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2025年2月

2025年2月28日 (金)

壷阪寺・・・桜大仏、社会福祉への貢献

壷阪寺
 壷阪寺は明日香村の南、高取町にある寺です。かつては人形浄瑠璃の『壺坂霊験記』で有名だった寺ですが、近年は奈良の隠れた桜の名所として人気を集めています。
 見どころが多い寺です。主なものを挙げると次の通りです。
   ・盲目の夫を支える夫婦愛の物語『壺坂霊験記』に基づく、「お里沢市の像」
     ・眼の佛として信仰を集めている「本尊十一面千手観音菩薩像」
   ・雛祭りの頃に4000体以上もの雛人形を集めて公開する大雛曼荼羅
   ・「釈迦一代記」の大きなレリーフ
     ・巨大石仏の大釈迦如来石像、大観音石像、大涅槃石像

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お里沢市の像

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大雛曼荼羅

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「釈迦一代記」の大レリーフ

桜大仏
 壷阪寺の境内は桜の樹が多く、春は大釈迦如来石像が桜に囲まれます。桜の淡いピンクの花の中に大釈迦如来石像の慈しみ溢れる顔を拝観すると、これが「桜大仏」と呼ばれ親しまれているのが分かるような気がします。心が温かくなってくるのです。寺全体の雰囲気も春の陽気に包まれているように感じます。

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桜大仏

社会福祉への貢献
 壷阪寺は昔から眼病に霊験あらたかな寺と言われていたためと思われますが、盲目の人に対する社会福祉の取り組みに尽力してきました。日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を寺の境内に設立しましたし、インド他でのハンセン病患者の救済などをしてきました。
 ハンセン病への関与は、目の不自由なハンセン病の患者たちが点字を読んでいる様子を寺の先代の住職である故・常盤勝憲(ときわしょうけん)長老が目撃したことからです。

本『思いやりの心 広く深く』
 故・常盤勝憲長老が仏教について説いたり、養護盲老人ホーム設立に取り組んだりしたことなど、折に触れて書いていた文章を、後でまとめた本があります。『思いやりの心 広く深く』です。特に印象に残った部分を以下に引用掲載いたします。

“先生は私を目の不自由な人たちが集まっている寮へ案内されました。『壺坂霊験記』の関係から第一にと考えられたのかもしれません。ハンセン病は末梢神経がマヒし、指先の感覚はまったくなくなります。(中略)点字本が広く読まれていましたが、ハンセン病の患者たちは舌で読むのです。血をにじませながらむさぼるように読んでいる姿を知りました。”

 また、本の「あとがき」に、故・常盤勝憲長老のご子息の常盤勝範(ときわしょうはん)師が以下の一文を書いています。

“大観音石像の彫刻においても、機械を全く使わず、延べ七万のインドの人の手によって彫刻された。全く機械を使わない父の方針は、できるだけ多くの人々に仕事をしていただく人的資源の最大活用であると思う。”

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常盤勝憲著『思いやりの心 広く深く』

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2025年2月21日 (金)

「山の辺の道」沿いの檜原神社と井寺池

山の辺の道
 奈良盆地の東の山裾を縫うように通っている古道が「山の辺の道」です。道は奈良県桜井市から天理市を経て奈良市まで通じていて、桜井から天理までが南コース、天理から奈良までが北コースと呼ばれています。どちらのコースも曜日に拘わらずハイカーが訪れますが、なかでも人気が高い場所は桜井市三輪から天理市にかけてです。

檜原神社
 三輪の大神(おおみわ)神社から山の辺の道を北に向かって20分ほど歩いて行くと、大神神社の摂社の檜原神社があります。ここは天照大神が伊勢に鎮座する前に祀られていたことがあるということで元伊勢と呼ばれています。
 檜原神社は、大神神社と同じように三輪山をご神体としているため本殿や拝殿が無く、三つの鳥居が一体となった「三つ鳥居」から拝む形になっています。また、境内から西方に道が真っ直ぐに伸びていて、その先に雄岳・雌岳の二つの頂きがある二上山(にじょうざん)が綺麗に見えます。

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檜原神社の三つ鳥居

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檜原神社境内から西方を望む

井寺池と歌碑
 檜原神社から西へ徒歩で10分強のところに二つの池があります。井寺上池と井寺下池ですが、一般に二つ合わせて井寺池と呼ばれています。池の側に立つと奈良盆地の眺望が開け、大和三山や二上山が見えて美しいです。
 池の堤には川端康成と東山魁夷の歌碑があります。川端康成揮毫の歌は古事記の倭建命(やまとたけるのみこと)の歌です。
 「大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」
 川端康成はこの地まで足を運んで、耳成山や畝傍山そして二上山が遠くに見える風景をとても気に入ったそうです。自ら命を絶つ三カ月前のことでした。
 東山魁夷揮毫の歌は天智天皇の恋争いの歌です。
 「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき
  神代より かくにあるらし 
  古昔(いにしえ)も 然にあれこそ
  うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき」
 古事記と万葉集の代表的な歌が石に彫られ、大和盆地を見晴らす場所に碑として置かれています。そして碑の文字は、日本の美を深く愛した川端康成と東山魁夷の二人が書いたものなのです。 

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井寺池と川端康成の歌碑

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川端康成の歌碑

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東山魁夷の歌碑

川端康成と東山魁夷の交流
 本『川端康成と東山魁夷』には、歌碑を立てるために川端康成が井寺池へ行ったことが書いてありました。桜井市では山の辺の道に万葉歌碑を建設することを考え、川端康成もそれに賛同したのです。
 またその本には、川端康成と東山魁夷の二人の直筆の手紙が写真と活字の両方で載っていました。日を経ずしての往復書簡が何通も次々と。手紙からは二人の美に対する気持ちと相互の敬愛の念が伝わってきます。また、川端康成が所蔵していた数多くの価値の高い美術品と東山魁夷の描いた沢山の絵が、カラー写真で掲載されていました。一般の写真集や画集以上の作品の数です。

追悼文「星離(わか)れ行き」
 
私がその本の中で一番没頭して読んだのが東山魁夷の書いた川端康成への追悼文「星離(わか)れ行き」でした。東山魁夷は旅先の九州天草で、夕方に夫婦して宵の明星を見つめていました。その深夜に川端康成の自殺の知らせを受け、タクシーを乗り継いで福岡まで行き、朝一番の飛行機で鎌倉にある川端康成の自宅へ駆けつけるのです。そして次の一文が追悼文に書かれてありました。

 「座敷へ通ると、奥様の顔を見るなり、思わず手をとり合った。声をあげて泣かれた。お悔やみの言葉が出ない。ただ、涙が流れ落ちる」

 そして、追悼文は次の一文で終わっていました。

 「天草灘の夕べの空と海の色、西方に輝いた星の光を、私は生涯忘れることがないであろう。時が経つにつれて、それが先生(筆者注。川端康成のこと)の魂から発した光芒ではなかったかと、ますます強く思うようになりそうである。」

 本『川端康成と東山魁夷』では、追悼文の次のページに東山魁夷の絶筆となった絵『夕星』が掲載されています。暗い風景の中に、星が一つだけ光っていました。

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「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」製作委員会編
『川端康成と東山魁夷』

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2025年2月14日 (金)

東大寺②・・・お水取り

「おたいまつ」が燃やされるのに「お水取り」
 東大寺二月堂の修二会は高いお堂の上で大きな松明「おたいまつ」が燃やされるので知られています。しかし行事名は「お水取り」です。
 実は、「お水取り」は二月堂の近くにある閼伽井(あかい)という井戸から若水を汲んで、二月堂本尊の観音様に捧げる法要のことを言います。この法要のために二月堂へ上る練行衆(僧侶たち)の道灯りとして松明が燃やされ、それが「おたいまつ」として有名になりました。

興成社での祈りの言葉
 閼伽井(あかい)の近くに興成社という小さな祠(ほこら)があります。深夜に若水を汲みに行く練行衆がここに立ち寄り、祈りの言葉を捧げます。その表白文の重要部分は「甘露の浄水を流出して・・・法界の群類(世界の生き物)にあまねく益し給へ」だと私は思っています。なぜなら、甘露には、「飲んだら死なない霊水」、「仏教の教え」という意味があるからです。

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「お水取り」が分かる本
 「お水取り」の全体像が手っ取り早く分かり、雰囲気も感じ取れるものとして、木村昭彦さんの写真集『東大寺お水取り』があります。多くのお松明が同時に燃えている表紙画像は迫力満点です。
 また、「お水取り」を詳細に記録したものとしては東京文化財研究所芸能部編『東大寺修二会の構成と所作』が良いです。この本は、「お水取り」の主な行事場所の二月堂内陣が女人禁制で立ち入りできないのに、女性の佐藤道子さんが大変な努力と関係者へのヒアリングをしてまとめたものです。上、中、下、別巻と分厚い本4冊でできています。

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木村昭彦著『東大寺お水取り』

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東京文化財研究所芸能部編
『東大寺修二会の構成と所作』

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2025年2月 8日 (土)

東大寺①・・・奈良の大仏

奈良の大仏
 奈良と言えば大仏と言われるくらい東大寺の大仏は有名です。誰もが修学旅行などで一度は見ているでしょう。「拝観している」とあえて表現しなかったのは、中学生や高校生の頃に大仏を見ても、有難い気持ちで拝んだ人は少ないだろうと思う為です。
 私は大人になってしばしば奈良へ行き、大きな廬舎那仏を仰ぎ見るうちに、その顔に慈しみを感じるようになりました。まじまじと見ると良い顔をしている仏像です。
 大仏は拝観する時と状況、自分の心の様子によって印象が変わります。これまでで特に日頃と違って見えたのは、お身拭いの時と大仏殿の観想窓から大仏を拝観した時でした。
 お身拭いは8月7日朝、大仏に積もったホコリを払って綺麗にするのですが、大仏の御身を拭う人達が非常に小さく見え、相対的に大仏が如何に大きいものであるかが実感できます。
 大仏殿正面の観想窓が開かれ、そこから大仏の顔を見ることが出来るのは、元旦の0時から朝の8時までと、お盆の最終日の8月15日夜です。観想窓という額縁の中に大仏の慈顔を見たとき、慈しみのパワーが優しく大きく、こちらの胸に伝わってきました。

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観想窓から拝観した大仏の顔

大仏造立を描いた本
 奈良の大仏の造立を描いた本に帚木蓬生(ははきぎほうせい)著の『国銅』(こくどう)があります。奈良時代に長門(ながと)の国(現在の山口県北西部)で銅の鉱石採掘や製錬をしていた主人公が、国の命令で平城京へ来て大仏造立の仕事をする小説です。大仏を造っていく重労働の過程が詳しくかつ平易に書かれています。
 この本で私の印象に残ったシーンは、①大仏の鋳型に銅を流し込むところ、②行基菩薩の長い葬列、③大仏開眼法要などでした。①について以下に引用紹介いたします。

“「よし今だ。開けろ」闇の奥を見ていた組頭が叫ぶ。
 逆(さかさ)と国人(くにと)は、鉄棒で湯口の周囲の粘土を掻(か)き落とし、栓をしていた土塊を外に引き出した。
 まっ赤に溶けた銅が勢いよく飛び出す。白い湯気を立て、桶から溝に流れ、その先端がどろどろと大仏の外型まで延びていく。猪手(いて)ともうひとりの人足が、国人たちと同じ要領で、外側から二番目の湯口を開く。白い湯気がたちこめる。土の焦げる臭いがして、溶銅は太さを増す。第三、第四の炉の湯口からも銅が溶け出し、溝から溢れんばかりの勢いで、中子と外型の間にある二寸たらずの隙間に流れ込む。まるで赤い大蛇だった。他の組の溝も同様で、何匹もの大蛇が一斉に大仏に向かい、呑み込まれていく。“

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  帚木蓬生著『国銅』

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