2026年5月 9日 (土)

ほっと一息:唐招提寺の団扇撒き

●ほっと一息
  ・難しい話が続きましたので、今回はほっと一息つきましょう。5月19日は奈良・唐招提寺で「団扇撒き」の年中行事があります。当日に撒かれる団扇および過去に撒かれた団扇に書いてある言葉や絵がとても胸を打ちますので、以下にご紹介いたします。なお、この内容は拙著『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』より一部抜粋したものです。

●団扇の言葉と絵
  “団扇に書かれている言葉や絵の中で、私の印象に強く残っている扇面は歌手の三波春夫氏が書いたものです。特に「人は苦難を超えて真実に出逢う」と「友好の歌声は海を渡り空を翔ぶ」と書かれた団扇が好きです。鑑真和上の日本への渡航と貢献、そして三波春夫氏の人生経験が重なって書かれた言葉のように思うからです。三波春夫氏が戦争でシベリアに抑留されていたということを知り、この二つの言葉はズシリと心に響きました。

 それから、千手観音の御手の扇面が良かったです。手首をちょっとひねって瓶を持っている手だけの絵で、「香水无量(こうずいむりょう)」と添え書きされています。香水とは薬であり、飲んだら死なない霊水、すなわち救いの源である「仏様の教え」を意味しているのでしょう。そして无量とは量がはかり知れないほど多いということですから、仏様の功徳は限りなく大きいということなのだと思います。一本の手、それも手首から先だけで、仏様の無限の慈愛を感じさせられました。

 その他、多くの印象深い言葉がありました。主なものを書いておきます。
女優の南田洋子氏書「人生 生きちょるだけで 丸儲け」
作家の杉本苑子氏書「力耕 われを 欺かず  陶 渕明」
女優の司葉子氏書「微笑に 勝る 美しい化粧 なし」
考古学者の森浩一氏書「牛歩万里」
詩人の大岡信氏書「一羽でも 宇宙を満たす 鳥の声」

 絵で印象に残った主なものは次の通りです。
歴史学者の直木孝次郎氏筆「唐招提寺金堂」
画家の山中のり子氏筆「千手観音」“

●団扇撒きの詳細
  ・団扇撒きの情景については、当ブログの『唐招提寺の団扇撒き・・・【萬世同薫】の「第一章 千手より』をご覧ください。なお現在の団扇撒きは、参加者の安全のために参加者数が制限されています。

 

 

|

2026年5月 1日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第27回:自分として世の中をどう捉え、どう生きるか?

●世の中をどう捉えるか

  ・自分として世の中をどう捉えるべきか、これまでに学んできた仏教その他のことから要点を書き出してみます。

  ・世の中は諸行無常、すなわち万物変化でしょう。お互いが直接的な原因、間接的に影響を及ぼす縁、それらがもたらす結果となって、幾重にも変化が繰り返されていくのだと思います。

  ・キリスト教のように絶対的な神がいて世の中を差配しているのではなく、自然や人間などが相互に影響・変化し合って世の中を形作っていると考える方が、私には納得がいくのです。

  ・輪廻はなくて循環生成はあると思います。仏教で言われる六道輪廻(生きとし生けるものは前世の行いの結果、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天に次々と生まれ変わる)は、古代インドで広く信じられていた輪廻の思想を仏教に取り込んだものであり、現代では信じられることではないでしょう。一方、自然が季節とともに巡ってきたり、食物などが採取できたりすることは循環生成があるためだと私は強く思います。

  ・「世の中は善因善果、悪因悪果」という教えは、例外はありますが概ねそういう結果になるように私は思います。例外があることで否定するのではなく、確率として大きいものを元に判断すべきでしょう。また、悪いように見える例外にも存在意義があるのかもしれないと、進化論の関係で思います。

  ・煩悩を滅すれば心安らかになり不幸から救われるという仏教の教えは、人間の心の持ち方が原因の不幸には当てはまりますが、その他の場合には当てはまらないと言えます。不幸の原因は多々ありますので、それぞれに適切な対策が必要でしょう。

  ・時代と地域を越えて推奨される行いは抜苦与楽でしょう。苦しみや嫌がることを取り除き、楽しいことや喜ぶことを与える行為は、孔子もイエス・キリストも説いています。仏教で抜苦与楽を意味する言葉が「慈悲」であり、「諸悪莫作・衆善奉行」と考えます。

  ・人間が互いに影響し合って生きていく過程で、自分を大切に思うようになり、自分を大切に思う気持ちが他人を大切に思う気持ちをもたらし、相互に大切にし合おうという考え方が広まってくるのだと考えられます。仏教でいう慈悲であり、キリスト教でいう隣人愛でしょうか。ちなみに、歴史学者で文明史に詳しい伊東俊太郎氏の著書『人類史の精神革命』によれば、ソクラテスも孔子もブッダもイエスも人間社会がある程度できてきた、ほぼ同時期にそれぞれが人間愛の必要性を唱えている、とのことでした。

●どう生きるか?

  ・多くの人の姿を見ていると、年代別でその輝きとか、発している雰囲気が異なることとかに気付きます。子供たち(お母さんと手をつないで歩いている幼児や下校途中の小学生など)は、とても明るく、楽しくて仕方ないという感じです。結婚間近な女性は美しく、デートしている恋人たちは幸せオーラがいっぱいです。壮年期のビジネスマンや主婦からは仕事や家庭を築いていっている真剣さが溢れています。そしてお年寄りからは私は「多様性」や「空白」のようなものを感じるのです。

  ・表現を変えれば、幼児期のイキイキさ、青年期のはつらつさ、壮年期の真剣さ、老年期の曖昧さ、と言えるでしょう。老年期だけが明確な雰囲気が無く、栄養の改善や医療の発展でもたらされた高齢化社会に老人が戸惑っているような感じがします。

  ・古代インドには「四住期』という考えがありました。人生を学生期・家住期・林住期・遊行期の4つの期間に分け、それぞれ、「種々のことを学ぶ時期」、「働き、家族を養い、社会貢献をする時期」、「家を出て林に庵を結んで自由に思索する時期」、「理想の死に向かう時期」と捉え、生きて行ったとのことです。作家の五木寛之さんや宗教学者の山折哲雄さんが四住期の考えを本で紹介して日本で知られるようになりました。

  ・私は五木寛之さんや山折哲雄さんの著書は好きですが、四住期の考え方は好きでありません。林住期・遊行期について高等遊民の道楽のような気がするのです。家を盛り上げ、社会貢献したら、その後は自由人になって人生を思索して暮らすなどということは間違っているように直感したのです。社会貢献をするなど、存在価値があるから人や物は存在するのだと思うからです。調べてみましたら、四住期の考え方は古代インドのカースト制の上位身分の人にだけ許されたものでした。

   ・私が人生を考えるのは、桜が咲いているのを見たり、ウグイスが美しい声で鳴いているのを聞いたりした時です。有名無名の人たちが活躍したり社会に貢献したりしたニュースに接した時です。すべてのものが互いにその本分、得意とするもので世の中に貢献し合っていることが命のように思えます。

   ・どう生きるべきかという私自身が発した問いへの、現時点での私の答えは、「自分が貢献できるもので家族や世の中に貢献することではないか?」ということです。そうしているときに人は最も命の火を燃やしているように思います。桜が満開で非常に美しいように。

   ・「老年の意義、老人の生き方」については今後もっと学んで、人生経験を積んで、改めて考えてみるようにします。

|

2026年4月28日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第26回:老いをどう考えるか?

●本題に入る前に

  ・今回の本題に入る前に、当シリーズ第25回の記事の後半で述べた「命の輝きになぜ感動するのか」について少し補足をさせてください。

  ・第25回の記事で、「とてつもなく長い宇宙の時間の中で、極端に短い時間を生きている人間や生物だからこそ、生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいというDNAが組み込まれているのではないか」、「一瞬一瞬が価値あるものでなければ、長い宇宙の時間も価値の低いものになってしまうから」と私は述べました。

  ・それは、「奈良の大仏」で有名な東大寺(華厳宗)の所依の経典である華厳経に次のようなことが書いてあることを、私が知っていたためだと思われます。

  ・「ひとつひとつの小さな無数の世界が大きな世界を生みだし、一滴の雫が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきにも永遠の時間が凝縮されている」(小学館刊『週刊 古寺をゆく 2 東大寺』より)。

  ・また、東大寺本坊には小泉淳作画伯の描かれた桜の襖絵があって、これも華厳経の「全体と個」の関係を謳っていると言われています。桜の無数の花びらが一つひとつ丁寧に描かれ、大きな枝垂れ桜となっています。「全体は個から成り立ち、個は全体と同じものを表している」とのことです。なお、東大寺本坊の襖絵は概ね4月の開花時期にのみ一般公開されています。

●老いをどう考えるか?

  ・本題に入ります。私は以前から「老い」は「老練、練れる」の意味にとって、老いを前向きに評価するようにしたいと思っています。中国の「老酒」は「蒸留酒の練れた良いもののこと」と聞いた記憶があります。

  ・しかし、そうは思っていても、知り合いが年を取ってきて老人となり病気で入院したりしたことを聞くと、心穏やかでは居られなくなってきました。

  ・涅槃経によると、釈迦は最晩年に自分の老いと病気の状態について、「革ひもの助けを借りてようやく動いている古い車」のようだと弟子のアーナンダに言っています。聖徳太子も日蓮も亡くなる前に病気に苦しんでいたと本に書いてあります。

  ・多くの人が老人になり病気になって死んでいくというなら、「老いと病気」についてもっと考えなければいけないのではないかと、私も思うようになりました。

●老いと病気

  ・普通に考えれば、老いと病気については使い痛み、別な言葉で言えば勤続疲労でしょう。長期使用や過度の負荷によって身体が弱まり傷付いてくるのだと思われます。

  ・別な考え方としては、死が自然の理(ことわり)なように、老いと病気も自然の理と受け止めることも出来ます。宇宙の摂理なら、それは受け入れざるを得ないと言えます。

  ・さらに違った角度から考えてみれば、こんなことも言えそうです。すなわち、死が種の保存・維持・発展のためにあるとしたら、「老いと病気」も何らかの積極的な存在理由があるのではないか、と思い至ります。

  ・その思いに対する一つの答えとして最近よく見かけるのは、「ピンピンコロリが良いとは限らない。老いて病気になった姿を子や孫たちに見せることによって、親族が死を受け入れる心の準備をしたり、親族と本人の双方が助け・助けられの人間関係を改めて感じ感謝の念を持ったりするようになるのだ」というものです。

  ・いろいろ考え方はありそうですが、やはり、身体を長期に渡って使ったために身体のあちこちが痛んできて、老年になるとそれが病気として出て来る、と考えるのが素直で良いように思えてきます。老年になり、病気として出てくるものは仕方がない。死へ至る道筋なのだと受け入れるようにすれば良いのだと感じます。

  ・そうなると、「老いと病気」についてあれこれ考えることをいつまでもしていないで、どう生きるかを考えて、これと思うことを実行した方が良いと言えそうです。

|

2026年4月22日 (水)

新刊書『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』のご紹介

昨年、同い年の友人が亡くなりました。
彼は何か話したい本音があったはずなのに、話さないで逝ってしまいました。
聴いてあげたかった。
私も話したかった。
それなのに、それは叶いませんでした。

今回、個人の写真アルバムならぬ『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』をまとめてみようと思ったのは、「人に私のことを知ってほしい、互いに知り合う仲になりたい」という気持ちが強くあったためです。
人は互いに分かり合い、深く共感し合ってこそ、一緒に生きている喜びを感じられるように思うのです。
分かり合えないまま、一緒に生きている喜びを感じられないまま、逝ってしまうのは避けたいです。

●本のタイトルと内容

新刊書のタイトルは『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』です。私がこれまでに各所で発表してきた小品、未発表の小品、それらをまとめてみました。具体的には、詩、短歌、俳句、童話、旅の思い出(旅行記)、良い本を広めたい(読書感想)などです。

●本の出版関連情報

この本の出版関連情報は次の通りです。
題 名:『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』
著 者:鏡 清澄
出版社:Independently published
販売元:アマゾンジャパン合同会社
     紙書籍(ペーパーバック)をオンライン書店のAMAZONで販売中。
価 格:1,430円(税込)。
紙書籍の頁数:238ページ(四六判)
紙書籍のISBN:979-8252551166
紙書籍のAMAZONのURL: https://www.amazon.co.jp/dp/B0GXJJDVY3/

260421
本『文章のアルバム 鏡清澄の小品集』の表紙

|

2026年4月12日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第25回:キーワードは変化?

●仏教の「五蘊」の隠喩

 ・本シリーズの「第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)」 で述べたように、釈迦の人間の捉え方は、人間は五蘊(ごうん。色、受、想、行、識)で出来ているというものでした。

 ・これは、人間は「実体として固定的にあるもの」(哲学での専門用語は「実体の存在論」)ではなく、感じたものが次々と蓄積され影響し合って気づきが出来、行動していくものだという捉え方です。「変化体としての存在」(哲学での専門用語は「プロセスの存在論」)と言えるでしょう。

 ・実は、五蘊には隠喩(隠されたたとえ)があります。蘊(うん)は原語のサンスクリット語ではスカンダーであり、意味は「集まり、集合、薪(まき)の束」です。そのため、五蘊とは「5つのものの集まり」と言えますが、ここで注目したいのは「薪(まき)の束」の意味があることです。釈迦は五蘊に「燃えるもの」というイメージを含ませているのだと言われています。

 ・人間が「変化体としての存在」であり、「燃えるもの」であるなら、それは私が思い付きと述べた「宇宙は循環生成していくが、それは宇宙の構成要素(もしかしたらそれはエネルギー?)が燃焼し変化して行っているのではないか」に繋がるように思います。人間も(万物も)燃焼し変化して行っていると考えられます。

 ・そして、現代の宇宙科学でも「変化体としての存在」が言われています。宇宙はビッグバンがあって以降、何億光年もの長い間、変化し続けているとのことです。変化体としての宇宙、その宇宙の一つの星である地球に住む人間や万物も変化体であり、燃焼しているもの、なのではないでしょうか。

●諸行無常と「縁起の法」

 ・諸行無常とは本来、「あわれ」の意味ではなく「万物変化」、すべての物や事柄が変化していくとの意味です。また、「縁起の法」とは「因縁果」のことで、直接の原因、間接的に影響を与えるもの、結果の3つが相互に幾重にも結びついていることを述べています。

 ・諸行無常と「縁起の法」は深く関係していて、それぞれのものが因になり縁になり果になり、また果が因となって、無限に繰り返され、種々変化していくのです。

 ・仏教では、キリスト教のような全知全能の神がいて万物を創造する、ということは説かれていません。すべてのものごとが変化、因縁果によって出来、そして無くなっていきます。

 ・こうして考えてきますと、仏教の思想も私という人間の「生と死」も、それを理解するキーワードは「変化」と言えそうです。

●「命の輝き」になぜ感動するのか

 ・すべては変化して行く。いつかは皆、死んでいく。無に帰すと思うのに、命が輝いていることに感動するのは何故なのでしょうか。私は、とてつもなく長い宇宙の時間の中で、極端に短い時間を生きている人間や生物だからこそ、生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいというDNAが組み込まれているのではないかと思うのです。一瞬一瞬が価値あるものでなければ、長い宇宙の時間も価値の低いものになってしまうからです。

 ・何も考えない人もいるでしょう。生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいなどと思わない人もいるでしょう。

 ・しかし、多くの人は満開の桜を見て美しいと感じるでしょうし、ウグイスの鳴き声を心地よく聞くでしょう。そして種々の分野で活躍する人たちの成果に拍手をします。それぞれの得意な分野で能力を発揮し役割を果たす物たちや人たちに賛辞を送り、喜びを共有します。これは、それぞれが適切なことをしているためでしょう。役割を果たすということは利他行と同じだと私は思います。

 ・それぞれの物たちや人たちの一瞬の輝きは素晴らしいものです。そして、輝きの一瞬一瞬の繋がりが人間の命や万物の本質(エネルギーの燃焼・変化?)であることを表しているのではないでしょうか。私にはそのように思えるのです。 

|

2026年4月 5日 (日)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第24回:自分として「死と生」をどう考えるか

●仏教は奥が深くて学び切れない

 仏教は多くの経典があり、思想も奥が深いため、私のような僧侶でも宗教学者でもない一般人が、ちょっとやそっとの学びでしっかり理解できるものではありません。もっともっと広く深く学んでいかなければいけないと思っています。

 しかし昨今、同年代の親しい知人・友人が亡くなったり、病気で入院したりした話を聞くと、このまま仏教の知識を得ることだけをしていては良くないように思えてきました。まだまだ勉強不足が甚だしいですが、これまで得た仏教の考えを踏まえて、自分なりに「死や生」について考え、考えが人に笑われるほど低いレベルであっても、自分の思想を作っていかなければならないと気付きました。そうしないと時間切れになってしまうからです。

●「自灯明、法灯明」と釈迦は教えた

 この「仏教の一端を学び、考える」シリーズの第7回で「自灯明、法灯明」について少し詳しく述べていますが、釈迦が死の直前に弟子に教えた「自灯明、法灯明」に基づき、私も生きてゆくべきだろうと思います。つまり、他者に頼らず自立して、普遍的に正しいことを自らの考えとしてしっかり持って、それを拠り所として生きてゆく必要があるというものです。

●人は死んだら「土に還る」、「星になる」

  昔からよく「人は死んだら土に還る」とか、もう少しロマンチックには「人は死んだら星になる」と言われてきました。これについて私は正しいのではないかと現在思っています。

 現代科学の知識によれば、人の肉体は土葬された場合、土の中でバクテリアなどによって分解され、分子となって土と一体化していきます。そして他の生物などに吸収され、新しい生物などになっていくと考えられます。火葬の場合も実質的に同じでしょう。分子になる過程の途中で肉体を燃焼させているだけと言えます。

   また、現代の宇宙科学理論によれば、宇宙にはブラックホールがあり、そこは強い重力で周囲の物を吸収し押しつぶしてしまうとのことです。そして吸収し押しつぶした後に、それらを再び宇宙にばらまいています。このことによって生物の因子やDNAがいろいろな星に含まれるようになっているとのことです。人の肉体が分解されて出来た分子や土が他の星へ飛ばされていくのです。

 最近ではホワイトホールの存在も主張されてきています。まだ理論的に証明されていませんし実際に発見されたわけではありませんが、宇宙にはブラックホールとは性格が反対の「物を放出する」ホールがあると一部の宇宙科学者が言っています。

●釈迦の「死と生」に関する教えで、私に響いたもの

 釈迦は古代の東アジアの農耕採取社会に広まっていた「循環生成」の思想を持っていたと言えます。私も「循環生成」の考えはスンナリ受け入れられます。

 仏教説話で「死人の出ていない家は無い」という話があります。これも、誰もが死んでいっている事実を見れば100パーセント頷けます。つまり誰もが死ぬのです。

 また、仏教では「施身聞偈」の話の中で、偈文「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」が出てきます(筆者注。詳しくは当シリーズ第4回:涅槃寂静を参照ください)。この偈文の意味は、「全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則であることを知り、納得して、受け入れると、精神が解放され心が落ち着くのです」というもので、宇宙の理(ことわり)、自然の摂理というものを知り、受け入れることの大切さを教えています。これについても私は納得です。

 私という人間は地球という宇宙の中の星にいるわけですから、宇宙の摂理に統括されているでしょう。宇宙の中で人や生物、そして長期間のうちには鉱物なども変化・生滅していき、循環生成するのではないでしょうか。この宇宙の摂理を素直に受け入れたら、「そういうものなのだ」と心落ち着くような気が、私はするのです。

●宇宙の本質はエネルギーの燃焼・変化?

 ここからは私の単なる思い付きです。いや、意識の底辺に仏教の考えや宇宙科学の考えがあるかもしれませんが、今は思い付きというのが適当と感じます。

 桜がきれいに咲いているのを見ると、またウグイスが美しい声でしきりに鳴いているのを聞くと、素晴らしい!と私は思うのです。大谷翔平さんがホームランを打つのや、藤井聡太さんが将棋で勝つのや、甲子園で高校球児が一所懸命に戦っているのや、幼い女の子がお母さんと手を繋いで嬉しそうに歩いているのや、それらの姿を見るととても嬉しいのです。「命が輝いている!」「命が燃えている!」と感じるのです。

 いつかは皆、死んでいく、無に帰すと思うのに、命が輝き煌めいていることに感動するのです。宇宙は循環生成していくが、それは宇宙の構成要素(もしかしたらそれはエネルギー?)が燃焼し変化して行っているのではないかと私は思うのです。

 

|

2026年3月20日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第23回:輪廻と循環生成

●輪廻とは

 輪廻(りんね)とは、生き物が生死を繰り返すことです。古代インドの宗教では輪廻の考えが業(ごう)思想と結びついて広まっていました。業思想とは、簡単に言えば、前世で良い行為(業)をしている人は後の世に善人として生まれ、悪い行為(業)をしている人は悪人として生まれる、という考えです。そして「輪廻、生死の繰り返しの状態から抜け出ること」が解脱(げだつ)、涅槃(ねはん)と言われ、出家者などの目標とされました。

 釈迦は基本的に、人が死後どうなるかなどについて語るのは無意味なことだ、という考えでしたが、インドの大衆に輪廻思想が広まっていたため、仏教も次第に輪廻思想を受け入れて行ったようです。

●中村元氏の見解

 『大漢和辞典』を編集した漢字研究者の諸橋轍次氏と、日本におけるインド哲学の第一人者と言われる中村元氏の対談本『対談 東洋の心』には、輪廻説の仏教への取入れについて次のような中村元氏の発言が書かれていました。

「釈尊は人間が本当のよい人間として生きるにはどうしたらいいかという、それを実践し、また教えることに全力を傾倒していたわけだから、それで必要な材料だと思えば、方便の教えとして、(当時の社会通念であった輪廻説を)取り入れたと思う」

●六道輪廻 

 六道輪廻(ろくどうりんね)とは大乗仏教で言われている輪廻の考えです。人は自ら作った業の良し悪しによって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人(にん)・天の6つの世界に生死を繰り返すというものです。

 日本へ入ってきた業や六道輪廻の思想は、苦難からの脱出を目指して人々が善い行いをするという影響も与えましたが、より多くの場合、宿命論的な受け入れの押し付けとなり、差別の固定化をもたらしたと言われています。

 人が、どうしようもない不安や苦しみから救われたいと思って、宗教に頼るのはあって良いと私は思います。しかし、これは私の勝手な推測ですが、宗教はしばしば民衆に恐怖心をばらまいて、その恐怖から逃れたいならこの宗教を信じなさい、という布教の仕方をしている側面があるように思います。これは「人々を救う」という宗教の理想から言って良くないです。

●仏教の教えの科学的な手直しの必要性

釈迦が誕生する以前から、インドをはじめアジアの農耕採取社会では自然の恵みが毎年巡ってくるという循環生成の考えが広まっていました。このことは当シリーズの第12回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(3)で述べた通りです。循環生成の考えは自然そのもののあり様のため、私もスンナリと受け入れられます。

輪廻はどうでしょうか?学校の授業で科学の話を聞かされたためかもしれませんが、人間が死んで微生物になり、他の生物や無機物になっていくのは納得できます。ただ、六道輪廻などと6つの世界があるとか、6種の生存形態があるとかの話は信じられません。こんな荒唐無稽なことは言わずに、素直にこう生きて行ったら幸せになれるのだよと教えてほしいです。

古代インドでは現代のように自然科学が発達してなかったから、科学からの見方で説得をするのは出来なかったとは思います。しかし、現代の仏教関係者は新しい知識で教えを手直しすることが出来るはずと思うのです。その取り組みをしなければいけないのではないでしょうか。

 

|

2026年3月13日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第22回:人の一生は「生長躍老伝死」?

●「生老病死」は四苦のことだが

 「生老病死」は四苦八苦の四苦のことと言われています。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、の四つの苦しみです。

 そうとは分かっていても、私は「生老病死」という言葉を見たり聞いたりすると、人間の一生を表しているように思えてしまうのです。言葉の最初に「生」があり、最後に「死」があるからでしょうか、「生まれて、老いて、病んで、死んでいく」と受け取れるのです。

●釈迦の四門出遊のエピソード

 「生老病死」から生を取った「老病死」というと、釈迦の四門出遊のエピソードが有名です。

 釈迦が若い頃、王城の東西南北の門を出たところで、東では老人を見、南では病人を見、西では死人を見、北では出家者を見て、出家することを決意したという話です。ここからも、人は老いて、病んで、死んでいく、という状況が伝わってきます。

 仏教は、「この世を苦しみの世と捉え、どうしたらそこから脱却できるか」を問うた宗教であるため止むを得ないのかも知れませんが、どうも全般的に暗く感じられます。

●人生は「生老病死」(苦しみばかり)ではないのでは?

 本当に人生は苦しみばっかりなのでしょうか。生きていること自体に喜びを感じることも本来あるのではないでしょうか。そうでなければ、生まれてくるのが嫌われて、自然に人間は生まれて来なくなると思うのです。

 仏教でも、人間を構成している五蘊(ごうん。色、受、想、行、識の5つ)の受について次のように概略述べています。

「受は全ての経験に対するわれわれの『感じ方』だけではなくて、将来の経験の仕方をも条件づけます。つまり、『快』の経験は、その持続や再現の欲求を生じさせ、『苦・不快』の経験は、それを終わらせ、再現を阻止しようとする欲求を生じさせます。」

●「人生」や「生命」を肯定し勇気づける考えの必要性

 仏教では一般的に生老病死の「生」すなわち「誕生」も苦しみの1つだと説明しますが、これはおかしいのではないかと思います。ほとんどの場合、赤ちゃんが産まれたら嬉しいです。誕生祝という言葉すらあります。そして赤ちゃんの誕生は一家の繁栄にも種の保存にも良いことです。

 また、2~3歳の子供がお母さんと手を繋いで嬉しそうに歩いている姿を見ると微笑ましくなります。年頃の恋人同士は男女とも顔が活き活きして美しく見えます。人間以外にも、桜は咲いて奇麗ですし、鳥も良い声で鳴きます。それらを見聞きすると私は生命の喜びを感じるのです。

「人生」や「生命」を肯定し勇気づける考えがあって良い、必要だと思います。

●「老」をどう考えるか

 「老」は「老(お)いる、老(ふ)ける」など年を取ることを意味する言葉ですが、その他に「長い経験を積んだ、練れた」という意味があります。中国にあるお酒「老酒(ラオチュウ)」は、蒸留酒「黄酒(ホワンチュウ)」を3年以上も甕で熟成したもので、熟成期間が長いほど味わい深いものですが、「老酒」の「老」は「練れてとても良い」の意味でしょう。

 何が言いたいかと申しますと、「老」を嫌がらず、「老」の価値を認め、その良さを発揮するのが大切なのではないか、ということです。老人は自らを「老いさらばえた、後はお迎えを待つだけの身」と考えずに、何らかの貢献を周囲にしていこうとすることが、本人のためにも周囲のためにも良いことだと思います。

●人生を要約するなら「生長躍老伝死」では?

 以上のことから、私は人生を一言の言葉に要約するなら「生長躍老伝死」ではないかと考えます。

 生は誕、長は成、躍は活、老は練、伝は達、死は亡で、それぞれ一文字を取って繋ぎ合わせました。成長には身体的成長、学問的成長、人間的成長が含まれます。老練にはノウハウの把握と深掘りがあり、伝達にはそれらを周囲および次世代へ伝達する意味を込めています。

 このように考えることによって、人生はどの世代にとっても価値あるもの、活き活き生きて行けるものになるように思うのです。

|

2026年3月 6日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第21回:なぜ他の生き物を食べないと生きていけないのか(2)

●目が留まった、漢方薬説明の言葉

 むらさきクラブというところが月1回発行している『主治医』という小冊子があります。裏表紙の広告や、冊子の中の記事に登場する人物などから推測するに、おそらくこの冊子は漢方薬製造販売の「株式会社 和漢薬研究所」が主導して作っているものでしょう。

 その『主治医』の2025年1月号に、対談相手のゲストの秋川雅史さんに漢方薬「松寿仙」を説明している言葉が載っていました。ハッと目が留まったので、ちょっと長い引用になりますが以下に転載します。

「(自然薬の松寿仙の)中に入っているのは、赤松葉、クマザサ葉、朝鮮人参で、どれも自然の原料です。松寿仙は、これらの原料の単一成分を抽出して作られたものではなくて、これらの天然自然の原料の成分まるごと、つまり自然の命まるごとで構成されているんです。生命の調和を保つのは自然の中にある「生命」である、という考えから創薬されたものなんです」

 私は「生命の調和を保つのは自然の中にある『生命』である」という言葉に強く惹かれました。命は命でしか賄(まかな)えないのではないか、と思ったのです。

●捕食、食物連鎖は命の変換では?

 人を始め、生き物が他の動植物を捕食すること、そして食物連鎖していくことは、命の変換ではないでしょうか。自然の根本の成り立ち、ルールのような気がします。

 さらに人などが食材、命を食べてエネルギーにしている実態を考えれば、捕食・食物連鎖は命の変換だけでなくエネルギーの変換・伝達のように思います。これは考えが飛躍し過ぎでしょうか。私は飛躍しているとは思えないのです。

●人は死ねば土に還る、星になる

 「人は死ねば土に還る」と昔から言われています。また、もう少しロマンチックに「人は死ねば星になる」と言われてきました。人が土葬されれば、遺骸はバクテリアによって分解され、微生物や小動物の食べるところとなるでしょう。人が火葬されれば水分や気体その他の分子となって大気中に拡散され、動植物などに吸収されるでしょう。 命は次々と巡り巡っていくのだと思います。大きく言えば、この地球上に、あるいはこの宇宙の中で命を構成している分子やエネルギーなどが変化していくのだと思います。

 この考えは、当ブログの「第12回 釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(3)」でも述べた、「変化体としての存在」(専門用語は「プロセスの存在論」)として人や物を捉えようとするものです。私には現時点、この考えが納得できるのです。

●不殺生戒との落着点

 他の生き物を食べることと不殺生戒の関係をどう位置付けるべきか、私はこう考えます。

 人を始め全ての動植物は生きるために他の動植物を食べるように出来ています。栄養やエネルギーを得るために他の生き物の命をたべます。それが「変化体としての存在」の在り方なのでしょう。生まれてきて、やがて死ぬのが自然の理のように、生きている間は他の動植物の命を食べてエネルギーにし、活動していかなければならない理なのでしょう。これは素直に受け入れたら良いと考えます。

 仏教でいう五戒の中には不殺生戒の他に不飲酒戒(ふおんじゅかい)や不邪淫戒というものがありますが、これらの戒は、絶対に酒を飲んではいけないとか、性行為をしてはいけないという意味ではありません。酒を飲んで正気を失ってはいけない、家庭生活を乱すような性行為をしてはいけないという意味だと言われています。

 つまり不殺生戒も、人が生存するために必要な食材の分以上の命を奪ってはいけないという意味ではないかと私は思います。

 そして今回の内容を大きくまとめますと、人も、人が他の動植物の命を食べるのも、万物変化、循環生成の一環と思えるのです。

 

|

2026年2月27日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第20回:なぜ他の生き物を食べないと生きていけないのか(1)

●人は他の生き物の命を奪って生きている

 人は肉や魚や野菜を食べて生きています。食べないと死にます。どうして他の生き物の命を奪って食べないと生きていけないのでしょうか。

「殺すなかれ」と不殺生戒を説く仏教は、このことをどう捉えているのか調べてみました。

●精進料理に対する疑問

 日本では肉や魚を食材として使わない精進料理というものがあります。肉や魚は生き物であり、それを食べることは生き物を殺すことだからと言って、不殺生戒を守る僧や精進潔斎する在家の人が精進料理を食べます。

 私は「野菜だって命があるはずなのに、どうして野菜は食べて良いのか?」と疑問を感じていました。今回少し調べてみたら、すぐに答えが見つかりました。

 曹洞宗のWEBサイト『SOTOZEN NET』によれば、釈迦は肉も魚も野菜も食べて良いと言っていたそうです。僧は修行していて食事は布施されるものを食べるのですが、肉や魚は高価なためあまり布施がなされず食べる機会が少なかったのです。そこに中国の菜食主義の考えが重なって、肉魚を食べない精進料理が出来上がってきたとのことです。

 精進料理に対する疑問は解けましたが、逆に釈迦が肉も魚も野菜も食べて良いと言っていたなら、それは幅広く殺生を認めていたことになるではないかと、当初の疑問「『殺すなかれ』の教えとの矛盾」がさらに大きくなりました。

●仏教の食事の前の祈り

 浄土真宗では食事の前に次の祈りの言葉を唱えます。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。」
「深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」

 また、曹洞宗では「五観の偈(ごかんのげ)」という食前の祈りの言葉があります。原文は難しいとのことで現代語に訳した言葉は次のものです。

「食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう。 

 この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう。

 むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう。

 欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう。

 皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう。」 

                              WEBサイト『SOTOZEN NET』より

 浄土真宗の祈りには「多くのいのち」、曹洞宗の祈りには「食材の命の尊さ」という言葉が冒頭に入っていて、最後の言葉は「ありがたくいただきます(ましょう)」なので、どちらも他の生き物の命を頂くことに深い感謝の気持ちを抱いていることが分かります。

 しかし、どちらも不殺生戒との関係については説明していません。曹洞宗の『五観の偈』は食材の命の尊さを無駄にしないように、正しい行いや仏道修行をしていこうと述べていますが、どうもこれは私には直ぐに頷けません。立派な心構えであることは分かるのですが、無理やり理屈をつけて納得しよう、としているように感じられます。

 人が他の動植物の命を奪って食べるのは、立派な心構えのためではなく、自然の成り立ち(宇宙の摂理)でそうなっているのではないか、と直感的に思うのです。何かを、すなわち他の動植物を、食べないと生きられないということ、そして二重にも三重にも次々と食べていく食物連鎖という仕組みになっていることを考えると、そう思えてしまうのです。

                                       【(2)に続く】

|

«「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録推進と本『飛鳥から・・・』(2)