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2025年4月

2025年4月25日 (金)

馬酔木(あしび)咲く浄瑠璃寺

京都府にある浄瑠璃寺
 浄瑠璃寺は京都府木津川市加茂町の当尾(とうの)の里にあります。それなのに、どうして『本を読んで行く奈良』で取り上げるかと言いますと、当尾の里は京都府と奈良県との境に位置していて、奈良の大寺の僧が修行のためにしばしば行き来していた場所だったからです。
 現在も浄瑠璃寺へ行く場合に便利なのは、奈良市からの季節運行バスか、JR加茂駅からの木津川市コミュニティバスを利用する方法で、どちらのバスも奈良交通が運転をしています。
 当尾の里、特に浄瑠璃寺のある地域は、バスで曲がりくねった道を登って行った山中の小さな集落で、長閑(のどか)な雰囲気が漂っています。

浄瑠璃寺
 浄瑠璃寺は奈良時代に創建されたという説もありますが、これは信用度が低いとのことで却下され、平安時代に創建、浄土信仰の高まりとともに寺域が整備されていった、というのが定説になっています。
 境内は浄土式庭園で、中央に池があり、東に浄瑠璃浄土の薬師如来を祀る三重塔、西に極楽浄土の阿弥陀仏を祀る本堂があります。池の東方は此岸(しがん)、現実の世であり、薬師如来に力をもらって、池の向こう側、つまり彼岸(ひがん)の西方極楽浄土へ飛んでいこう、との願いを表しているのでしょう。
 本堂には九体の金色の阿弥陀仏が横一線に安置されています。中央に大きな阿弥陀仏、その両側に四体ずつの若干小さな阿弥陀仏です。九体の阿弥陀仏は仏教で言うところの人間の生き方(上品・上生から下品・下生の九段階の生き方)に相応した仏を表しているようです。ほぼ自然光の薄暗い堂内で、ズラリと並んで鎮座している阿弥陀仏を見ると、異空間に来たと感じます。

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浄瑠璃寺の浄土式庭園

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三重塔

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三重塔から見る本堂

馬酔木(あしび)咲く浄瑠璃寺
 浄瑠璃寺および当尾の里は紅葉の美しい場所です。そのため秋には多くの参拝者やハイカーが訪れます。しかし、春もとても良い場所です。浄瑠璃寺は若葉がキラキラと輝き、朱塗りの三重塔が若葉と青空に映えます。また、浄土式庭園の池の水面に三重塔の美しい姿が浮かんでいます。馬酔木(あしび)も咲きます。池の辺(ほとり)の馬酔木は白い花が小さな葡萄の房のように咲いて綺麗です。
 寺に飼われているのでしょうか、それともいつの間にか住み着いたのでしょうか、猫が境内を温かい日差しを受けながらゆっくりと歩いています。

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馬酔木の花

本『大和路・信濃路』
 小説家の堀辰雄の作品に『大和路・信濃路』がありますが、その大和路の中に「浄瑠璃寺の春」という文章があって、穏やかな当尾の里の浄瑠璃寺が描かれています。 

「この春、僕はまえから一種の憧(あこが)れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ着いたすぐそのあくる朝、(中略)二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(ようや)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。」

「『まぁ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?』妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細(しさい)に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊(かたま)りを掌のうえに載せたりしてみていた。」

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堀辰雄著『大和路・信濃路』

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2025年4月18日 (金)

唐招提寺と「天平の甍」

唐招提寺
 奈良市・西ノ京にある唐招提寺は唐僧の鑑真和上が開山の寺です。奈良時代の初め、日本には正式に認定された(戒を授けられた)僧がいなかったため、授戒を実施する僧として鑑真和上が唐から招かれたのでした。
 鑑真和上の日本への渡航は種々の妨害や嵐のために5回失敗し、6回目に渡日に成功します。渡日を最初に決心してから十二年目でのことです。
 この間の事情を描いた本が井上靖著の『天平の甍』(てんぴょうのいらか)です。甍とは棟瓦(屋根面の交わる稜線の瓦)ことで、ここでは大棟に載せる両端の鴟尾(しび)を意味しています。

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唐招提寺金堂

天平時代の鴟尾(しび)
 唐招提寺の新宝蔵には、一般に「天平の甍」と言われる天平時代に作られた鴟尾が一体展示されています。金堂の鴟尾で、もともとは西側(向かって左側)に上げられていたのですが、正面に亀裂が入ったため東側に交換取り付けられたそうです。今は現役を引退して静かに新宝蔵に置かれています。
 なお、対の鴟尾のもう一体は鎌倉時代に制作されたものです。

鑑真和上廟所にある「天平の甍」の石碑
 唐招提寺の境内の東北端に鑑真和上の廟所があります。趣のある土塀沿いに歩き、門をくぐると綺麗な苔の庭です。庭の真ん中に直線の道が伸びて、正面に鑑真和上のお墓があります。
 お墓の左手の樹々の合間に、横幅が約三メートル、高さと奥行きがそれぞれ約一メートルはあると思われる大きな石碑が置かれています。石には「天平の甍」と「井上靖」の文字が刻まれていて、裏面には石碑が建立された事情が彫られています。

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鑑真和上の廟所

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「天平の甍」の石碑

「天平の甍」石碑の裏面の文章
 石碑の裏面の文章が非常に良い文章だと私は思いました。そのため、全文を掲載いたします。

   「千載の昔 淡海三船元開撰述
    『唐大和上東征傳』あり
   早稲田大学教授 安藤更生博士
   『鑒眞大和上傳之研究』を著す
   作家 井上靖氏 その教示を得て
   小説『天平の甍』を世に贈る
   大和上の行實巷間に広まるは
   両民の功大なり
      一九九六年五月吉日
      唐招提寺 第八十二世長老 證圓」

井上靖著『天平の甍』
 私が井上靖著の『天平の甍』で心に残るシーンとして真っ先に思い出すのは、伝戒の師を求める日本の要請に対して鑑真和上が話すところです。

「『まことに日本という国は仏法興隆に有縁(うえん)の国である。いま日本からの要請があったが、これに応(こた)えて、この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか』
 たれも答える者はなかった。(中略)
 相手が全部言い終わらぬうちに、鑒真は再び口を開いた。
『他にたれか行く者はないか』
 たれも答える者はなかった。すると鑒真は三度口を開いた。
『法のためである。たとえ渺漫(びょうまん)たる滄海(そうかい)が隔てようと生命を惜(お)しむべきではあるまい。お前たちが行かないならば私が行くことにしよう』
 一座は水を打ったようにしんとなっていたが、総(すべ)てはこの間に決まったようであった。」

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井上靖著『天平の甍』

 

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2025年4月11日 (金)

廃仏毀釈と内山永久寺跡

内山永久寺跡
 天理市杣之内(そまのうち)、「山の辺の道」沿いにある内山永久寺跡は、一般の奈良観光の場所としてあまり推奨は出来ません。見るべき堂塔や文化財がないからです。ただ、歴史に思いを馳せ、仏教の在り方と人の生き方を考える場所としては良いと思います。

かつては大寺
 大和の国においてかつて東大寺、興福寺、法隆寺の次にランクされる寺であった内山永久寺は、興福寺の末寺で、江戸時代には堂塔が50以上もある大寺でした。松尾芭蕉も若い頃にこの寺へ来て「うち山の 外様(とざま)しらずの 花盛」という句を詠んでいます。外様、つまり、よそものは知らないだろうけど、内山永久寺は隆盛を誇っていて桜の花が満開だ、と讃嘆しています。もしかすると「よそもの」には芭蕉自身も含めて詠んでいて、自身の驚きと讃嘆の大きさを示しているのかもしれません。なお、内山永久寺跡にある句碑に書かれている宗房という号は芭蕉が若い時に使っていたものです。

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内山永久寺跡にある寺の説明板

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松尾芭蕉の句碑

廃仏毀釈で廃寺に
 しかし、大寺であった内山永久寺は明治時代の神仏分離令によって廃仏毀釈の波に襲われ、廃寺となりました。堂塔は壊され仏像仏画等も散逸していきました。境内の跡地には建物が一つもなく、かつての浄土式庭園の池がさびれて残っているだけです。
 廃仏毀釈でこれだけ徹底的に破壊略奪された寺は珍しいです。なぜここまで破壊されたのかについて幾つかの説がありますが、私が考えさせられ、納得もした説は次のような状況の記述でした。「僧侶自らが還俗する旨表明し、役人の前で本尊を破壊したため放逐したという。」
 江戸時代の多くの寺は民衆に寄り添わず腐敗もしていて、民に反感を持たれていました。それが明治時代の神仏分離令によって廃仏毀釈の動きとなって行きました。そんな中で僧侶自らが本尊を破壊して役人におもねっています。役人もあきれかえってしまったのでしょう。

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かつての浄土式庭園の池

今に残る唯一の建造物
 壊されず残った建物は荒れるに任されていましたが、ひとつの建物が大正初期に石上神宮の摂社(本社と末社の中間の位置づけの社)の出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に移築され拝殿とされました。この拝殿は石上神宮の赤い楼門の南側、岡の上にあります。中央部分が土間で通り抜け可能な割拝殿(わりはいでん)で、国宝に指定されています。

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出雲建雄神社の拝殿

廃仏毀釈が書かれている本
 神仏分離令が出た時の内山永久寺の動静と状況が書かれている本があります。明治から昭和にかけて長いこと東京美術学校(現東京芸術大学)の校長を務めた正木直彦が書いた『十三松堂(じゅうさんしょうどう)閑話録』です。そこに次の文章がありました。

「布留(ふる)石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しようと言うことになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまする其の証拠にこの通りと言いながら、薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割って了(しま)うた。遉(さすが)に廃仏毀釈の人々も此の坊主の無慚(むざん)な所業を悪(にく)みて坊主を放逐した。」

 なお、近年に出版された本の『仏教抹殺』(鵜飼秀徳著。著者はジャーナリストで寺の副住職)には、永久寺の本寺である奈良・興福寺の廃仏毀釈の状況が書かれています。そして本の末尾の「結びにかえて」で廃仏毀釈の主な要因として次の四つを挙げています。

「①権力者の忖度 ②富国策のための寺院利用 ③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性 ④僧侶の堕落」

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正木直彦著『十三松堂閑話録』

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鵜飼秀徳著『仏教抹殺』

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2025年4月 4日 (金)

大神神社と狭井神社(2)

狭井神社
 狭井(さい)神社は大神(おおみわ)神社の摂社で、大神神社から北に5分ほど歩いたところにあります。狭井神社の境内にはご神体の三輪山へ登る唯一の道があります。なお、三輪山はご神体なので登山と言わず登拝(とうはい、とはい)と言います。
 狭井神社の鳥居をくぐって直ぐ、左手に池があり、そのほとりに「清明」と書かれた石碑がありました。清明の文字の脇には三島由紀夫の名が彫られています。隣の説明版には三島由紀夫が狭井神社に参籠して三輪山へ登拝し、その時の感想を「清明」という言葉に表したことが記されていました。神の山の三輪山に登拝して、三島由紀夫は清冽な気持ちになったのかもしれないと、私は思いました。
 私もかつて三輪山を登拝したことがあるのですが、その時の印象として強く残っているのは、地元の信者さんと思える人の何人かが険しい山道を裸足で登っていたことです。
 なお狭井神社には、拝殿に向かって左側へ回り込んでいったところに神水を汲める薬井戸があります。柄杓も置いてあって、柄杓を洗う水と汲む水は分けられています。水を口に含むと甘い感じがしました。

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三島由紀夫の「清明」の碑

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狭井神社境内にある三輪山への登拝口

『奔馬』に出てくる狭井神社と三輪山登拝
 三島由紀夫の本『豊饒の海』の第2巻『奔馬』に狭井神社と三輪山登拝が出てきます。

 「『もう一息でございます。そこがもう頂上です。沖津磐座(おきついわくら)と高宮神社(こうのみやじんじゃ)がございます』
 と案内人はさして息切れもしない声で言った。
 沖津磐座は崖道の上に突然あらわれた。
 難破した巨船の残骸のような、不定形の、あるいは尖(とが)り、あるいは裂けた巨石の群が、張りめぐらされた七五三縄のなかに蟠(わだかま)っていた。太古から、この何かあるべき姿に反した石の一群が、並の事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、怖ろしいような純潔な乱雑さで放り出されていたのである。」

 険しい山道を登って汗をかいた本多は、下山時に途中の「三光の滝」で汗を流すことを勧められ、裸になって滝の下へ行きます。そこで滝に打たれている少年を見るのです。

「滝へ近づいた本多は、ふと少年の左の脇腹のところへ目をやった。そして左の乳首より外側の、ふだんは上膊に隠されている部分に、集まっている三つの小さな黒子(ほくろ)をはっきりと見た。
 本多は戦慄して、笑っている水の中の少年の凛々しい顔を眺めた。水にしかめた眉の下に、頻繁にしばたたく目がこちらを見ていた。
 本多は清顕の別れの言葉を思い出していたのである。
『又、会うぜ、きっと会う。滝の下で』」

 『豊饒の海』第1巻の『春の雪』で道ならぬ恋の末に若くして死んだ、清顕の別れ際の言葉を本多は思い出したのです。この「三光の滝」のシーンは、輪廻の物語の『豊饒の海』の真骨頂の文章だと私は思いました。三光とは太陽、月、星のことであり、宇宙全体のありようを示しているようにも感じ、場所の設定の素晴らしさに驚嘆しました。

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三島由紀夫著『奔馬』

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