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2025年1月

2025年1月31日 (金)

雪の石舞台古墳と橘寺

雪の石舞台古墳
 明日香村島庄(しましょう)にある石舞台古墳は巨石がむき出しになった日本最大級の古墳で、被葬者は蘇我物部の戦いで有名な蘇我馬子という説が有力です。この古墳を横から眺めると、私には巨石が大きな頭部と胴体に見え、人が横たわっているように感じられます。
 雪の降った日に石舞台古墳へ行きました。古墳の周囲の地面は雪で真っ白です。黒々とした巨石の上も雪がうっすらとありました。垂れこめていた分厚い雲に切れ目が出来、日の光が射してきます。古墳の上の雪が少しずつ融けて石が濡れていきました。雪の石舞台古墳と雲の切れ目から射してくる明るい光を見ていて、私はそこに日本の始まり、黎明期を感じました。

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雪の石舞台古墳

雪の橘寺
 石舞台古墳を見た後、明日香村橘にある橘寺へ行きました。北側の道路から橘寺を眺めると、寺の白い土塀が横一線に走り、周囲の雪景色と一体になって空気がピンと張りつめた感じがしました。
 橘寺は聖徳太子の父・用明天皇の別宮を後で尼寺にしたようですが、太子が黒駒に乗って斑鳩と飛鳥の橘寺の間を行き来したことや、仏教の勝鬘経をこの地で講義していることを考えると、橘寺は太子の飛鳥における宮(生活拠点)だったように私には思えます。

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雪の橘寺

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橘寺から飛鳥を眺める

橘寺の冬の朝が描かれている本
 橘寺の冬の朝が描かれている本に、朝皇龍古(あさみりゅうこ)著の『飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・後編)』があります。その第五章「母達の思い」に次のような文章が載っています。

“上宮(筆者注。聖徳太子のこと)は幼い頃から身が引き締まる冬の朝がとても好きだった。今日もそんな空気に触れて身を引き締めたいと、寒さを堪えて外へ出てみた。橘の宮は少し高台にあって、建設中の飛鳥寺や、新都の建設の状況がよく見えるのだ。

「この様な朝の早くに、寒い中何をしているのですか」
 いつも上宮が立って飛鳥の様子を見下ろす場所の近くに、菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)が一人で立っていた。
(中略)
「今朝はこの冬一番の寒さでした。身体が冷え切ってしまいます。さあもう館の中へ入りましょう」
 上宮がそう言い終わらぬ内に、貝蛸皇女は上宮の腕の中に倒れ込んだ。
「瑠璃っ。しっかり」”

 冬の朝、正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ。呼び名は瑠璃)は流産してしまうのです。跡継ぎを産めない正妃のつらさ、その正妃を慰め励ます上宮。国づくりも家づくりも簡単にはいかず、厳しい状況の中、夫婦で支え合いながら生きて行く姿に心打たれました。

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朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(朱雀・後編)』

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2025年1月25日 (土)

興福寺国宝館の銅造仏頭

素晴らしい仏像がある興福寺国宝館
 近鉄奈良駅から歩いて約5分で行ける興福寺。ここでお薦めなのが国宝館です。国宝館には非常に素晴らしい仏像が数多くあります。その中から私の好きな阿修羅像、竜燈鬼、そして銅造仏頭を紹介します。

阿修羅像
 阿修羅像はとても人気の高い仏像です。2009年に東京国立博物館で特別展「国宝 阿修羅展」が開催された時には約2か月の間に80万人が拝観に行ったそうです。
 娘を帝釈天に奪われて怒り悲しみ、戦の神の帝釈天に戦いを何度も挑む阿修羅。しかし、興福寺国宝館にある像はその物語とは打って変った優しく美しい少年の像です。顔が三面あり、両手も三対ありますが、腕も体も細く、男性なのか女性なのか分からない感じです。この像の前に立つと、その美しさにしばし足が動かなくなります。

竜燈鬼
 筋骨隆々の鬼が胸の前で両手を組んで立ち、頭の上に燈篭を載せています。竜をネックレスのように首に巻きつけていて、ギョロッと目をむき、口をギュッと結んでいます。そして微動だにせず、頭上の燈篭をかざしているのです。その姿はどっしりとしていて安定感があると同時にギョロ目の表情がとてもユーモラスです。この像と対になっているのは天燈鬼で、こちらは肩に載せた燈篭を手で支えています。天燈鬼も力強く良い仏像です。私は頭に燈篭を載せている造形が素晴らしいと思うため、竜燈鬼の方が好きです。

銅造仏頭(旧東金堂本尊、旧山田寺仏頭)
 現在、「銅造仏頭」と呼ばれている頭部だけの像は「旧東金堂本尊」と付記されていますが、以前は「旧山田寺仏頭」として知られていました。
 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が飛鳥に建てた寺です。厳密に言うと、建て始めた寺です。石川麻呂は蘇我入鹿の従兄弟ですが、中大兄皇子に味方して入鹿を倒し右大臣になりました。その後謀反の罪を着せられ、山田寺で自害しますが、後になって無実が証明されました。そのためでしょうか、山田寺は皇室の援助で建築が続けられ、685年に完成したのです。講堂の本尊には丈六、高さが約二・四メートルの薬師如来像が安置されました。
 ところが、1187年に山田寺講堂の本尊を興福寺の僧兵が盗み出してきて興福寺の東金堂の本尊に据えたそうです。当時の藤原一族の総帥であった九条兼実の日記『玉葉』にその旨が書いてあります。
 1411年に興福寺の東金堂が火災に遭い、本尊も焼失したと思われていたのですが、約500年後の1937年、東金堂解体修理のときに薬師如来の台座の中から、その頭部が発見されたのでした。これが現在、国宝館に展示されている銅造仏頭なのです。私は像の経歴から言って「旧山田寺仏頭」と表示するのが良いと思っています。
 石川麻呂がひとかどの人物だったのか、単に入鹿の蘇我本家への対抗心を持っていただけの人間なのか、私には分かりません。ただ、その生涯とこの仏頭の変遷を重ねてみますと、何か胸にジーンと来るものがあります。発願者は讒言で死に、仏像は盗み出され(強奪され?)、火災で仏頭だけになり、須弥壇の中に長いこと忘れ去られても、仏頭は毅然としています・・・。

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銅造仏頭(旧山田寺仏頭)

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相田みつを著『にんげんだもの』
 仏頭の顔の大きさは1メートルくらいあります。頬はふっくらとした丸みをおび、鼻筋が通っています。唇は固く結ばれ、目は細く半眼の状態です。この像について相田みつをさんが本『にんげんだもの』に詩を書いています。非常に良い詩ですので、長い引用になって恐縮ですが掲載させていただきます。

 “こんな顔で 

      ~山田寺の仏頭によせて~

                         相田みつを

宮澤賢治の詩にある      
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」  
というのは            
こんな顔の人をいうのだろうか   
                     
この顔は               
悲しみに堪えた人の顔である         
くるしみに堪えた顔である
人の世の様々な批判に        
じっと耐えた顔である         
そして                 
ひとことも弁解をしない顔である
そしてまた             
どんなにくるしくても
どんなにつらくても      
決して弱音を吐かない顔である
絶対にぐちを言わない顔である   
                
そのかわり
やらねばならぬことは
ただ黙ってやってゆく、という
固い意志の顔である
一番大事なものに
一番大事ないのちをかけてゆく
そうゆうキゼンとした顔である

この眼(まなこ)の深さを見るがいい 
深い眼のそこにある           
さらに深い憂いを見るがいい
弁解や言いわけばかりしている人間には
この深い憂いはできない

息子よ
こんな顔で生きて欲しい   
娘よ
こんな顔の若者と
巡り遭ってほしい“ 

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2025年1月17日 (金)

写経で伽藍を再興した薬師寺

薬師寺は写経で伽藍を再興したことで有名
 奈良・西ノ京の薬師寺は写経の納経料で伽藍を再興したことで有名です。伽藍再興の大きな節目の東塔解体修理が約14年間の期間を経て終了し、2023年4月には落慶法要が行われました。あの「凍れる音楽」と称賛されてきた三重塔の東塔が大和の空に蘇ったのです。
 伽藍復興の立役者は薬師寺トップの管長(正しくは管主(かんす))である高田好胤師でした。高田好胤師は副住職の時に自称「案内坊主」として、修学旅行で寺へ来た生徒達に仏教や寺の説明を行っていました。また、管長として写経を呼び掛けるために休む暇なく全国を講演して回っていました。このことは世に広く知られています。高田好胤師の行動は人々に「仏心の種まきをしよう」という思いから出たものでしょう。

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解体修理が完成した薬師寺の東塔

 高田好胤師の著書『心』と東塔
 高田好胤師には多くの著書があるのですが、その中で『心』という本が私の心に残っています。瞬間風速75メートルを記録した第二室戸台風の時に薬師寺の「東塔」がどうだったかが書かれているのです。多くの木々が根こそぎ倒され、他の堂塔が壊れるのを見て、師は東塔が倒れると観念しました。

 “だが、塔は倒れなかった。嵐が去って、嵐が来る前と寸分変わらず巍然(ぎぜん)として立つ塔を見出したとき、私は思わず掌を合わせて拝みました。”
“その日からは目に見えないものに向かっての無限なる努力、目に見えないところを大切にするーーそういう仏心の結晶が三重塔だと思われるようになったのです。”
“見えないものに向かって無限の努力をする、見えないところを大切にする、それが宗教心です。”

 東塔の天井裏などには、人の体が自由に身動きできないほど材料がつまっているそうです。そのことと東塔が倒れなかったことから高田好胤師は上記の巨(おお)きな教訓を得たのでした。

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高田好胤著『心』

目頭が熱くなった夫婦間の会話
 高田好胤師は仏心の種まきと伽藍復興に没頭して家庭を顧みなかったようです。奥さんが子供の一人娘を連れて家(寺)を出てしまい、離婚となります。相手が嫌いになったわけではありませんから、離婚後もそれなりの交流があったようです。
 高田都耶子(つやこ)さんという方がその一人娘で、『父 高田好胤』という本を書いています。その中に、父と母が離婚して35年後に復縁する話が載っていました。病気になった高田好胤師を看病するために奥さんが戻ってくるのです。
 本の208ページから211ページにかけて「父の涙」という一節があるのですが、私はそこを読んだ時に目頭が熱くなりました。長い引用になって恐縮ですが、紹介の意味で引用記載させていただきます。

 “ある夕方、父と二人で玄奘三蔵院を歩いているとき、父はこんな話をした。
「お母ちゃまは僕にこれだけのことをしてくれている。お父ちゃまが元気なときに『うちの主人はね』という言い方をさせてあげられないのが申し訳ないし、悔しい」
 そう言って詫びる父に母は、
「何を言うんですか、管長。私がお嫁に来たとき、ここは全部田んぼでした。何にもない荒れ果てた田舎のお寺だったんです。それを管長が頑張ってお堂も建てて、玄奘三蔵院も建てて、こんなに立派になったんですよ。そんな人の妻として、また『この人の家内です』と言えることは、私の大変な誇りです」
 そうお母ちゃまは言ってくれるんだよ、と話す父の目からは涙が流れ、かぼそくなってしまった肩が震えていた。”

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高田都耶子著『父 高田好胤』

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2025年1月11日 (土)

飛鳥寺と日本最初の大仏

奈良の旅で根強い人気の「あすか」
 奈良・大和路観光と言えば東大寺の大仏と、鹿のいる奈良公園が人気です。一方、奈良の旅で根強い人気がある地域が「あすか」です。あすかは日本の古代「飛鳥時代」の政治の中心地であり、聖徳太子などが活躍した場所として古代ロマンが感じられる場所です。
 なお、「あすか」の現在の行政区域表示は「明日香」(村)ですが、最寄りの近鉄の駅名表示や明日香村の一地域の字名表示は飛鳥です。明日香はとても語感の良い表記ですが、このブログでは歴史との関係で「あすか」を述べることが多いため、飛鳥という表記を使っていくことにします。
 飛鳥での観光地として人気が高く、私もお薦めしたいものとして、今回は飛鳥寺を取り上げます。

飛鳥寺の元々の名は法興寺
 飛鳥寺は飛鳥時代に造られた日本最初の本格的寺院で、元々の名前は法興寺(ほうこうじ)でした。法興寺の「興」と、後で造られる法隆寺の「隆」を合わせると興隆となるため、仏法興隆への熱意が感じられる命名だと私は思いました。
 「法興寺は蘇我氏の氏寺」と一般に言われていますが、実際は国家プロジェクトとして建てられた寺と考える方が良さそうです。なぜならば、①仏教興隆は当時の東アジア諸国の政治運営の潮流でした。②法興寺を建立する時の技術者や瓦職人は百済や高句麗、そして西域から来た人たちなどで、当時のトップクラスの技術が投入されています。③高句麗から日本へ贈られた黄金が本尊の銅造釈迦如来坐像のために使われているからです。
 蘇我氏の氏寺と言われた理由は、蘇我氏が仏教導入に熱心であったこと、法興寺建立に多大の施入(寄付)を行なったことなどによるのでしょう。

日本で最古級の仏像、飛鳥大仏
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 法興寺の本尊の銅造釈迦如来坐像は、飛鳥時代に造られた日本で最古級の仏像で、像の高さも275センチメートルと大きいため、一般に「飛鳥大仏」と呼ばれています。像が造られた当時は黄金で輝いていましたが、長い年月の間に金も剥がれ、火事などの災害によって痛みもしました。その結果、黒い銅像となり顔には補修の痕があります。
 飛鳥大仏は損傷が甚だしく、当初の造立部分が少ないためでしょうか、歴史的に重要なものでありながら、現在は重要文化財で国宝にはなっていません。しかし最近の蛍光X線分析によって、像の顔の部分が以前に言われていたよりも当初造立されたところが多いとされましたので、いつか国宝指定があるかもしれません。
 なお、大仏の台座は当初の位置から変わっていません。つまり飛鳥大仏は災害に遭って損傷と補修を受けながら、1400年以上も日本の姿の移り変わりを見てきたということになります。
 *飛鳥大仏は、奈良の寺では珍しく、写真撮影が許可されています。

飛鳥大仏奉納のシーンが描かれた本
 法興寺へ飛鳥大仏が奉納されるシーンを描いた本があります。朝皇龍古(あさみりゅうこ)著の『飛鳥から遥かなる未来のために』シリーズ第6巻の(玄武)です。その第二章「大仏奉納」には、蘇我氏の仏教興隆にかける思いや、造立場所から大仏が法興寺への運搬されていく沿道の情景、金堂に大きな仏像が安置される様子などが書かれています。そして、人々が大仏を仰ぎ見た情景が次のように述べられています。

”台座に乗せられた仏像は、今まで覆われていた布が全て取り除かれその姿を皆の前に現した。日の光が南の方向から大仏が安置された堂へ向かって射し込んで仏像を照らした。

 「おお、輝いておられる。何と荘厳なお姿か」
 「ああ、眩しい」
 「輝いておられる」
 「おお、有り難い。有り難い」

 その場に居る人達は感動していた。黄金に輝く大きく素晴らしい仏像を目の当たりにして心からの賛辞を述べる者、言葉を発するのも忘れ呆然と仏像を見つめ黙って手を合わせる者などそれぞれに自らの感情を表していた。”

 蘇我馬子がここまで来るのにどれだけ苦労したかを回想するシーンが、私の心を強く打ちました。そして、いつまでも大仏を仰ぎ見ている馬子の姿を目にした上宮(聖徳太子)は、人々の生きる指針ともなるべき仏教の根本の教えを多くの人々が理解できるようにしようとの考えを早く実行しようとするのです。それがまた私の胸にジーンと来ました。

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*『飛鳥から遥かなる未来のために(玄武)』はシリーズの第6巻です。
 シリーズの第1巻は『遥かなる未来のために(青龍)』です。・・・「飛鳥から」が付いていません。

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ブログのタイトルと内容のリニューアル

諸事情で当ブログへの記事掲載が長いこと出来ませんでした。
掲載を再開するにあたって、ブログのタイトルと内容を次の通りに変更いたします。

タイトル:「本を読んで行く奈良  鏡 清澄」
内  容:飛鳥(明日香)や奈良の社寺、名所、隠れた穴場などを紹介していきます。
特  徴:大和路の旅で、奈良の歴史や文化、情景をチョッピリ深く感じて頂くために、その場所のことが書いてある本を取り上げ、記載内容の一部に触れます。もちろん、私の独自の感性で物事を捉えた案内も致します。
思  い:このブログおよび紹介する本を読んで奈良へ行って頂き、皆さんの旅がより満足度の高いものになることを願っています。

 

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