「春なれば いまひととせを 生きんとて くらきみだうに こころあずけぬ」というものです。
願い事をするのではなく、悩みをひとまず仏様に預けて、もう一年生きてみようという意味でしょう。
不倫関係にある男女が、ある時には聞こえ、ある時には聞こえない「鐘の音」に気付き、気持ちが揺れ動くのです。そこには出口の見えない生活の状況、心理状態が表れているように私には思えたのです。
そしてこの歌の中で、「春」と「生きん」との二文字だけが漢字になっていることが意味あるように思いました。出口の見えない中、苦しみながら悩みながらではありますが、「春(=新年)をむかえ、もう(一年)生きてみよう」という静かな想い、姿勢が感じられたからです。
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