2026年7月11日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」で私のお気に入り

●世界遺産登録が有力視される「飛鳥・藤原の宮都」

   ・奈良県内の飛鳥時代の遺跡群、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」について、この7月に世界遺産に登録されることが有力視されています。

   ・このことは奈良に住む者として嬉しいことです。しかし、最近のテレビなどの報道で「世界遺産に登録される見通しの飛鳥・藤原の宮都」と紹介されると、ちょっと心配になります。ものごとは最後になるまで分からないのですから、もう少し身を引き締めて登録に向け努力していかなければいけないと思うためです。

●「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」

  ・世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会のWEBサイトによれば、登録を申請している「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、3つのカテゴリーに分けられた19の資産で構成されています。それらを列挙すると次の通りです。

  ・「飛鳥・藤原」の価値(筆者注。登録申請の理由、主題です)・・・「日本国」の形成と成立
    分類1:宮殿・官衙(かんが)跡・・・中央集権国家の形成過程
          飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、酒船石遺跡、藤原京跡
    分類2:仏教寺院跡・・・・・・・・・・・・国家宗教としての仏教寺院の成立
          飛鳥寺跡、橘寺跡、山田寺跡、川原寺跡、檜隈寺跡、大官大寺跡、本薬師寺跡
    分類3:墳墓・・・・・・・・・・・・・・・・・・律令による墓制の変化
          石舞台古墳、菖蒲池(しょうぶいけ)古墳、牽牛子塚(けんごしづか)古墳、天武・持統天皇陵古墳、中尾山古墳、キトラ古墳、高松塚古墳

●私のお気に入りの場所(or関連資産)

  ・上記の19の関連資産の中から私のお気に入りの資産を歴史の古い順に挙げると次の通りです。

  ・飛鳥寺跡、橘寺跡、石舞台古墳、山田寺跡、藤原京跡、キトラ古墳、高松塚古墳

  ・なぜこれらの資産が好きなのかについては、次回以降に述べていきます。

●上記以外での魅力的な資産(場所)

   ・世界遺産登録申請の関連資産群には入ってないのですが、「日本国家の形成と成立」という歴史的な事象から考えると、他にも魅力的な資産(場所)があります。それは①向原寺(豊浦宮跡、豊浦寺跡)、②小墾田宮跡(推定地)、③甘樫丘です。

   ・これらについてもなぜ魅力的なのかを、順次書いていきます。

 

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2026年7月 6日 (月)

(改題・新装版)『奈良に誓う』の発刊

●『奈良に誓う』を発刊

  ・私が19年前に出版した本『迦陵頻伽 奈良に誓う』を、この度タイトルを変え、表紙の画像も変更し、改題・新装版『奈良に誓う』として発刊しました(AMAZONにて電子書籍と紙の本を販売)。

  ・「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という言葉が一般に馴染みが薄く、本を手に取って読むのをためらう、という声が聞こえたためです。

  ・確かに、言われてみれば、四季美しい古都の奈良で紡がれる若い男女のラブストーリーに迦陵頻伽という難しい言葉は合っていない、と思うようになりました。そのため、書籍タイトルは『奈良に誓う』だけにして、一冊の本の中にこれまで通り「奈良に誓う」と「萬世同薫」の二つの作品を掲載しました。

●「奈良に誓う」は四季美しい古都・奈良を描いています

   ・「奈良に誓う」の概略内容は次の通りです。

   ・東京で新たに陶器店の運営を任された槇野あずさは、奈良・西ノ京の唐招提寺で弥勒如来に事業の成功を祈った。しかし、その仏様は願いを叶えてくれないのだということを耳にする。

   ・西ノ京からほど近い赤膚焼きの窯元で、あずさは一人の青年に会う。青年の橘貴一は、偶然にもその日あずさが宿泊を予約していた旅館の跡取り息子だった。家業見習いをしながら奈良の魅力を発信している貴一は、あずさに奈良の見どころを紹介し、案内を買って出てくれた。

   ・あずさの陶器店運営は成功するのか。貴一は奈良でどんなことを学んでいくのか。それぞれの仕事や課題に真剣に取り組みながらも、二人は機会を見つけて奈良を巡った。

   ・桜の吉野、国宝・鑑真和上坐像を拝観する唐招提寺の開山忌、奈良公園の夜に灯りが揺らめく燈花会、仏像が燦然と輝く観月讃仏会、東大寺講堂跡の銀杏の黄葉・・・。

●「萬世同薫」は奈良の良さをさらに深く紹介しています

   ・(改題・新装版)『奈良に誓う』の表紙は、緑滴る樹々と輝く木漏れ日の画像です。何故この画像なのか、「萬世同薫」の「第三章 雫」にその答えがあります。

   ・貴一があずさと出会う前、奈良でどんなことを学んでいたかを書きました。それは奈良の良さを深く紹介することになると思ったためです。

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鏡 清澄 著『奈良に誓う』

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2026年6月30日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第32回:現代では、苦しみから脱却するためにはどうすべきか?(2)

●「皆で幸せになろう」という考えの大切さ

   ・仏教でよく聞くものとして、長い箸で食事をする話があります。箸が長いため、食べ物を箸で掴んで自分の口に入れようとしても、うまく入れられず、結局何も食べることが出来なくて、飢えた人間ばかりがいる世界が一方にあり、他方には、二人がお互いの口に長い箸で掴んだ食べ物を入れて食べさせ、食事に満足する世界がある、という話です。

   ・自分だけが食べようと思っては食べられず、お互いに助け合って食べようとすれば食べられます。危機や困難も互いに協力すれば乗り越えられる度合いが高まるということでしょう。

   ・「共生」(きょうせい)という言葉があります。仏教界ではこれを、しばしば「ともいき」と読み、皆で一緒に生きて行こうと説いています。

   ・また、「共生」(ともいき)という考えは「多様性」の尊重に結びつくものだと思います。世の中にあるもの、それらは何らかの存在理由があって、相互に関係し合っているのかもしれません。多くのものと棲み分け、共存していくことを考えて行く必要がありそうです。

   ・話がさらに発展しますが、「共生」は日本の古い読み方では「ともうみ」だったと、言われています。「ともいき」は「ともうみ」でもあるのです。共に生き、共に生み出していく・・・。共に生み出していくことで、共に生きていく・・・。これは人間のあり方の根幹を述べているように思います。一緒に生き、一緒に新しいものを生み出していく、転化していく、と考えられるからです。

   ・当シリーズの「第25回:キーワードは変化?」で書いたように、釈迦は「五蘊」の隠喩で人間を燃えるもの、炎と捉えていたと言えます。炎の譬えの延長線上で考えますと、炎は隣のもの同士が互いに燃えて熱を供給し合うことで火勢を増します。共にエネルギーを燃やし、転化していくことで、自分たちの役割を最大限に果たしていっているように私には思えるのです。

●「幸せになる!」という強い意志力が必要

   ・「この世で幸せになることを望むのは、低俗な者のすることである」と言う人がいますが、私はこの意見に反対です。人間誰もが幸せになることを望んでいます。釈迦も古い経典『スッタニパータ』で、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」と言っています。

   ・幸せを望むことは悪いことでないと思っても、「自分は幸せになれない」と考える人が世の中にはいます。これまで不幸せであり過ぎた人に、こういうパターンの人が多いように感じられます。自分で自分を不幸から脱出できなくしてしまうことは避けるべきだと、私は思います。

   ・「笑う門に福来る」、「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せになるのだ」という言葉がありますが、これは幸福と人間意志の関係を的確に捉えていると言えるでしょう。幸せになるためには健康問題、経済的問題、自然災害、人間関係などの課題解決が必要ですが、その大本、根底的なものとして「幸せになる!」という強い意志力が必要と思います。「幸せになる!」という意志が宇宙に届き、宇宙の「幸せにしよう!」という思いと合致して、幸せになっていくのだと考えます。

   ・大きな、おおきな、オオキナ宇宙に存在する地球という星、その星に生きている人間です。宇宙のエネルギーが変化発展していく中で、人間も生成化育・発展していきます。宇宙の根本原理に合致して発展していく人は、必ずや幸福感に包まれるように思えてならないのです。

●今後は仏教の基本知識の学習に戻る

   ・これまで、釈迦の「自灯明、法灯明」という言葉に甘えて、勝手な思い付きや底の浅い考えを臆面もなく書いてきました。人間、いつどこで何があるか分からないから、至らないなりに自分の考えを整理しておこうとの気持ちからでした。

   ・今後は仏教の基本知識の学習に戻ります。基礎知識を増やしながら、歳を取るとともに経験するだろうことを踏まえて、もう少し深く考え、もっと良い見解を持てるようになりたいと思っています。

    ・そのため、この「仏教の一端を学び、考える」シリーズは今回でひとまず終了といたします。

 

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2026年6月28日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第31回:現代では、苦しみから脱却するためにはどうすべきか?(1)

●仏教に捉われ過ぎない

  ・仏教には素晴らしい点が多々ありますが、特に素晴らしい点として私が3つ挙げるとすれば、縁起の考え方、人間主義、そして実践行動の尊重です。縁起の考え方とは、直接的な原因と間接的に影響を与えるものがあって結果をもたらすという因縁果の考えです。人間主義とは、キリスト教のような絶対神が善悪を判定するのではなく、それぞれの人間がどう感じるかというところに物事の判断基準があるということです。実践行動の尊重は、教義を知識として知っていることが大切なのではなく、教義を実践してこそ価値があるということです。

  ・縁起の考え方と人間主義は、科学が発展し人間が尊重される現代においても矛盾なく受け入れられるものです。実践行動はいつでもどこでも大切でしょう。そして、仏教は人間により良い生き方を奨励し、「人間が困ったときに、救済してほしい」という願望を受け止めてくれるというものですから、しっかりした宗教だと言えるでしょう。

  ・しかしそうだからと言って、仏教が問題と捉え、我々に説いていることが現代の私達にすべて正しいかというと、それは違うと思います。仏教は古代インドという現代の日本とは時代も場所も異なるところで興った宗教ですから、相通じない点があるはずです。その意味で、仏教に捉われ過ぎず、現代に生きる人間が心安らかになり、幸せだと思えるようになるにはどうすれば良いかを考えてみます。

●仏教で問題があると思う点

   ・仏教でここが問題だと私が思う主な点を挙げると次の通りです。
     ①考え方のベースが「一切皆苦」であること。
     ②現代科学の発展を踏まえて、教えの内容や逸話を手直ししていないこと。
     ③主に心のあり方から人間の安らぎや幸せを考えていて、多面的に考えていないこと。

   ・それぞれについて現代の視点から見直しをしていく必要があると思います。

●「苦が前提」であることからの脱却

   ・仏教の基本的主張の特徴は「四法印」と言われるもので、四つの項目で成り立っています。四項目のうちの一つが「一切皆苦」です。「この世の中は苦が満ち溢れている」、「たまに幸せそうなときが有っても、すぐに苦が来て我々を覆ってしまうから、結局この世は苦の世界なのだ」と法話などで言われています。

   ・釈迦が出家するきっかけになったのが、生老病死に出会う「四門出遊」であったというエピソードや、仏教が古代インドという貧しく差別のきつかった所で興ったことを思えば、「一切皆苦」という考えが仏教の特徴となったことも分かるような気がします。

   ・しかし、私は宗教として「苦が前提」なのは受け入れ難いのです。人々の心を安らかにさせ、幸せにさせようというのが宗教の本質なら、苦を前提にせず、「幸せになる」ということを教えの前提もしくは目標にすべきだと思います。

   ・仏教も苦しみから脱却するために種々の精進を説いてはいます。しかし、解脱だ、涅槃だ、と精神的な安らぎを述べるのみで、現実生活の不都合の解決にはあまり触れていないです。また逆に阿弥陀経などでは、「すべてを阿弥陀如来にお任せすれば良いのです」と勧めるばかりで、現実問題への対策は放置しているように感じます。

   ・現代の日本では、「幸せになるのだ。なれるのだ」と説き、具体的な手を打って幸せになっていくことが大切でしょう。そういう現実的な行動の中で心も満ち足り、安らかになれるのではないでしょうか。

●科学の発展を踏まえて考える

   ・現代は科学が発展しています。仏教などの宗教が興った古代に比べて、自然科学、社会科学、人文科学のどれをとっても格段に進歩、発展しています。古代ではまったく分からなかったことが、現代では多少なりと分かるようになってきました。

   ・そのため仏教についても、現代では納得のいかない奇跡とか逸話とかは手直しして、万人に受け入れられ易いものにしていく必要があると思います。古代のものは、古代の状況を示す資料として残しておくのは良いですが、現代で納得性のないものをそのまま放置して教えを説くのは、宗教を真に愛する人のすることではないでしょう。

●複数分野での問題解決が必要

   ・仏教では、人間を心のあり方の面から捉えています。そのため、煩悩・欲望が人間の心を狂わせ、不幸をもたらしていると教えています。煩悩・欲望が不幸の一因であるとは私も思いますが、それだけが幸・不幸の原因ではないです。身体の健康問題、経済的問題、自然災害、人間関係など複数の分野での問題が幸・不幸の原因になっているはずです。

   ・人間を幸せにしようと思ったら複数分野での問題解決が必要です。仏教は精神的な分野での手助けを担当し、他の分野の問題はその分野の専門家に解決を頼むしかないでしょう。お坊さんにとって重要なことは、他の分野の問題について「我、関せず」ではなく、ワンストップ・サービスで、どんな問題でも相談に乗り、当該問題の専門家に橋渡しをして解決の後押しをすることだと考えます。

   ・また、お坊さんが人々からの悩み相談などを受けることによって、社会での種々の問題を把握でき、問題解決の方法も考えていけるようになるはずです。その意味で、多くの寺にてお坊さんが一方的に話す法話だけでなく、人々から悩みを聴き解決方法を共に考えるという相談対応をして頂きたいと私は思っています。

                                   【(2)に続く】

 

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2026年6月 6日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録される見通しに

●「世界遺産への登録がふさわしい」と勧告

 ユネスコの諮問機関「イコモス」は、奈良県内の飛鳥時代の遺跡群、「飛鳥・藤原の宮都」について「世界遺産への登録がふさわしいとする勧告をまとめた」とのニュースが、本日(6月6日)未明に速報で入ってきました。
 良かったです!!これまで「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録に尽力してきた市町村や関係者の皆さんの喜びは、とても大きいでしょう。

●イコモスの勧告とは

 世界遺産の登録の可否を決めるユネスコの世界遺産登録委員会はイコモスの勧告をもとに審議・決定を行います。

 イコモスの勧告は、評価の高い順に「記載」、「情報照会」、「記載延期」、「不記載」の4段階で評価されますが、「飛鳥・藤原の宮都」は最も評価の高い「記載」でした。過去、日本が登録推薦をして「記載」と勧告されたものはすべて世界遺産に登録されていますから、「飛鳥・藤原の宮都」は登録に大きく前進したと言えます。

●「飛鳥・藤原の宮都」が持つストーリー性

 近年、世界遺産登録には「ストーリー性」が重視されています。ストーリー性とは、その遺産が現代の世界の人々にどういう普遍的な価値を持つのかということです。私は飛鳥の宮都で行われた聖徳太子たちの国造りが非常に素晴らしいストーリー性を持っていると思っています。

 聖徳太子たちは黎明期の我が国のかたちを造ったわけですが、単に国の外形的なものだけでなく、和や平等や周辺諸国との交流など現代に通じる理念を追求していっています。これは日本の歴史の中であまり例を見ないものです。

 世界遺産登録が、多くの人の遺跡巡りをもたらすだけでなく、古代の人々がどのような理想を掲げて国造りを行ったのか、そしてそれは現代の私たちにどのようなことを訴えているのかを考えていく機会を増やしていってくれれば良いなと思います。

  *「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録とストーリー性について、以前に当ブログで詳しく述べていますので、ご覧頂ければ嬉しいです。

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(1)

     「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推薦と本『飛鳥から・・・』(2)

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2026年5月31日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第30回:命の大切さは、どこから来たのか?

●仏教では「命の大切さ」についてどう語っているのか?

  ・私の勉強が足りないためだと思うのですが、仏教で「命の大切さ」をしっかりと納得いくように説明しているものに出会ったことがありません。

  ・浄土真宗の寺のWEBサイトなどでは「生かされている命に感謝して生きていきましょう」と書いてあります。しかし、「生かされている命」という感じ方が、私には素直に出来ないのです。お坊さんがしばしば話す「もっともらしい有難い話」、「説教っぽい説教」に聞こえてしまうのです。

  ・また、仏教の解説本で読んだのか、寺で聞いた法話だったのか記憶が定かではないですが、こんな話がありました。「自分から父母、祖父母、曽祖父母、高祖父母と世代を何代も遡って行けば、自分が数限りない多くの人の繋がりの結果、誕生してきたことが分かります。その中の誰一人が欠けても、自分は生まれてこなかった貴重な存在なのです。ですから、自分の命を大切にしてください」。この話は私にはピンときません。誰か、例えば祖父母の一人が違う人になっていれば、自分と違う他の人が孫として生まれているだけじゃないかと思うからです。

●命はなぜ大切なのか?

   ・命はなぜ大切なのかを考えてみました。思いついたことを列挙すると次の通りです。

     ①命は一度失ったら、二度と取り戻せないから(死んだら、生き返れないから)。

     ②大切な人が死んだら、遺族が大きな喪失感に捕らわれ経済的にも苦労を強いられることが多いから。特に人間の場合、いろいろな知恵を次の世代へ伝えていくことが出来なくなることが痛い。

     ③命は生存本能そのものであり、とやかく理屈を述べる必要がない大切なものだから。

     ④これはうがった見方だが、もしかすると「命が大切」と言われることには、こういう要素もあるかもしれない。即ち、支配者が被支配者を搾取し続けるために、死んではならないという意味で「命は大切」と思い込ませている。

     ⑤人間をはじめとして、あらゆる命や物は地球や宇宙の一部であり、宇宙が生きて発展していっている場合、人間も生きて発展していくはず。つまり宇宙の成り立ちの延長線上で、命は大切ということになる。

●命と時間

   ・仏教の『長老偈経』(日本語訳書名『テーラガーター』の第451偈文に「一日の光陰は短しといえども これを空しゅうすることなかれ。一夜を捨つるは これ汝の生命を減ずるなり」というものがあります。

   ・これは「時の経つのは早いから、人としての正しい生き方を早く知るように精進しなさい」という教えで、「命の大切さ」を直接説明しているものではないと思います。しかし、私はこの偈文が命の本質の一面を述べているように感じるのです。「命は時間である」と言っているように受け取れるのです。

   ・宇宙は無限の広がりと膨大な数の星があり、それが時間の流れの中で流動・変化していっているのではないでしょうか。人間はその中で非常に極々小さな存在として生まれ、大変に短い時間を生きて、宇宙の一部を成しているように私には思われます。真理というのでしょうか、宇宙を貫く法則のようなものが「命の大切さ」に結びついているのではないでしょうか。

●自灯明、法灯明

   ・上記は仏教の門外漢であり、物事を考えるには浅薄な知識しか持たない私の勝手な発想・解釈です。そのため、仏教の専門家や深い哲学的思索をしている方から「何をくだらないことを言っているのだ」と言われそうです。ただ、どんなに至らなくても、自ら考え、自ら真理(ダルマ、法)と思うものに基づいて自分の思考をまとめることはして良いことだと思います。これこそが釈迦が遺言した「自灯明、法灯明」を実践することのはずですから。そして、現在の不十分な考えを踏み台にして、今後も種々の学びと経験をすることによって不十分な考えの充実化を図っていくようにする積りです。

 

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2026年5月22日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第29回:老人のオーラが曖昧なのは何故か?

●老人の曖昧さについて

  ・人間の幼児期のイキイキさ、青年期のはつらつさ、壮年期の真剣さに比べて、老年期は曖昧さが感じられると、私は第27回の記事で述べました。 

  ・老人の曖昧さは、思いのほか延びた平均寿命のために感じることが大きくなったように、私には思われます。

  ・医療の進歩などによって人間の平均寿命が延びましたが、もともと、生きて働いて暮らして来るうちに身体は老化し、あちこちに不具合が出て来、やがて死んでいくものでした。そういうものだと理解すれば良いのだと思います。

  ・釈迦は煩悩が悪さをして、人生に苦をもたらし、病死に至ると考えました。そして自己に対する執著(しゅうぢゃく)心などの煩悩をなくすことで、古代インドで広まっていた輪廻の苦しみから解放されようと説きました。これは古代インドという時代と地域で考えられた苦からの救済策でした。しかも釈迦による「苦の原因は心のあり方にある」ということに問題を絞っての解決策でした。

  ・現代においての老人の生き方は別な回答がいると思います。ただ一律にこれだと言うのは危険な気がします。曖昧さは多様性からきているとも言えるからです。 周囲の老人を見てみますと、下記のような種類の生き方をしている老人がいます。

●老人の多様な類型

  ①現役時代に働き詰めだったので、老後は旅行や好きなことをして楽しく暮そうとする人。

  ②苦しい家計をカバーするために極力働こうとする人。

  ③家計面、健康面、生きがい面など多面的に考えて、仕事をある程度やり、趣味の活動や社会貢献などを適切な割合で行おうとする人。

  ④孫の世話に時間の大半を投入する人。

  ⑤家族の介護に忙しい人。

  ⑥病気になって入院したり自宅で療養したりしている人。

  ⑦思索の時間ができて、自分の人生や生と死などについて思いを巡らす人。なお、この種類の人には2つのタイプがあるように思います。人生や命に特別な意味など無いと考える人と、何か価値ある人生を送りたいと考える人の2つです。

  ⑧自分の人生や生と死などについて全く考えない人。

  ⑨いろいろな面(現役時代にやってきた仕事の延長線上の面、第二の人生で取り組もうとする自己実現や社会貢献の面など)でまだまだ頑張ろうとする人。

  ⑩老化に伴う体力・知力の低下についてやむを得ないと認識し、気持ち的に現実のこの世から去って行きつつある人。

  ・これらの類型は一つだけで存在するのではなく、一人の老人の中にいくつかのものが混在して、しかも濃淡がかなり違う形で存在するのでしょう。どの要素を多く持って日々過ごしているか、過ごしていこうとしているかは各自の選択によるものと思われます。

●釈迦の遺言

  ・釈迦は死の直前、弟子のアーナンダの質問に答えて、「自灯明、法灯明」の教えを説きました。「師(釈迦)が亡くなった後は誰を頼りにしたら良いのですか」という問いに対して釈迦は「自分自身を頼りなさい。法(真理)を頼りにしなさい」と答えたという、あの有名な話です。

  ・各人が他人に頼らずに自分自身で考え、正しい普遍的なものに基づいて判断して、老人としての生き方をしていくことが大切なのでしょう。

●「法」についての理解深掘り

  ・「法灯明」の「法」について、おさらいをしておきます。なお、以下のことは植木雅俊著『仏教、本当の教え』から、私が独断で特に重要と思った点を抜粋し、文として繋いだものです。

“「法」と漢訳された「ダルマ」は、インド哲学の重要概念であり、多くの意味を有している。
ダルマは、語源的には「支える」という意味の動詞ドゥㇷリの名詞形で、「支えるもの」という意味である。事物を事物たらしめ、人間を人間たらしめ、社会を社会たらしめるものという意味であり、「真理」「道徳」「規範」「法則」「義務」「宗教」などの意味を持っている。さらには、そうしたことについて説かれた「教え」という意味でも用いられる。また、その「法」によってそうあらしめられた「事物」という意味も持っている。“

●「自灯明、法灯明」の「法」の解釈

  ・以上のように「法」は多くの意味を持っていますが、「自灯明、法灯明」の「法」について私は「真理。正しい普遍的なもの」と解釈するのが良いと考えます。宗教学者さんの解説では分かり易く「釈迦の教え」を説明しているものがありますが、いくら自分の覚ったことが真実だと思っても、釈迦が「自分の教えを頼りにしなさい」とは言わないように思います。「教えの根本である、真理を頼りにしなさい」と言うと思うのです。

●私自身の「老人としての生き方」の望み

  ・私は、老人が体力・知力的に次第に衰えていくのは止むを得ないと思いますが、やはり周囲に役立つ人間であり続けたいです。長くなった平均寿命、周囲に迷惑を出来るだけかけずに、皆に役立つように貢献していくということで、自分も満足感が得られ、周囲の人や物も喜んで、全体として幸せになるように思うからです。

 

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2026年5月15日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第28回:「命の輝き」について、一つの着想

●「命の輝き」はどこから来ているのか

  ・仏教では、人や動物や虫など生き物すべてのことを一切衆生(いっさいしゅじょう)と言うそうですが、私はこれらに植物や鉱物なども含めて一切諸物、万物が「命の輝き」を発しているように思えるのです。桜だけでなく種々の花がきれいに咲いています。樹々の根は生命力を漲らせています。石英は石ですが、キラキラと光っているのを見ると命が輝いているように見えるのです。

  ・活き活きした人間はじめ、これら万物の「命の輝き」はどこから来ているのかと考えをめぐらしていたら、ハッと下記のことを思い付いたのです。愚かな着想かも知れません。できれば笑わないでください。

「命とは宇宙のエネルギーが燃えているのではないか、変化しているのではないか。太陽や星が燃えているように、地球の万物も宇宙の中の物として燃えているのではないか。」

「そうならば、宇宙の摂理の下で地球が誕生し、その地球に人間などが生まれ、育ち、輝き、衰え、代替わりしていくのが納得できる。」

「華厳宗で言っている『全は個から成り立ち、個には全が宿っている』という姿が、ここにあるではないか」

●万物が一番輝いて見えるとき

  ・万物が一番輝いて見えるときというのは、そのものが本領を発揮しているとき、期待されている役割を見事に果たしているとき、ではないでしょうか。

  ・人間が就職する場合、最も力を発揮するのは、その仕事をやりたいか(WANT)、その仕事をやる能力があるか(CAN)、その仕事をやることを期待されているか(MUST)の3つの輪の重なるところであると言われていますが、種々の業種で活躍している人たちを見ると、確かにそうだなと頷けます。

  ・他のときで万物、特に人間が輝いて見えるのは、成長期の幼子であり、恋愛中の若い人です。これらは種の維持・保存に関係しているのでしょう。そして多種多様な種が共存していることで、この世の中は成立・存続しているように思われます。

  ・多種多様な種が共存し、種の中の個体一つ一つが本領を発揮して周囲に良い影響を与えていくと、全体が輝くのではないでしょうか。火が小さいもの一つではなかなか燃えていきませんが、燃えている火が二つになり三つになりして、それらが合体すると火は激しく燃え上がるようになります。

  ・燃え上がるためには自分だけが燃えていてもだめで、周囲の火も燃えていないといけません。自分が大きく燃え輝くためには、他のものも燃えるようにしなければならないのです。

  ・人間や人間以外の生き物、そして植物や鉱物も、宇宙の中の物であり、宇宙を構成している要素(物質や元素)で成り立っている物であるならば、時間の長短はあれ、それらは要素の組み合わせが変化し、形を変えて存在していると言えます。要素が気体で燃えるものであったら熱量を持ち、エネルギーとして周囲に影響を与えるでしょう。

  ・太陽が激しく燃えているように、地球では万物が活動し本領を発揮して形を変え、静かにエネルギーが燃えて生滅・変化して行っているように、私には思えるのです。

●地球の表面は冷えている

  ・ここで頭の片隅からマッタがかかりました。地球の表面は冷えていると。地球の内部は高温高圧で燃えていると言って良いと思いますが、表面は岩石の陸地部分と海の海洋部分で覆われています。そして、その表面に人間を始め生物などがいるのでした。

  ・それを考えると、人間も燃えていると単純に言うのは不適切です。地球が冷えていく過程で生命の誕生があり、長い年数をかけて生物が進化してきたのでしょう。

  ・以前読んだ本で、『対談:東洋の心』というものがありました。あの膨大な『大漢和辞典』を編集した漢字研究者の諸橋轍次氏と、日本におけるインド哲学の第一人者と言われる中村元氏の対談本です。その本で諸橋轍次氏が述べている文章が蘇ってきました。

 「天地の化育に参する・・・・・・これはもう中国の古くからの思想で、そこに人間と天地との一体化がある」

  ・草木がおのずから茂っていくのに同化し、あずかる、というという気持ちが東アジアの人間にはあったということです。これは、「表面の冷えた地球上でも、地球内部のエネルギーが表面に現れ、命として育まれている」と言えそう気がします。

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2026年5月 9日 (土)

ほっと一息:唐招提寺の団扇撒き

●ほっと一息
  ・難しい話が続きましたので、今回はほっと一息つきましょう。5月19日は奈良・唐招提寺で「団扇撒き」の年中行事があります。当日に撒かれる団扇および過去に撒かれた団扇に書いてある言葉や絵がとても胸を打ちますので、以下にご紹介いたします。なお、この内容は拙著『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』より一部抜粋したものです。

●団扇の言葉と絵
  “団扇に書かれている言葉や絵の中で、私の印象に強く残っている扇面は歌手の三波春夫氏が書いたものです。特に「人は苦難を超えて真実に出逢う」と「友好の歌声は海を渡り空を翔ぶ」と書かれた団扇が好きです。鑑真和上の日本への渡航と貢献、そして三波春夫氏の人生経験が重なって書かれた言葉のように思うからです。三波春夫氏が戦争でシベリアに抑留されていたということを知り、この二つの言葉はズシリと心に響きました。

 それから、千手観音の御手の扇面が良かったです。手首をちょっとひねって瓶を持っている手だけの絵で、「香水无量(こうずいむりょう)」と添え書きされています。香水とは薬であり、飲んだら死なない霊水、すなわち救いの源である「仏様の教え」を意味しているのでしょう。そして无量とは量がはかり知れないほど多いということですから、仏様の功徳は限りなく大きいということなのだと思います。一本の手、それも手首から先だけで、仏様の無限の慈愛を感じさせられました。

 その他、多くの印象深い言葉がありました。主なものを書いておきます。
女優の南田洋子氏書「人生 生きちょるだけで 丸儲け」
作家の杉本苑子氏書「力耕 われを 欺かず  陶 渕明」
女優の司葉子氏書「微笑に 勝る 美しい化粧 なし」
考古学者の森浩一氏書「牛歩万里」
詩人の大岡信氏書「一羽でも 宇宙を満たす 鳥の声」

 絵で印象に残った主なものは次の通りです。
歴史学者の直木孝次郎氏筆「唐招提寺金堂」
画家の山中のり子氏筆「千手観音」“

●団扇撒きの詳細
  ・団扇撒きの情景については、当ブログの『唐招提寺の団扇撒き・・・【萬世同薫】の「第一章 千手より』をご覧ください。なお現在の団扇撒きは、参加者の安全のために参加者数が制限されています。

 

 

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2026年5月 1日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第27回:自分として世の中をどう捉え、どう生きるか?

●世の中をどう捉えるか

  ・自分として世の中をどう捉えるべきか、これまでに学んできた仏教その他のことから要点を書き出してみます。

  ・世の中は諸行無常、すなわち万物変化でしょう。お互いが直接的な原因、間接的に影響を及ぼす縁、それらがもたらす結果となって、幾重にも変化が繰り返されていくのだと思います。

  ・キリスト教のように絶対的な神がいて世の中を差配しているのではなく、自然や人間などが相互に影響・変化し合って世の中を形作っていると考える方が、私には納得がいくのです。

  ・輪廻はなくて循環生成はあると思います。仏教で言われる六道輪廻(生きとし生けるものは前世の行いの結果、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天に次々と生まれ変わる)は、古代インドで広く信じられていた輪廻の思想を仏教に取り込んだものであり、現代では信じられることではないでしょう。一方、自然が季節とともに巡ってきたり、食物などが採取できたりすることは循環生成があるためだと私は強く思います。

  ・「世の中は善因善果、悪因悪果」という教えは、例外はありますが概ねそういう結果になるように私は思います。例外があることで否定するのではなく、確率として大きいものを元に判断すべきでしょう。また、悪いように見える例外にも存在意義があるのかもしれないと、進化論の関係で思います。

  ・煩悩を滅すれば心安らかになり不幸から救われるという仏教の教えは、人間の心の持ち方が原因の不幸には当てはまりますが、その他の場合には当てはまらないと言えます。不幸の原因は多々ありますので、それぞれに適切な対策が必要でしょう。

  ・時代と地域を越えて推奨される行いは抜苦与楽でしょう。苦しみや嫌がることを取り除き、楽しいことや喜ぶことを与える行為は、孔子もイエス・キリストも説いています。仏教で抜苦与楽を意味する言葉が「慈悲」であり、「諸悪莫作・衆善奉行」と考えます。

  ・人間が互いに影響し合って生きていく過程で、自分を大切に思うようになり、自分を大切に思う気持ちが他人を大切に思う気持ちをもたらし、相互に大切にし合おうという考え方が広まってくるのだと考えられます。仏教でいう慈悲であり、キリスト教でいう隣人愛でしょうか。ちなみに、歴史学者で文明史に詳しい伊東俊太郎氏の著書『人類史の精神革命』によれば、ソクラテスも孔子もブッダもイエスも人間社会がある程度できてきた、ほぼ同時期にそれぞれが人間愛の必要性を唱えている、とのことでした。

●どう生きるか?

  ・多くの人の姿を見ていると、年代別でその輝きとか、発している雰囲気が異なることとかに気付きます。子供たち(お母さんと手をつないで歩いている幼児や下校途中の小学生など)は、とても明るく、楽しくて仕方ないという感じです。結婚間近な女性は美しく、デートしている恋人たちは幸せオーラがいっぱいです。壮年期のビジネスマンや主婦からは仕事や家庭を築いていっている真剣さが溢れています。そしてお年寄りからは私は「多様性」や「空白」のようなものを感じるのです。

  ・表現を変えれば、幼児期のイキイキさ、青年期のはつらつさ、壮年期の真剣さ、老年期の曖昧さ、と言えるでしょう。老年期だけが明確な雰囲気が無く、栄養の改善や医療の発展でもたらされた高齢化社会に老人が戸惑っているような感じがします。

  ・古代インドには「四住期』という考えがありました。人生を学生期・家住期・林住期・遊行期の4つの期間に分け、それぞれ、「種々のことを学ぶ時期」、「働き、家族を養い、社会貢献をする時期」、「家を出て林に庵を結んで自由に思索する時期」、「理想の死に向かう時期」と捉え、生きて行ったとのことです。作家の五木寛之さんや宗教学者の山折哲雄さんが四住期の考えを本で紹介して日本で知られるようになりました。

  ・私は五木寛之さんや山折哲雄さんの著書は好きですが、四住期の考え方は好きでありません。林住期・遊行期について高等遊民の道楽のような気がするのです。家を盛り上げ、社会貢献したら、その後は自由人になって人生を思索して暮らすなどということは間違っているように直感したのです。社会貢献をするなど、存在価値があるから人や物は存在するのだと思うからです。調べてみましたら、四住期の考え方は古代インドのカースト制の上位身分の人にだけ許されたものでした。

   ・私が人生を考えるのは、桜が咲いているのを見たり、ウグイスが美しい声で鳴いているのを聞いたりした時です。有名無名の人たちが活躍したり社会に貢献したりしたニュースに接した時です。すべてのものが互いにその本分、得意とするもので世の中に貢献し合っていることが命のように思えます。

   ・どう生きるべきかという私自身が発した問いへの、現時点での私の答えは、「自分が貢献できるもので家族や世の中に貢献することではないか?」ということです。そうしているときに人は最も命の火を燃やしているように思います。桜が満開で非常に美しいように。

   ・「老年の意義、老人の生き方」については今後もっと学んで、人生経験を積んで、改めて考えてみるようにします。

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