2026年6月 6日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録される見通しに

●「世界遺産への登録がふさわしい」と勧告

 ユネスコの諮問機関「イコモス」は、奈良県内の飛鳥時代の遺跡群、「飛鳥・藤原の宮都」について「世界遺産への登録がふさわしいとする勧告をまとめた」とのニュースが、本日(6月6日)未明に速報で入ってきました。
 良かったです!!これまで「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録に尽力してきた市町村や関係者の皆さんの喜びは、とても大きいでしょう。

●イコモスの勧告とは

 世界遺産の登録の可否を決めるユネスコの世界遺産登録委員会はイコモスの勧告をもとに審議・決定を行います。

 イコモスの勧告は、評価の高い順に「記載」、「情報照会」、「記載延期」、「不記載」の4段階で評価されますが、「飛鳥・藤原の宮都」は最も評価の高い「記載」でした。過去、日本が登録推薦をして「記載」と勧告されたものはすべて世界遺産に登録されていますから、「飛鳥・藤原の宮都」は登録に大きく前進したと言えます。

●「飛鳥・藤原の宮都」が持つストーリー性

 近年、世界遺産登録には「ストーリー性」が重視されています。ストーリー性とは、その遺産が現代の世界の人々にどういう普遍的な価値を持つのかということです。私は飛鳥の宮都で行われた聖徳太子たちの国造りが非常に素晴らしいストーリー性を持っていると思っています。

 聖徳太子たちは黎明期の我が国のかたちを造ったわけですが、単に国の外形的なものだけでなく、和や平等や周辺諸国との交流など現代に通じる理念を追求していっています。これは日本の歴史の中であまり例を見ないものです。

 世界遺産登録が、多くの人の遺跡巡りをもたらすだけでなく、古代の人々がどのような理想を掲げて国造りを行ったのか、そしてそれは現代の私たちにどのようなことを訴えているのかを考えていく機会を増やしていってくれれば良いなと思います。

  *「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録とストーリー性について、以前に当ブログで詳しく述べていますので、ご覧頂ければ嬉しいです。

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(1)

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(2)

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2026年5月31日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第30回:命の大切さは、どこから来たのか?

●仏教では「命の大切さ」についてどう語っているのか?

  ・私の勉強が足りないためだと思うのですが、仏教で「命の大切さ」をしっかりと納得いくように説明しているものに出会ったことがありません。

  ・浄土真宗の寺のWEBサイトなどでは「生かされている命に感謝して生きていきましょう」と書いてあります。しかし、「生かされている命」という感じ方が、私には素直に出来ないのです。お坊さんがしばしば話す「もっともらしい有難い話」、「説教っぽい説教」に聞こえてしまうのです。

  ・また、仏教の解説本で読んだのか、寺で聞いた法話だったのか記憶が定かではないですが、こんな話がありました。「自分から父母、祖父母、曽祖父母、高祖父母と世代を何代も遡って行けば、自分が数限りない多くの人の繋がりの結果、誕生してきたことが分かります。その中の誰一人が欠けても、自分は生まれてこなかった貴重な存在なのです。ですから、自分の命を大切にしてください」。この話は私にはピンときません。誰か、例えば祖父母の一人が違う人になっていれば、自分と違う他の人が孫として生まれているだけじゃないかと思うからです。

●命はなぜ大切なのか?

   ・命はなぜ大切なのかを考えてみました。思いついたことを列挙すると次の通りです。

     ①命は一度失ったら、二度と取り戻せないから(死んだら、生き返れないから)。

     ②大切な人が死んだら、遺族が大きな喪失感に捕らわれ経済的にも苦労を強いられることが多いから。特に人間の場合、いろいろな知恵を次の世代へ伝えていくことが出来なくなることが痛い。

     ③命は生存本能そのものであり、とやかく理屈を述べる必要がない大切なものだから。

     ④これはうがった見方だが、もしかすると「命が大切」と言われることには、こういう要素もあるかもしれない。即ち、支配者が被支配者を搾取し続けるために、死んではならないという意味で「命は大切」と思い込ませている。

     ⑤人間をはじめとして、あらゆる命や物は地球や宇宙の一部であり、宇宙が生きて発展していっている場合、人間も生きて発展していくはず。つまり宇宙の成り立ちの延長線上で、命は大切ということになる。

●命と時間

   ・仏教の『長老偈経』(日本語訳書名『テーラガーター』の第451偈文に「一日の光陰は短しといえども これを空しゅうすることなかれ。一夜を捨つるは これ汝の生命を減ずるなり」というものがあります。

   ・これは「時の経つのは早いから、人としての正しい生き方を早く知るように精進しなさい」という教えで、「命の大切さ」を直接説明しているものではないと思います。しかし、私はこの偈文が命の本質の一面を述べているように感じるのです。「命は時間である」と言っているように受け取れるのです。

   ・宇宙は無限の広がりと膨大な数の星があり、それが時間の流れの中で流動・変化していっているのではないでしょうか。人間はその中で非常に極々小さな存在として生まれ、大変に短い時間を生きて、宇宙の一部を成しているように私には思われます。真理というのでしょうか、宇宙を貫く法則のようなものが「命の大切さ」に結びついているのではないでしょうか。

●自灯明、法灯明

   ・上記は仏教の門外漢であり、物事を考えるには浅薄な知識しか持たない私の勝手な発想・解釈です。そのため、仏教の専門家や深い哲学的思索をしている方から「何をくだらないことを言っているのだ」と言われそうです。ただ、どんなに至らなくても、自ら考え、自ら真理(ダルマ、法)と思うものに基づいて自分の思考をまとめることはして良いことだと思います。これこそが釈迦が遺言した「自灯明、法灯明」を実践することのはずですから。そして、現在の不十分な考えを踏み台にして、今後も種々の学びと経験をすることによって不十分な考えの充実化を図っていくようにする積りです。

 

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2026年5月22日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第29回:老人のオーラが曖昧なのは何故か?

●老人の曖昧さについて

  ・人間の幼児期のイキイキさ、青年期のはつらつさ、壮年期の真剣さに比べて、老年期は曖昧さが感じられると、私は第27回の記事で述べました。 

  ・老人の曖昧さは、思いのほか延びた平均寿命のために感じることが大きくなったように、私には思われます。

  ・医療の進歩などによって人間の平均寿命が延びましたが、もともと、生きて働いて暮らして来るうちに身体は老化し、あちこちに不具合が出て来、やがて死んでいくものでした。そういうものだと理解すれば良いのだと思います。

  ・釈迦は煩悩が悪さをして、人生に苦をもたらし、病死に至ると考えました。そして自己に対する執著(しゅうぢゃく)心などの煩悩をなくすことで、古代インドで広まっていた輪廻の苦しみから解放されようと説きました。これは古代インドという時代と地域で考えられた苦からの救済策でした。しかも釈迦による「苦の原因は心のあり方にある」ということに問題を絞っての解決策でした。

  ・現代においての老人の生き方は別な回答がいると思います。ただ一律にこれだと言うのは危険な気がします。曖昧さは多様性からきているとも言えるからです。 周囲の老人を見てみますと、下記のような種類の生き方をしている老人がいます。

●老人の多様な類型

  ①現役時代に働き詰めだったので、老後は旅行や好きなことをして楽しく暮そうとする人。

  ②苦しい家計をカバーするために極力働こうとする人。

  ③家計面、健康面、生きがい面など多面的に考えて、仕事をある程度やり、趣味の活動や社会貢献などを適切な割合で行おうとする人。

  ④孫の世話に時間の大半を投入する人。

  ⑤家族の介護に忙しい人。

  ⑥病気になって入院したり自宅で療養したりしている人。

  ⑦思索の時間ができて、自分の人生や生と死などについて思いを巡らす人。なお、この種類の人には2つのタイプがあるように思います。人生や命に特別な意味など無いと考える人と、何か価値ある人生を送りたいと考える人の2つです。

  ⑧自分の人生や生と死などについて全く考えない人。

  ⑨いろいろな面(現役時代にやってきた仕事の延長線上の面、第二の人生で取り組もうとする自己実現や社会貢献の面など)でまだまだ頑張ろうとする人。

  ⑩老化に伴う体力・知力の低下についてやむを得ないと認識し、気持ち的に現実のこの世から去って行きつつある人。

  ・これらの類型は一つだけで存在するのではなく、一人の老人の中にいくつかのものが混在して、しかも濃淡がかなり違う形で存在するのでしょう。どの要素を多く持って日々過ごしているか、過ごしていこうとしているかは各自の選択によるものと思われます。

●釈迦の遺言

  ・釈迦は死の直前、弟子のアーナンダの質問に答えて、「自灯明、法灯明」の教えを説きました。「師(釈迦)が亡くなった後は誰を頼りにしたら良いのですか」という問いに対して釈迦は「自分自身を頼りなさい。法(真理)を頼りにしなさい」と答えたという、あの有名な話です。

  ・各人が他人に頼らずに自分自身で考え、正しい普遍的なものに基づいて判断して、老人としての生き方をしていくことが大切なのでしょう。

●「法」についての理解深掘り

  ・「法灯明」の「法」について、おさらいをしておきます。なお、以下のことは植木雅俊著『仏教、本当の教え』から、私が独断で特に重要と思った点を抜粋し、文として繋いだものです。

“「法」と漢訳された「ダルマ」は、インド哲学の重要概念であり、多くの意味を有している。
ダルマは、語源的には「支える」という意味の動詞ドゥㇷリの名詞形で、「支えるもの」という意味である。事物を事物たらしめ、人間を人間たらしめ、社会を社会たらしめるものという意味であり、「真理」「道徳」「規範」「法則」「義務」「宗教」などの意味を持っている。さらには、そうしたことについて説かれた「教え」という意味でも用いられる。また、その「法」によってそうあらしめられた「事物」という意味も持っている。“

●「自灯明、法灯明」の「法」の解釈

  ・以上のように「法」は多くの意味を持っていますが、「自灯明、法灯明」の「法」について私は「真理。正しい普遍的なもの」と解釈するのが良いと考えます。宗教学者さんの解説では分かり易く「釈迦の教え」を説明しているものがありますが、いくら自分の覚ったことが真実だと思っても、釈迦が「自分の教えを頼りにしなさい」とは言わないように思います。「教えの根本である、真理を頼りにしなさい」と言うと思うのです。

●私自身の「老人としての生き方」の望み

  ・私は、老人が体力・知力的に次第に衰えていくのは止むを得ないと思いますが、やはり周囲に役立つ人間であり続けたいです。長くなった平均寿命、周囲に迷惑を出来るだけかけずに、皆に役立つように貢献していくということで、自分も満足感が得られ、周囲の人や物も喜んで、全体として幸せになるように思うからです。

 

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2026年5月15日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第28回:「命の輝き」について、一つの着想

●「命の輝き」はどこから来ているのか

  ・仏教では、人や動物や虫など生き物すべてのことを一切衆生(いっさいしゅじょう)と言うそうですが、私はこれらに植物や鉱物なども含めて一切諸物、万物が「命の輝き」を発しているように思えるのです。桜だけでなく種々の花がきれいに咲いています。樹々の根は生命力を漲らせています。石英は石ですが、キラキラと光っているのを見ると命が輝いているように見えるのです。

  ・活き活きした人間はじめ、これら万物の「命の輝き」はどこから来ているのかと考えをめぐらしていたら、ハッと下記のことを思い付いたのです。愚かな着想かも知れません。できれば笑わないでください。

「命とは宇宙のエネルギーが燃えているのではないか、変化しているのではないか。太陽や星が燃えているように、地球の万物も宇宙の中の物として燃えているのではないか。」

「そうならば、宇宙の摂理の下で地球が誕生し、その地球に人間などが生まれ、育ち、輝き、衰え、代替わりしていくのが納得できる。」

「華厳宗で言っている『全は個から成り立ち、個には全が宿っている』という姿が、ここにあるではないか」

●万物が一番輝いて見えるとき

  ・万物が一番輝いて見えるときというのは、そのものが本領を発揮しているとき、期待されている役割を見事に果たしているとき、ではないでしょうか。

  ・人間が就職する場合、最も力を発揮するのは、その仕事をやりたいか(WANT)、その仕事をやる能力があるか(CAN)、その仕事をやることを期待されているか(MUST)の3つの輪の重なるところであると言われていますが、種々の業種で活躍している人たちを見ると、確かにそうだなと頷けます。

  ・他のときで万物、特に人間が輝いて見えるのは、成長期の幼子であり、恋愛中の若い人です。これらは種の維持・保存に関係しているのでしょう。そして多種多様な種が共存していることで、この世の中は成立・存続しているように思われます。

  ・多種多様な種が共存し、種の中の個体一つ一つが本領を発揮して周囲に良い影響を与えていくと、全体が輝くのではないでしょうか。火が小さいもの一つではなかなか燃えていきませんが、燃えている火が二つになり三つになりして、それらが合体すると火は激しく燃え上がるようになります。

  ・燃え上がるためには自分だけが燃えていてもだめで、周囲の火も燃えていないといけません。自分が大きく燃え輝くためには、他のものも燃えるようにしなければならないのです。

  ・人間や人間以外の生き物、そして植物や鉱物も、宇宙の中の物であり、宇宙を構成している要素(物質や元素)で成り立っている物であるならば、時間の長短はあれ、それらは要素の組み合わせが変化し、形を変えて存在していると言えます。要素が気体で燃えるものであったら熱量を持ち、エネルギーとして周囲に影響を与えるでしょう。

  ・太陽が激しく燃えているように、地球では万物が活動し本領を発揮して形を変え、静かにエネルギーが燃えて生滅・変化して行っているように、私には思えるのです。

●地球の表面は冷えている

  ・ここで頭の片隅からマッタがかかりました。地球の表面は冷えていると。地球の内部は高温高圧で燃えていると言って良いと思いますが、表面は岩石の陸地部分と海の海洋部分で覆われています。そして、その表面に人間を始め生物などがいるのでした。

  ・それを考えると、人間も燃えていると単純に言うのは不適切です。地球が冷えていく過程で生命の誕生があり、長い年数をかけて生物が進化してきたのでしょう。

  ・以前読んだ本で、『対談:東洋の心』というものがありました。あの膨大な『大漢和辞典』を編集した漢字研究者の諸橋轍次氏と、日本におけるインド哲学の第一人者と言われる中村元氏の対談本です。その本で諸橋轍次氏が述べている文章が蘇ってきました。

 「天地の化育に参する・・・・・・これはもう中国の古くからの思想で、そこに人間と天地との一体化がある」

  ・草木がおのずから茂っていくのに同化し、あずかる、というという気持ちが東アジアの人間にはあったということです。これは、「表面の冷えた地球上でも、地球内部のエネルギーが表面に現れ、命として育まれている」と言えそう気がします。

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2026年5月 9日 (土)

ほっと一息:唐招提寺の団扇撒き

●ほっと一息
  ・難しい話が続きましたので、今回はほっと一息つきましょう。5月19日は奈良・唐招提寺で「団扇撒き」の年中行事があります。当日に撒かれる団扇および過去に撒かれた団扇に書いてある言葉や絵がとても胸を打ちますので、以下にご紹介いたします。なお、この内容は拙著『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』より一部抜粋したものです。

●団扇の言葉と絵
  “団扇に書かれている言葉や絵の中で、私の印象に強く残っている扇面は歌手の三波春夫氏が書いたものです。特に「人は苦難を超えて真実に出逢う」と「友好の歌声は海を渡り空を翔ぶ」と書かれた団扇が好きです。鑑真和上の日本への渡航と貢献、そして三波春夫氏の人生経験が重なって書かれた言葉のように思うからです。三波春夫氏が戦争でシベリアに抑留されていたということを知り、この二つの言葉はズシリと心に響きました。

 それから、千手観音の御手の扇面が良かったです。手首をちょっとひねって瓶を持っている手だけの絵で、「香水无量(こうずいむりょう)」と添え書きされています。香水とは薬であり、飲んだら死なない霊水、すなわち救いの源である「仏様の教え」を意味しているのでしょう。そして无量とは量がはかり知れないほど多いということですから、仏様の功徳は限りなく大きいということなのだと思います。一本の手、それも手首から先だけで、仏様の無限の慈愛を感じさせられました。

 その他、多くの印象深い言葉がありました。主なものを書いておきます。
女優の南田洋子氏書「人生 生きちょるだけで 丸儲け」
作家の杉本苑子氏書「力耕 われを 欺かず  陶 渕明」
女優の司葉子氏書「微笑に 勝る 美しい化粧 なし」
考古学者の森浩一氏書「牛歩万里」
詩人の大岡信氏書「一羽でも 宇宙を満たす 鳥の声」

 絵で印象に残った主なものは次の通りです。
歴史学者の直木孝次郎氏筆「唐招提寺金堂」
画家の山中のり子氏筆「千手観音」“

●団扇撒きの詳細
  ・団扇撒きの情景については、当ブログの『唐招提寺の団扇撒き・・・【萬世同薫】の「第一章 千手より』をご覧ください。なお現在の団扇撒きは、参加者の安全のために参加者数が制限されています。

 

 

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2026年5月 1日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第27回:自分として世の中をどう捉え、どう生きるか?

●世の中をどう捉えるか

  ・自分として世の中をどう捉えるべきか、これまでに学んできた仏教その他のことから要点を書き出してみます。

  ・世の中は諸行無常、すなわち万物変化でしょう。お互いが直接的な原因、間接的に影響を及ぼす縁、それらがもたらす結果となって、幾重にも変化が繰り返されていくのだと思います。

  ・キリスト教のように絶対的な神がいて世の中を差配しているのではなく、自然や人間などが相互に影響・変化し合って世の中を形作っていると考える方が、私には納得がいくのです。

  ・輪廻はなくて循環生成はあると思います。仏教で言われる六道輪廻(生きとし生けるものは前世の行いの結果、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天に次々と生まれ変わる)は、古代インドで広く信じられていた輪廻の思想を仏教に取り込んだものであり、現代では信じられることではないでしょう。一方、自然が季節とともに巡ってきたり、食物などが採取できたりすることは循環生成があるためだと私は強く思います。

  ・「世の中は善因善果、悪因悪果」という教えは、例外はありますが概ねそういう結果になるように私は思います。例外があることで否定するのではなく、確率として大きいものを元に判断すべきでしょう。また、悪いように見える例外にも存在意義があるのかもしれないと、進化論の関係で思います。

  ・煩悩を滅すれば心安らかになり不幸から救われるという仏教の教えは、人間の心の持ち方が原因の不幸には当てはまりますが、その他の場合には当てはまらないと言えます。不幸の原因は多々ありますので、それぞれに適切な対策が必要でしょう。

  ・時代と地域を越えて推奨される行いは抜苦与楽でしょう。苦しみや嫌がることを取り除き、楽しいことや喜ぶことを与える行為は、孔子もイエス・キリストも説いています。仏教で抜苦与楽を意味する言葉が「慈悲」であり、「諸悪莫作・衆善奉行」と考えます。

  ・人間が互いに影響し合って生きていく過程で、自分を大切に思うようになり、自分を大切に思う気持ちが他人を大切に思う気持ちをもたらし、相互に大切にし合おうという考え方が広まってくるのだと考えられます。仏教でいう慈悲であり、キリスト教でいう隣人愛でしょうか。ちなみに、歴史学者で文明史に詳しい伊東俊太郎氏の著書『人類史の精神革命』によれば、ソクラテスも孔子もブッダもイエスも人間社会がある程度できてきた、ほぼ同時期にそれぞれが人間愛の必要性を唱えている、とのことでした。

●どう生きるか?

  ・多くの人の姿を見ていると、年代別でその輝きとか、発している雰囲気が異なることとかに気付きます。子供たち(お母さんと手をつないで歩いている幼児や下校途中の小学生など)は、とても明るく、楽しくて仕方ないという感じです。結婚間近な女性は美しく、デートしている恋人たちは幸せオーラがいっぱいです。壮年期のビジネスマンや主婦からは仕事や家庭を築いていっている真剣さが溢れています。そしてお年寄りからは私は「多様性」や「空白」のようなものを感じるのです。

  ・表現を変えれば、幼児期のイキイキさ、青年期のはつらつさ、壮年期の真剣さ、老年期の曖昧さ、と言えるでしょう。老年期だけが明確な雰囲気が無く、栄養の改善や医療の発展でもたらされた高齢化社会に老人が戸惑っているような感じがします。

  ・古代インドには「四住期』という考えがありました。人生を学生期・家住期・林住期・遊行期の4つの期間に分け、それぞれ、「種々のことを学ぶ時期」、「働き、家族を養い、社会貢献をする時期」、「家を出て林に庵を結んで自由に思索する時期」、「理想の死に向かう時期」と捉え、生きて行ったとのことです。作家の五木寛之さんや宗教学者の山折哲雄さんが四住期の考えを本で紹介して日本で知られるようになりました。

  ・私は五木寛之さんや山折哲雄さんの著書は好きですが、四住期の考え方は好きでありません。林住期・遊行期について高等遊民の道楽のような気がするのです。家を盛り上げ、社会貢献したら、その後は自由人になって人生を思索して暮らすなどということは間違っているように直感したのです。社会貢献をするなど、存在価値があるから人や物は存在するのだと思うからです。調べてみましたら、四住期の考え方は古代インドのカースト制の上位身分の人にだけ許されたものでした。

   ・私が人生を考えるのは、桜が咲いているのを見たり、ウグイスが美しい声で鳴いているのを聞いたりした時です。有名無名の人たちが活躍したり社会に貢献したりしたニュースに接した時です。すべてのものが互いにその本分、得意とするもので世の中に貢献し合っていることが命のように思えます。

   ・どう生きるべきかという私自身が発した問いへの、現時点での私の答えは、「自分が貢献できるもので家族や世の中に貢献することではないか?」ということです。そうしているときに人は最も命の火を燃やしているように思います。桜が満開で非常に美しいように。

   ・「老年の意義、老人の生き方」については今後もっと学んで、人生経験を積んで、改めて考えてみるようにします。

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2026年4月28日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第26回:老いをどう考えるか?

●本題に入る前に

  ・今回の本題に入る前に、当シリーズ第25回の記事の後半で述べた「命の輝きになぜ感動するのか」について少し補足をさせてください。

  ・第25回の記事で、「とてつもなく長い宇宙の時間の中で、極端に短い時間を生きている人間や生物だからこそ、生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいというDNAが組み込まれているのではないか」、「一瞬一瞬が価値あるものでなければ、長い宇宙の時間も価値の低いものになってしまうから」と私は述べました。

  ・それは、「奈良の大仏」で有名な東大寺(華厳宗)の所依の経典である華厳経に次のようなことが書いてあることを、私が知っていたためだと思われます。

  ・「ひとつひとつの小さな無数の世界が大きな世界を生みだし、一滴の雫が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきにも永遠の時間が凝縮されている」(小学館刊『週刊 古寺をゆく 2 東大寺』より)。

  ・また、東大寺本坊には小泉淳作画伯の描かれた桜の襖絵があって、これも華厳経の「全体と個」の関係を謳っていると言われています。桜の無数の花びらが一つひとつ丁寧に描かれ、大きな枝垂れ桜となっています。「全体は個から成り立ち、個は全体と同じものを表している」とのことです。なお、東大寺本坊の襖絵は概ね4月の開花時期にのみ一般公開されています。

●老いをどう考えるか?

  ・本題に入ります。私は以前から「老い」は「老練、練れる」の意味にとって、老いを前向きに評価するようにしたいと思っています。中国の「老酒」は「蒸留酒の練れた良いもののこと」と聞いた記憶があります。

  ・しかし、そうは思っていても、知り合いが年を取ってきて老人となり病気で入院したりしたことを聞くと、心穏やかでは居られなくなってきました。

  ・涅槃経によると、釈迦は最晩年に自分の老いと病気の状態について、「革ひもの助けを借りてようやく動いている古い車」のようだと弟子のアーナンダに言っています。聖徳太子も日蓮も亡くなる前に病気に苦しんでいたと本に書いてあります。

  ・多くの人が老人になり病気になって死んでいくというなら、「老いと病気」についてもっと考えなければいけないのではないかと、私も思うようになりました。

●老いと病気

  ・普通に考えれば、老いと病気については使い痛み、別な言葉で言えば勤続疲労でしょう。長期使用や過度の負荷によって身体が弱まり傷付いてくるのだと思われます。

  ・別な考え方としては、死が自然の理(ことわり)なように、老いと病気も自然の理と受け止めることも出来ます。宇宙の摂理なら、それは受け入れざるを得ないと言えます。

  ・さらに違った角度から考えてみれば、こんなことも言えそうです。すなわち、死が種の保存・維持・発展のためにあるとしたら、「老いと病気」も何らかの積極的な存在理由があるのではないか、と思い至ります。

  ・その思いに対する一つの答えとして最近よく見かけるのは、「ピンピンコロリが良いとは限らない。老いて病気になった姿を子や孫たちに見せることによって、親族が死を受け入れる心の準備をしたり、親族と本人の双方が助け・助けられの人間関係を改めて感じ感謝の念を持ったりするようになるのだ」というものです。

  ・いろいろ考え方はありそうですが、やはり、身体を長期に渡って使ったために身体のあちこちが痛んできて、老年になるとそれが病気として出て来る、と考えるのが素直で良いように思えてきます。老年になり、病気として出てくるものは仕方がない。死へ至る道筋なのだと受け入れるようにすれば良いのだと感じます。

  ・そうなると、「老いと病気」についてあれこれ考えることをいつまでもしていないで、どう生きるかを考えて、これと思うことを実行した方が良いと言えそうです。

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2026年4月22日 (水)

新刊書『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』のご紹介

昨年、同い年の友人が亡くなりました。
彼は何か話したい本音があったはずなのに、話さないで逝ってしまいました。
聴いてあげたかった。
私も話したかった。
それなのに、それは叶いませんでした。

今回、個人の写真アルバムならぬ『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』をまとめてみようと思ったのは、「人に私のことを知ってほしい、互いに知り合う仲になりたい」という気持ちが強くあったためです。
人は互いに分かり合い、深く共感し合ってこそ、一緒に生きている喜びを感じられるように思うのです。
分かり合えないまま、一緒に生きている喜びを感じられないまま、逝ってしまうのは避けたいです。

●本のタイトルと内容

新刊書のタイトルは『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』です。私がこれまでに各所で発表してきた小品、未発表の小品、それらをまとめてみました。具体的には、詩、短歌、俳句、童話、旅の思い出(旅行記)、良い本を広めたい(読書感想)などです。

●本の出版関連情報

この本の出版関連情報は次の通りです。
題 名:『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』
著 者:鏡 清澄
出版社:Independently published
販売元:アマゾンジャパン合同会社
     紙書籍(ペーパーバック)をオンライン書店のAMAZONで販売中。
価 格:1,430円(税込)。
紙書籍の頁数:238ページ(四六判)
紙書籍のISBN:979-8252551166
紙書籍のAMAZONのURL: https://www.amazon.co.jp/dp/B0GXJJDVY3/

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本『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』の表紙

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2026年4月12日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第25回:キーワードは変化?

●仏教の「五蘊」の隠喩

 ・本シリーズの「第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)」 で述べたように、釈迦の人間の捉え方は、人間は五蘊(ごうん。色、受、想、行、識)で出来ているというものでした。

 ・これは、人間は「実体として固定的にあるもの」(哲学での専門用語は「実体の存在論」)ではなく、感じたものが次々と蓄積され影響し合って気づきが出来、行動していくものだという捉え方です。「変化体としての存在」(哲学での専門用語は「プロセスの存在論」)と言えるでしょう。

 ・実は、五蘊には隠喩(隠されたたとえ)があります。蘊(うん)は原語のサンスクリット語ではスカンダーであり、意味は「集まり、集合、薪(まき)の束」です。そのため、五蘊とは「5つのものの集まり」と言えますが、ここで注目したいのは「薪(まき)の束」の意味があることです。釈迦は五蘊に「燃えるもの」というイメージを含ませているのだと言われています。

 ・人間が「変化体としての存在」であり、「燃えるもの」であるなら、それは私が思い付きと述べた「宇宙は循環生成していくが、それは宇宙の構成要素(もしかしたらそれはエネルギー?)が燃焼し変化して行っているのではないか」に繋がるように思います。人間も(万物も)燃焼し変化して行っていると考えられます。

 ・そして、現代の宇宙科学でも「変化体としての存在」が言われています。宇宙はビッグバンがあって以降、何億光年もの長い間、変化し続けているとのことです。変化体としての宇宙、その宇宙の一つの星である地球に住む人間や万物も変化体であり、燃焼しているもの、なのではないでしょうか。

●諸行無常と「縁起の法」

 ・諸行無常とは本来、「あわれ」の意味ではなく「万物変化」、すべての物や事柄が変化していくとの意味です。また、「縁起の法」とは「因縁果」のことで、直接の原因、間接的に影響を与えるもの、結果の3つが相互に幾重にも結びついていることを述べています。

 ・諸行無常と「縁起の法」は深く関係していて、それぞれのものが因になり縁になり果になり、また果が因となって、無限に繰り返され、種々変化していくのです。

 ・仏教では、キリスト教のような全知全能の神がいて万物を創造する、ということは説かれていません。すべてのものごとが変化、因縁果によって出来、そして無くなっていきます。

 ・こうして考えてきますと、仏教の思想も私という人間の「生と死」も、それを理解するキーワードは「変化」と言えそうです。

●「命の輝き」になぜ感動するのか

 ・すべては変化して行く。いつかは皆、死んでいく。無に帰すと思うのに、命が輝いていることに感動するのは何故なのでしょうか。私は、とてつもなく長い宇宙の時間の中で、極端に短い時間を生きている人間や生物だからこそ、生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいというDNAが組み込まれているのではないかと思うのです。一瞬一瞬が価値あるものでなければ、長い宇宙の時間も価値の低いものになってしまうからです。

 ・何も考えない人もいるでしょう。生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいなどと思わない人もいるでしょう。

 ・しかし、多くの人は満開の桜を見て美しいと感じるでしょうし、ウグイスの鳴き声を心地よく聞くでしょう。そして種々の分野で活躍する人たちの成果に拍手をします。それぞれの得意な分野で能力を発揮し役割を果たす物たちや人たちに賛辞を送り、喜びを共有します。これは、それぞれが適切なことをしているためでしょう。役割を果たすということは利他行と同じだと私は思います。

 ・それぞれの物たちや人たちの一瞬の輝きは素晴らしいものです。そして、輝きの一瞬一瞬の繋がりが人間の命や万物の本質(エネルギーの燃焼・変化?)であることを表しているのではないでしょうか。私にはそのように思えるのです。 

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2026年4月 5日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第24回:自分として「死と生」をどう考えるか

●仏教は奥が深くて学び切れない

 仏教は多くの経典があり、思想も奥が深いため、私のような僧侶でも宗教学者でもない一般人が、ちょっとやそっとの学びでしっかり理解できるものではありません。もっともっと広く深く学んでいかなければいけないと思っています。

 しかし昨今、同年代の親しい知人・友人が亡くなったり、病気で入院したりした話を聞くと、このまま仏教の知識を得ることだけをしていては良くないように思えてきました。まだまだ勉強不足が甚だしいですが、これまで得た仏教の考えを踏まえて、自分なりに「死や生」について考え、考えが人に笑われるほど低いレベルであっても、自分の思想を作っていかなければならないと気付きました。そうしないと時間切れになってしまうからです。

●「自灯明、法灯明」と釈迦は教えた

 この「仏教の一端を学び、考える」シリーズの第7回で「自灯明、法灯明」について少し詳しく述べていますが、釈迦が死の直前に弟子に教えた「自灯明、法灯明」に基づき、私も生きてゆくべきだろうと思います。つまり、他者に頼らず自立して、普遍的に正しいことを自らの考えとしてしっかり持って、それを拠り所として生きてゆく必要があるというものです。

●人は死んだら「土に還る」、「星になる」

  昔からよく「人は死んだら土に還る」とか、もう少しロマンチックには「人は死んだら星になる」と言われてきました。これについて私は正しいのではないかと現在思っています。

 現代科学の知識によれば、人の肉体は土葬された場合、土の中でバクテリアなどによって分解され、分子となって土と一体化していきます。そして他の生物などに吸収され、新しい生物などになっていくと考えられます。火葬の場合も実質的に同じでしょう。分子になる過程の途中で肉体を燃焼させているだけと言えます。

   また、現代の宇宙科学理論によれば、宇宙にはブラックホールがあり、そこは強い重力で周囲の物を吸収し押しつぶしてしまうとのことです。そして吸収し押しつぶした後に、それらを再び宇宙にばらまいています。このことによって生物の因子やDNAがいろいろな星に含まれるようになっているとのことです。人の肉体が分解されて出来た分子や土が他の星へ飛ばされていくのです。

 最近ではホワイトホールの存在も主張されてきています。まだ理論的に証明されていませんし実際に発見されたわけではありませんが、宇宙にはブラックホールとは性格が反対の「物を放出する」ホールがあると一部の宇宙科学者が言っています。

●釈迦の「死と生」に関する教えで、私に響いたもの

 釈迦は古代の東アジアの農耕採取社会に広まっていた「循環生成」の思想を持っていたと言えます。私も「循環生成」の考えはスンナリ受け入れられます。

 仏教説話で「死人の出ていない家は無い」という話があります。これも、誰もが死んでいっている事実を見れば100パーセント頷けます。つまり誰もが死ぬのです。

 また、仏教では「施身聞偈」の話の中で、偈文「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」が出てきます(筆者注。詳しくは当シリーズ第4回:涅槃寂静を参照ください)。この偈文の意味は、「全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則であることを知り、納得して、受け入れると、精神が解放され心が落ち着くのです」というもので、宇宙の理(ことわり)、自然の摂理というものを知り、受け入れることの大切さを教えています。これについても私は納得です。

 私という人間は地球という宇宙の中の星にいるわけですから、宇宙の摂理に統括されているでしょう。宇宙の中で人や生物、そして長期間のうちには鉱物なども変化・生滅していき、循環生成するのではないでしょうか。この宇宙の摂理を素直に受け入れたら、「そういうものなのだ」と心落ち着くような気が、私はするのです。

●宇宙の本質はエネルギーの燃焼・変化?

 ここからは私の単なる思い付きです。いや、意識の底辺に仏教の考えや宇宙科学の考えがあるかもしれませんが、今は思い付きというのが適当と感じます。

 桜がきれいに咲いているのを見ると、またウグイスが美しい声でしきりに鳴いているのを聞くと、素晴らしい!と私は思うのです。大谷翔平さんがホームランを打つのや、藤井聡太さんが将棋で勝つのや、甲子園で高校球児が一所懸命に戦っているのや、幼い女の子がお母さんと手を繋いで嬉しそうに歩いているのや、それらの姿を見るととても嬉しいのです。「命が輝いている!」「命が燃えている!」と感じるのです。

 いつかは皆、死んでいく、無に帰すと思うのに、命が輝き煌めいていることに感動するのです。宇宙は循環生成していくが、それは宇宙の構成要素(もしかしたらそれはエネルギー?)が燃焼し変化して行っているのではないかと私は思うのです。

 

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