法起寺と法華経講義
法起寺
法起寺(ほっきじ。最近では世界遺産登録の絡みで「ほうきじ」と呼ぶことが広まりつつあり)は奈良県斑鳩町にある寺です。法起寺の三重塔は、法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔と並んで斑鳩三塔と呼ばれています。
法起寺の前身は岡本宮と言って、聖徳太子と妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ。大臣の蘇我馬子の娘)が住んでいるところでした。二人の間に生まれた山背大兄王もここで育ったものと思われます。太子の遺言で、山背大兄王が岡本宮を寺に造り変えたと言われています。
創建時の法起寺の建物で現存しているのは三重塔だけですが、発掘調査によって元の法起寺は東に塔、西に金堂がある伽藍配置だったことが分かっています。法隆寺の東に金堂、西に塔という配置を反転した形になっているのが興味深いです。
法起寺での法華経講義
『日本書紀』には「是の歳(このとし。筆者注・・・勝鬘経を秋七月に講義した年)に、皇太子、亦(また)法華経を岡本宮に講じたまふ。」と書いてあります。しかし私は、勝鬘経を講義したその年に、難解と言われる法華経を講義するのはいくら優秀な聖徳太子でも出来なかったのではないかと思います。また仮に出来たとしても、講義を聴く人たちの仏教に対する理解力が付いてこなかっただろうと思います。おそらく、勝鬘経を講義した数年後に法華経の講義をしたものと推測します。
朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』
法起寺(当時は岡本宮)で法華経の講義が行われるようになる経緯と、講義で話される内容について詳しく書かれている本があります。それは朝皇龍古著の『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』です。
講義場所としてなぜ岡本宮が選ばれたかという著者の解釈は新説で、そういう可能性もあるかもしれないと思いましたが、それ以上に心に残ったのは、上宮(聖徳太子)が講義の前に、太子自身で法華経の教えの中身を理解しようとして模索し考察するシーンでした。本には次のように書かれていました。
「『法華経』の中に語られている重要な教えは、人々が自(みずか)らに内在する仏種を知ることで幸せになる道を見つけられるということである。皆と共に幸せになる道はそう容易に達成できるものではないが、地道に一人また一人と自らに仏種が具わっていることを分からせるしかない。常不軽菩薩のこの地道な活動が、一人から二人へと広がったように、吾も国中の者達に教えていくのだ。先ずは身近な人々から始めよう。そう決意すると上宮は、二日間の緊張から解き放たれて倒れるようにその場に突っ伏して眠り込んでしまった。」
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