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2025年5月

2025年5月30日 (金)

法輪寺の三重塔

斑鳩三塔
 斑鳩三塔とは、奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔、法起寺の三重塔の三つの塔の総称です。法隆寺と法起寺の塔は飛鳥時代のものであり、法輪寺の塔は昭和時代に再建されたものです。
 現在は斑鳩町も住宅が建て込んできて、この三塔を一つの場所で見ることはなかなか難しくなっています。しかし、中宮寺が元あった場所、今は「史跡・中宮寺跡」となっていますが、ここの一角には三塔を動かずに見れるところがあります。三塔が建っている方向を矢印で表示する図が置いてあるので、それを参考にして三塔を見ると良いでしょう。家と家の間や、木と木の間の遠くに見えます。

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斑鳩三塔の方向図

落雷で焼失
 法輪寺の古代に建てられた三重塔は1944年(昭和19年)に落雷で全焼崩壊しました。この塔は国宝であったのですが、避雷針が付いていなかったのです。
 戦時中で金属が不足していたため、避雷針取り付けを申請しても許可されなかったという説明と、金属回収令によって避雷針が取り外されて拠出されたという説明の二つを聞いたことがありますが、事実はどちらだったのでしょう。以前、私は後者を事実と思っていたのですが、最近は前者が正しいのかもしれないと思うようになりました。

法輪寺三重塔の再建
 法輪寺の焼失した三重塔は、親子二代にわたる住職の熱意と勧進によって再建が開始され、1975年(昭和50年)に完成します。しかし、再建の途中では資材高騰などのために資金不足になり、工事が停滞しました。
 法輪寺の塔の再建に関しては、設計学者と宮大工職人による鉄材使用の是非をめぐる論争、随筆家・小説家である幸田文の再建支援活動、宮大工親子のライバル意識など、話題豊富です。
 そんな中で今回私が取り上げたいのは、幸田文の塔再建支援と宮大工親子の気持ちについてです。
 幸田文は名作『五重塔』を書いた幸田露伴の娘で、父の著作権を引き継いだこともあって「塔」とは深い繋がりを感じていました。法輪寺の塔の再建話を耳にして、それの資金集めに協力しようとします。斑鳩に約一年下宿住まいをして、再建工事を手伝ったり工事の進捗状況を記録したりしています。
 法輪寺の三重塔の再建に関係した宮大工として名前が出てくるのは、有名な西岡常一の他に西岡楢光、西岡楢二郎、小川三夫です。楢光は常一の父、楢二郎は常一の弟、小川は常一の唯一の内弟子です。ただ私は、ここにもう一人付け加えたい人がいます。それは常一の祖父の西岡常吉です。
 楢光は宮大工の棟梁である西岡常吉の娘婿で、結婚前は農業をしていました。常吉は、娘と楢光の子である孫の常一を立派な宮大工棟梁にしようと直接指導、言い換えれば英才教育をします。自分を飛ばされた婿の楢光の気持ちはどんなだったでしょう。想像すると胸が痛みます。
 法輪寺の三重塔の再建話が出たとき、八十三歳の西岡楢光は自分が棟梁となって塔を建てる積りでしたが、法輪寺住職から働き盛りである息子の西岡常一を棟梁にと言われ、しぶしぶ承諾したとのことです。

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法輪寺の門と再建された三重塔

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再建された三重塔の上層部

幸田文と小川三夫の本
 幸田文は法輪寺の三重塔についていくつかの随筆を書いています。特に印象に残っていますのは、幸田文全集第19巻の随筆「法輪寺の塔」にあった①の文章と、随筆「胸の中の古い種」にあった②の文章の二つです。

①「ながく塔の縁を私はうけてきたのだから、法輪寺の建立途中の塔へは、なにか、どうか、お手伝いしなければ気がすまないのである。」

②「(前略)思い立ったのは、その時だったろうか。この材をこのまま、横にしておいてはいけない。縦に立てて、組みあげていかなければ、あったら発願も、工人も、材も、そしてすでに出来上がっている相輪も、むなしいではないか、と。自分の年齢のこと、できそうもない仕事だということ、そんなことはみな押し返して、試みるまでだ、とそう思った。頓挫したのなら、起すよりほか、することはない筈だ、と思った。建てなければ、塔ではない。」

 小川三夫には『木のいのち 木のこころ(地)』という本があります。小川三夫が自分の経験や思いを語り、塩野米松が聞き書きをしたものです。この本には西岡楢光と西岡常一親子の職人ライバル意識が書かれていますが、根底に親子の感情のズレがあったのではないかと私は思います。

「その車には棟梁(常一のこと。筆者注)とおじいさん(楢光のこと。同)と俺(小川三夫のこと。同)が乗っていた。病が重かったから寝台車だった。法輪寺の前に来たんで車を止めて、
『おじいさん、法輪寺の塔ができたで、素屋根もはずれた』
 と俺がいったんだ。そうして窓から見えるように体を起こしてやった。
『見えたか、見えたか』
 って棟梁が聞いたら、
『見たっ』
 っていうんだ。しかしよ、俺がおじいさんの顔を見たら、目をぎゅっとつぶっているんだ。だから見ているわけがないんだよ。それで、
『もういいから行け』
 っていうんだ。この一週間後に、おじいさんは亡くなった。職人ってのは死ぬまでこうだもんな。」

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幸田文全集第19巻

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小川三夫著『木のいのち 木のこころ(地)』

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2025年5月23日 (金)

唐招提寺の開山忌

6月6日は唐招提寺の開山忌
 6月6日は唐招提寺を開いた鑑真和上の命日であり、開山忌が行われます。そして例年、開山忌を挟む6月5日から7日の3日間、唐招提寺御影堂が一般公開され、国宝の鑑真和上坐像を参拝することができます。
 梅雨の季節に近い日なのですが、特異日というのでしょうか、開山忌の時はあまり雨になった記憶がありません。青葉が綺麗な唐招提寺境内を歩くのは気持ち良いものです。

御影堂の障壁画
 一口に「御影堂の障壁画」と言いますが、正確には襖絵、壁画、鑑真和上坐像厨子絵の三種類で成り立っています。東山魁夷画伯が10年強の歳月をかけて完成させた素晴らしい絵画です。
 絵の内訳は、彩色で日本の海と山の風景を描いた障壁画が2点、墨絵で中国の風景を描いた障壁画が3点、そして彩色で鑑真和上たちの日本到着を描いた厨子絵が1点です。
 どの絵も素晴らしいものですが、そのような中で私の心に特に響いたのは、日本の荒々しい海から静かな渚まで連なる絵の『濤聲』と、鑑真和上坐像の厨子絵『瑞光』でした。
 『瑞光』は鑑真和上たちの乗った船が薩摩の秋目浦に入港してくる絵で、瑞雲が黄金色で描かれ、神々しいと感じました。強い使命感を持ち、艱難辛苦を乗り越えて日本にやってきた人々を神仏が祝福しているように見えたのです。

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唐招提寺・御影堂の間取りと障壁画

国宝の鑑真和上坐像
 国宝の鑑真和上坐像は日本最古の肖像彫刻で傑作と言われています。実際、坐像の前に座って像を仰ぎ見ると、そこに生きている人がいるように感じます。慈愛に満ちた言葉をこちらにかけて下さっているように思われるのです。そして盲目の閉じた目からは強い意志の力が伝わってきます。励まされているように感じるのです。
 開山忌の一般公開には多くの参拝者が唐招提寺の御影堂へ行きますので、坐像正面の焼香席には長いこと居られません。しかし、数メートル後方へ下がって座り、「鑑真和上」を仰ぎ見詰めることは時間を気にせずに出来ます。

芭蕉の句
 講堂と東室(ひがしむろ)の間に開山堂があります。数年前までは本願堂と呼ばれていたものですが、堂を修理して、鑑真和上坐像のお身代わりの像を造って安置し、現在は開山堂となりました。
 お身代わりの像は国宝の鑑真和上坐像を模して造られたものです。国宝の坐像が1年に数日しか一般公開されないのに対して、こちらは荒天を除きいつでも参拝できます。
 開山堂の手前には松尾芭蕉の句碑が建っています。石に彫られている文字は若干アレンジしてありますが、俳句は原本の『笈の小文』の表記に基づけば「若葉して御めの雫ぬぐはばや」です。

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唐招提寺(開山堂前)にある芭蕉の句碑

本『迦陵頻伽 奈良に誓う』
 拙著『迦陵頻伽(かりょうびんが) 奈良に誓う』では唐招提寺の開山忌について詳しく書いています。
 第一部とも言うべき「迦陵頻伽 奈良に誓う」の「第四章 青葉」では、国宝の鑑真和上坐像と東山魁夷画伯の描いた襖絵について書きました。

「あずさが座って目を上げると、目の前に本でしか見たことがなかった鑑真和上坐像があった。大きな黒い艶々した厨子の中は、薄い青ねずみ色の垂れ幕が左右に開かれ、適度な薄暗がりとなっていて、和上は盲目の目をつぶって静かに座っていた。高僧がそこに生きて座禅を組んでいるようだ。(中略)。膝の前に組んだ指が太い。静かだ。そこに鑑真とあずさの二人だけがいて、何も動かない。時が止まったようだ。やがて和上のゆっくりした呼吸があずさの呼吸になっていく。優しさに包まれた強さが伝わってきた。」

 第二部とも言うべき「迦陵頻伽 萬世同薫」の「第三章 雫」では、芭蕉の俳句『若葉して御めの雫ぬぐはばや』の新解釈を述べています。

「今述べましたように鑑真和上の行動を見てきますと、使命感に燃え、艱難辛苦に耐え、十二年もの歳月をかけて日本へ来た不屈の和上が、また、日本における冷遇をものともせず毅然として真の仏教を広めていった和上が、芭蕉の句の一般的解釈のように、悲しみの涙や望郷の涙を流すとは、私にはとても思えないのです。」
「(私の)解釈をもう一度まとめて言いますと、こういうことです。若葉の季節に、芭蕉は鑑真和上の尊像を拝み、感動に打ち震えます。和上の慈悲の心、不撓不屈の精神が、盲目の和上の姿から伝わってきます。降りかかってくる鑑真和上からの限りない恩顧、雫は、仮に拭い去ろうとしても出来ないほどたくさんのものだったのです。燦然と降り注ぐ木漏れ日のように。」

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鏡清澄著『迦陵頻伽 奈良に誓う』

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2025年5月16日 (金)

橘寺と勝鬘経講義

橘寺の前身は用明天皇の別宮
 奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村にある橘寺の前身は、聖徳太子の父である用明天皇の別宮でした。そのためでしょうか、橘寺やその近くの地も種々の説ある聖徳太子誕生地の一つと言われています。
 近鉄飛鳥駅から主に村内を周遊する亀バスに乗って川原の停留所で降りると、大きな石碑があって「佛法最初 聖徳皇太子御誕生所」と刻印されています。そして石碑の向こうには白壁が横一線に延びた橘寺が見えます。
 橘寺の正門は東門で、主な伽藍が東から西に順にあるのですが、私は北側にある長い白壁が好きで、ほとんどの場合、北側から行って西門から境内に入ります。

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「佛法最初 聖徳皇太子御誕生所」と刻まれた石碑

橘寺にあるもの
 
橘寺の境内に入って、まず目に入るものは黒駒の像です。聖徳太子が斑鳩と飛鳥を行き来していた時に乗っていたとのことで像が作られたようです。
 また、寺の名称の元になった橘の木が枝を伸ばしています。ここは、子供の頃に聞いた日本神話で、田道間守(たじまもり)が異世界の「常世(とこよ)の国」から持ち帰った橘の実を植えた場所と言われています。
 そして、高さが約一メートルの二面石という飛鳥時代の石像があります。一面は善人の顔で、もう一面は悪人の顔をしています。
 本堂に上がり、本尊の聖徳太子坐像の前で拝んでいると、心が静かに落ち着きます。太子が近くにいるように感じるから不思議です。

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橘寺の本堂

太子が勝鬘経を講義
 
『日本書紀』には、推古天皇からの要請を受けて聖徳太子が勝鬘経について講義をしたということが書いてあります。講義は三日間にわたったとのことですが、講義がなされた場所は書いてありません。
 しかし、橘寺の境内には、太子が勝鬘経を講義した時に日、月、星の光を放ったという伝承の「三光石」があります。法華経の講義が岡本宮(後の法起寺)で行われたことを考えれば、橘寺の前身の宮で勝鬘経の講義が行われた可能性は十分にあると思います。

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橘寺の境内にある「三光石」

本『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』
 朝皇龍古(あさみりゅうこ)著の歴史小説『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』の第三章に、上宮(聖徳太子)が勝鬘経の講義をするシーンが描かれています。勝鬘経は古代インドの王妃である勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が仏教について語る経典であるため、大后(おおきさき。推古天皇)を始めとする王族や豪族の女性たちが主な受講者です。私の心に残った文章を一部転載します。

「最初の質問(仏教がどの様なことを教えているのか)の答えは、仏教は人が生きていく際にどの様に考え、他人と対話し行動すれば、自分と周りの人々が幸せになれるかを教えている、ということです。答えとしては短いですが、ここは非常に重要な点だと思います。」

「次に、仏教を学べば何が良くなるのかという問いに対しては、精神的な安らぎ、これは究極の悟りという言葉で表現されるものですが、それが得られるということです。」

「講義を始めようとした上宮に、大后は少し話をさせてほしいと言った。
 『勝鬘経の講義が終わる今日この日に、皆が揃っているここで稲交(いなつるび。稲光、落雷)を体感できたことには大きな意義があります。天と地の神々はわれらが懸命に学ぶ姿をご覧になっていて、多大なるご褒美を下さったのです。そしてこの時期の稲交によって稲の結実を促し、今年の豊作を約束して下さいました。
 和(私)もここで勝鬘夫人のように誓いを立てましょう。これからはこの国の将来のために、和(私)に出来ることを力の限り致しましょう』」

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』

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2025年5月 9日 (金)

交通至便な大和三山の展望所

大和三山を眺める絶好の場所
 行き易くて、ゆっくり大和三山を眺められる、とても良い場所があります。それは近鉄・大和八木駅から南へ徒歩3分の橿原市役所の分庁舎「ミグランス」です。10階建てのビルのため、駅の出口から見上げれば、すぐにそれと分かります。ミグランスは正確には分庁舎とホテルなどが入った複合施設の名前ですが、一般には分庁舎をミグランスと呼んでいるようです。
 ミグランスという愛称は鳶(とび。鵄とも書く)から来ています。神話で、黄金に輝く鵄が弓の先に留まって敵を眩惑したというのがありましたね。戦いに勝って神武天皇が即位したという話を思い出します。そのため橿原市は「日本国はじまりの地」を謳っているのでしょう。橿原市へ来ると神話の世界や飛鳥時代の様子が身近に感じられる気がします。

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ミグランス(橿原市役所分庁舎)

ミグランス10階の展望フロア
 
ミグランスの10階は展望フロアになっていて、大きなガラス面を通して、香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山が間近に見えます。また、二上山(ふたかみやま、にじょうざん)や葛城・金剛の山並みが眺められます。それぞれの山がある方向のガラス面に山の名前が表示されているので、どの山が何かすぐに分かります。
 フロアに置いてあるベンチにすわって山を眺めていると、『万葉集』に載っていた歌が思い出されます。
  ①最初は大和三山の妻争いの伝説を歌った中大兄皇子のものです。
  ②次に思い出したのは初夏の香具山を歌っている持統天皇のものです。なお、この歌は『百人一首』に入っているのですが、『百人一首』では若干内容が変わっています。
  ③そして西の方の二上山を見て脳裏に浮かんだのは、大伯皇女(おおくのひめみこ)が、冤罪で処刑され二上山に葬られた弟の大津皇子のことを嘆き悲しんで歌ったものでした。

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10階の展望フロア

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耳成山の眺め

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二上山の眺め

本『万葉集』
 『万葉集』については多くの本がありますが、ここでは非常に優しく解説してくれている角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集』から、上記の①②③について歌と現代語訳を引用掲載するようにいたします。

  ①「香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし
    古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき
    【香具山は畝傍山が愛しいといって、耳成山と争った。神代の時代からこんなふうであるらしい。昔もそうだからこそ、今の世でも妻を争うらしい。】」

  ②「春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたえ)の 衣干したり 天の香具山
    【春が過ぎて夏が来るらしい。真っ白な衣が干してあるから、天の香具山に。】

  ③ 「うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む
    【この世の人間である私は明日からは、この二上山(ふたかみやま)を弟だと思って眺めていよう。】

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角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集』

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2025年5月 2日 (金)

法隆寺と本『隠された十字架ー法隆寺論』

 法隆寺は謎の多い寺
 奈良県斑鳩町の法隆寺は謎の多い寺です。いつ、誰によって、何のために建てられた寺なのか、今でも明確には分かっていません。
 一般に法隆寺は聖徳太子によって建てられたと言われていますが、聖徳太子が建てたのは斑鳩寺であって、現在の法隆寺(西院伽藍)ではありません。もっとも、斑鳩寺が燃えてしまったので現在の法隆寺が再建されたと考えれば、法隆寺は聖徳太子が建てたと言えなくもありませんが、寺の性格がかなり大きく変化しているように思うのです。
 斑鳩寺の創建趣旨は、推古天皇の兄であり、聖徳太子の父でもある、用明天皇を弔うというものでした。しかし現在の法隆寺は聖徳太子を尊崇する寺になっています。奈良・平安時代以降の聖徳太子信仰の高まりがそういう変化をもたらしたのでしょうか。
 また、あれだけ大きくて立派な寺なのに『日本書紀』などに建築の記事がないのが不思議です。

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法隆寺の西院伽藍(金堂と五重塔)

法隆寺境内にある若草伽藍跡
 法隆寺の西院伽藍から東院伽藍へ向かう道の南側に実相院、普門院という塔頭がありますが、それらの建物の南側に広々とした空き地があります。昔に斑鳩寺があった若草伽藍跡です。草が短く刈られ芝生のようになった空き地に礎石がポツンと置いてあります。西方に目を向けると西院伽藍の五重塔の上部が樹々の上に見えます。
 真偽のほどは分かりませんが、『日本書紀』によれば、西暦643年に蘇我入鹿の手の者に襲われて聖徳太子の嫡男の山背大兄王子とその一族が斑鳩寺で自害したとのことです。また斑鳩寺は西暦670年に火災で全焼したと『日本書紀』に書かれています。

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若草伽藍跡

本『隠された十字架―法隆寺論』で提示された大胆な仮説
 現存の法隆寺が何故建てられたのかについて、大胆な仮説が今から約50年前の1972年に発表されました。哲学者の梅原猛氏が豊富な知識と人並はずれた直観力で考察執筆した本がそれで、タイトルは『隠された十字架―法隆寺論』です。発表当時、非常に話題になりベストセラーとなりました。私も知的興奮の中で、夢中になって読んだ記憶があります。
 本の結論は「法隆寺は怨霊鎮魂の寺である」というものでした。その論拠として印象に残っている主なものは次の三点です。
  ①法隆寺中門の真ん中に柱があるのは、聖徳太子の怨霊をとじこめるためである。
  ②夢殿の本尊の救世観音は聖徳太子の等身像であるが、その光背は像の頭部に太い大きな釘で打ち付けられている。すなわち、呪いをかけられ閉じ込められている。
  ③法隆寺の重要な法要である聖霊会で踊られる蘇莫者(そまくしゃ)の舞は、蘇我の莫(な)き者の霊を年に一度慰め、閉じ込めておくためのものである。

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中門(真ん中に柱)

歴史家たちによる批判・反論
 『隠された十字架―法隆寺論』について多くの歴史家や美術史家から批判・反論が起こりました。批判・反論した主な人は田村園澄氏、坂本太郎氏、直木孝次郎氏、町田甲一氏、石井公成氏などで、上記の①~③項への批判・反論は次の通りです。
  ①法隆寺(西院)が建てられる頃にはまだ「怨霊」を恐れる認識がなかった。聖徳太子の死後、太子が怨霊となったという文献史料はない。
  ②救世観音の光背は頭部に太く大きな釘で打ち付けられていない。事実誤認である。
  ③蘇莫者(そまくしゃ)は、「蘇我の莫(な)き者」というものではなく、シルクロードで盛んになって中国で流行した冬の行事であって、その祭りの西域の呼び名を漢字で「蘇莫遮」(そまくしゃ)と音写したものである。

 これらの歴史家たちからの批判・反論に対して梅原猛氏は「ほとんど反論はない」として、まともに答えなかったため、歴史家さんたちでの評判は良くないようです。
 ただし、それまで歴史家などの専門家が個別の分野ごとでは精密な研究や論文発表して来てましたが、誰が、何のために、いつ、法隆寺を建てたのかというような全体的な考えを発表してなかったため、梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』を初の総合的な考察として評価する意見もあります。

本『隠された十字架―法隆寺論』
 本書は冒頭から読者の心をグイッと鷲掴みにします。その挑戦的な文章を引用掲載します。

「この本を読むにさいして、読者はたった一つのことを要求されるのである。それは、ものごとを常識ではなく、理性でもって判断することである。常識の眼でこの本を見たら、この本は、すばらしき寺、法隆寺と、すばらしき人、聖徳太子にたいする最大の冒瀆に見えるであろう。日本人が千何百年もの間、信じ続けてきた法隆寺像と太子像が、この本によって完全に崩壊する。」

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梅原猛著『隠された十字架ー法隆寺論』

本『法隆寺の謎』に書かれていた「注目すべき謎」

 ベストセラーになった『隠された十字架―法隆寺論』ほどには注目されませんでしたが、法隆寺管長の高田良信師の書いた本に『法隆寺の謎』というものがあります。この本に書かれていたことで、一点だけ今も私の心に強く残っている「謎」があります。それは次のものです。

「皇極二年(六四三)、山背大兄王らが自決した斑鳩寺とは本当に今の若草伽藍であったのだろうか。もし、若草伽藍の地で自害されたのならば、太子とその御一族を尊崇し渇仰する人びとは、法隆寺の再建、夢殿の建立につづいて、山背大兄王ら殉教者が自決した聖地である若草の地に供養堂を建てているべきではなかったか。しかし、記録の上でも、発掘の結果もそのような痕跡は見出されない。若草の地は永年、荒野として放置されたままである。私はこれをどのように解釈していいのか、どうしても納得できないものを感じる。」

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高田良信著『法隆寺の謎』

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