« 2025年6月 | トップページ | 2025年8月 »

2025年7月

2025年7月18日 (金)

奈良豆比古神社の翁舞

奈良豆比古神社
 奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)は奈良市街地の北端の奈良阪町にあります。奈良阪町は京都府との府県境に接していて、昔から奈良と京都を結ぶ街道が通っているところです。神社の前には「右 京うち道、左 かすが大ふつ道」(右 京宇治道、左 春日大仏道)と彫られた石の道標が立てられています。
 奈良豆比古神社の祭神は3柱なのですが、そのうちの1柱は、万葉集の有名な歌「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」の作者である志貴皇子(しきのみこ)です。なお、志貴皇子は天智天皇の皇子です。

Img_3123
奈良豆比古神社

Img_3120
奈良豆比古神社前の道標

奈良豆比古神社の翁舞
 
奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)では秋の例祭の宵宮(10月8日夜)に奈良阪町の人たちによって拝殿で翁舞が行われます。翁舞は能の原典とも言われるもので、見応えがあります。
 篝火(かがりび)が焚かれ、笛や鼓の音そして謡の声と共に、きらびやかな衣装を着て古色蒼然とした面を着けた翁が舞います。
 神社で行われる奉納舞は神様に対して踊るものですから、舞を真正面から観られるのは本殿の神様です。そのため一般の参拝客である私は、翁舞のとても良いアングルの写真を撮れませんでした。翁が3人並んで踊っているのを撮りたかったのですが叶いませんでした。

Img_8977-2
翁舞

Img_3109
三番叟

梅原猛著『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』
 翁が3人並んで踊っている写真を掲載し、奈良豆比古神社の翁舞について詳しく書いている本があります。梅原猛著の『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』です。河勝とは聖徳太子の忠臣である秦河勝(はたのかわかつ)のことで、能楽の元の猿楽の祖と言われています。
 この本は種々の面から能について述べているものですが、今回は梅原氏が書いている「奈良豆比古神社の翁舞」のことにのみ触れます。

「奈良豆比古神社は京都と奈良の境の「奈良坂(ならざか)」にある。このような境の地は、(中略)神聖な場所であり、そこには多くの神が祀られている。」
「大和と京の“境”にあるこの“場”で、翁舞が舞われたことは、この境界の地で悪魔祓いをしていたことを意味する。」

奈良豆比古神社の翁舞には白い翁の面を着けた3人が登場するのですが、「社伝」によると昔は2人が白い翁面、1人が黒い翁面を着けて舞ったのだろう、と梅原氏は述べています。そして翁舞の後半に狂言方(きょうげんがた)によって舞われる三番叟(さんばそう)は現在も黒い面を着けています。

「翁舞は確かに世阿弥の言うように『国穏やかに、民静かに、寿命長遠』の舞なのである。しかしその舞い手の中には深い哀しみ即ち黒い運命の人が存在しているのである。」

 梅原氏は、志貴皇子の子の春日王が業病に罹って奈良坂に蟄居したと言われていることを紹介し、そこに奈良時代から平安時代へ移行する時の政変と、幽閉され死んだ人のタタリを感じ取っているようでした。
 そして翁舞は、世の中を恨んでいる黒い翁、つまり三番叟が神仏具の鈴を受け取り、神仏の信者になって、五穀豊穣、千秋万歳を祝うのです。梅原氏は次のように書いています。

「奈良豆比古神社の翁舞は、秩序を破壊する、世を恨む黒い翁、即ち怨霊(おんりょう)神が国家安泰を祈って、初めて国家は安泰になるということを物語っているのである。」

250706-71
梅原猛著『うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝』

|

2025年7月 4日 (金)

二上山と死

二上山
 二上山(にじょうさん)は「にじょうざん」とも「ふたかみやま」とも呼ばれる山で奈良県と大阪府の県境にあります。最近では「ふたかみやま」は古代の呼び方、「にじょうさん」か「にじょうざん」が現代の一般的な呼び方と言われているようです。
 二上(ふたかみ)という文字から推測できますが、雄岳(おだけ。標高517メートル)、雌岳(めだけ。標高474メートル)という2つの頂を持つきれいな山です。奈良盆地から西方に目をやると、その美しい姿が見てとれます。特に「山の辺の道」の檜原神社境内からは注連縄越しの真西に二上山が見え、西方浄土を連想する素晴らしい夕景を眺めることができます。
250625-img_2433
二上山

Img_2156_20250703220801
檜原神社境内から見る二上山

二上山に感じる死のイメージ
 
普段、二上山の夕焼けはオレンジ色で奇麗なのですが、時には夕焼けがどす黒い赤色になって血を思わせることがあります。そうなると二上山は「死」のイメージでいっぱいになります。
 天武天皇が亡くなって日も浅い時に、文武(ぶんぶ)ともに優秀で人望のあった大津皇子(おおつのみこ)が謀反の罪で死を賜り、その後、二上山に移し葬られたのです。歴史学者は天武の後継者の地位をめぐっての冤罪の可能性を指摘しています。
 大津皇子の姉で伊勢の斎宮になっていた大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟のことを思って詠んだ悲痛な歌が『万葉集』に数首載っています。その中から二上山が詠み込まれている歌を以下に記します。

「うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む」
 (この世の人間である私は明日からは、この二上山を弟だと思って眺めていよう。)
  ・・・歌とその大意は角川書店編『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 万葉集』よりの引用。

大津皇子の墓
 現在、宮内庁が大津皇子の墓と治定しているのは雄岳山頂の二上山墓ですが、考古学的に見ていくと実際には二上山麓にある鳥谷口古墳が大津皇子の墓である可能性が高そうです。
Img_2482
二上山麓にある鳥谷口古墳

折口信夫の『死者の書』
 
折口信夫(おりくちしのぶ)が書いた小説『死者の書』は、墓穴に埋められていた死者が意識を取り戻すところから始まります。

 「彼(カ)の人の眠りは、徐(シヅ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。」

「おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰(ダレ)なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。」

 死者が大津皇子であり、埋められている場所が二上山であることが、だんだんと明かされていきます。そして物語は、二上山の麓の當麻寺(たいまじ)で、藤原家の姫が蓮の糸で曼荼羅を織る話へと展開していきます。さまよえる死者の魂が曼荼羅に描かれた浄土の諸仏によって救われる、ということを表しているのかもしれません。
 私は、そのストーリー展開と、そこかしこに書き込まれている事実や歌などを見て、折口信夫の古代史に対する知識と、古代文学や仏教への造詣の深さに驚嘆しました。
Img_2483
當麻寺から二上山を見る


250625-69
折口信夫著『死者の書』

 

|

« 2025年6月 | トップページ | 2025年8月 »