2026年2月 6日 (金)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第16回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(1)

●奈良の観光巡りから行きついた先
 私は観光気分で奈良の寺巡りを始めました。そして寺に関係して必死に生きた人たちに出会い、その人たちを動かしていたものが仏教と気付きました。そのため、仏教というものがどんなことを言っているのか知りたいと思うようになりました。

 人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか、と考えるようになりました。どうせ死ぬのなら、なぜ生まれて来るのでしょうか。なぜ皆が老衰で死亡せず、多くの人が病気になりって死んでいくのでしょうか。老人は幸せになれないのでしょうか。

●仏教で見つけた2つの答え
 上記の疑問への答えとして、仏教は次のようなことを述べているのを知りました。

 1つは十二支縁起と四諦(したい)の一般的な説明から出てきたものです。その内容は、この世はひたすら苦しみであり、苦しみを生み出す原因は煩悩であり、煩悩のせいで様々な良からぬ状態が連鎖的に起こり、最後には堪えがたい「老死」に至る、というものです。

 もう1つは施身聞偈(せしんもんげ)の解釈から得たものです。施身聞偈の偈文は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」であり、その意味は、「全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則なのです。そのことを悟り、欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるのです」というものです。

 ある意味、相反する答えが述べられています。一方は「堪えがたい老死に至る」というものであり、もう一方では「変化・消滅が世の法則なのだから、そのことを知り、納得し、受け入れた時、心は安らかになる」というものです。

●私は心情的に「施身聞偈の考え」派
 「老死」に対する十二支縁起と四諦による考えも、煩悩を消せば救われると教えています。しかし「老死」が苦しみの最たるものと捉えていることが、私には受け入れ難いのです。

 以前に私は、鮭が産まれた川を上流へと遡っていって産卵し、産卵を終えると死んでしまうという映像を見た記憶があります。そのためのような気がしますが、死は次の世代を産むためにあるのではないか、死は命のバトンタッチという価値あることをしているのではないか、と思うようになりました。

 施身聞偈の考えは、何もかもが変化・生滅していくことを受け入れなさい、というものです。変化・生滅という世の理(ことわり)を知り、言い換えれば宇宙の摂理というものをあるがままに認識して受け入れ、生きていきなさいという教えです。

 私は心情的に「施身聞偈の考え」の方が良いように思いました。「老死」を「苦」と捉える度合いを少なくし、「当然にあるもの」「抗(あらが)えないもの、抗う必要のないもの」という捉え方をしているためです。

 そして、そこから発展して、「もしかして人は成長・発展するために死ぬのではないか?」と思うようになりました。

 

 

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2026年1月13日 (火)

「文学フリマ京都10」(2026.1.18)に出店します

「文学フリマ」とは

「文学フリマ」とは、作り手が「自らが《文学》と信じるもの」を自らの手で販売する、文学作品展示即売会です。

今回、私が加入しているサークル「あすか橘会」が文学フリマ京都10に出店するとのことで、拙著も出品することになりました。

これまで書いてきた本の一部を持参致しますので、よろしければ「あすか橘会」のブース【けー31】へお立ち寄りください。

【文学フリマ京都10】

日程 2026118日(日)  1217
場所 京都市勧業館みやこメッセ(平安神宮近く)
ブース 3F 第三展示場 け-31 「あすか橘会」
文学フリマ京都10のURL
  ⇒ https://bunfree.net/event/kyoto10/

文学フリマWEBカタログのURL
    ⇒ https://c.bunfree.net/c/kyoto10/3F/%E3%81%91/31

私の出品物

①『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』
     
・奈良の寺院を巡るエッセイです。

②『迦陵頻伽 奈良に誓う』
   
・奈良を舞台とした現代小説です。

③『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』(共著本)
   
・飛鳥時代の歴史考察を対談形式でまとめた本です。

*上記の①②③の各本を「文学フリマ京都10」のイベント特別価格1,000円/冊で販売します。

*なお、前述の文学フリマWEBカタログに掲載されている各本の表紙をクリックして頂きますと、各本のより詳しい内容がご覧になれます。

WEBカタログの上段の本は、サークル「あすか橘会」のメンバーである朝皇龍古氏の作品『飛鳥から遥かなる未来のために』シリーズ全6巻です。聖徳太子が活躍するオリジナル歴史小説です。

 

 

 

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2026年1月 3日 (土)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第15回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(3)

●この本の説明で「理解できない事柄」
 前回は「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本『ブッダが説いたこと』が、著者の論述姿勢と訳者の翻訳姿勢によって「分かりづらく」なっていることを述べました。今回はこの本の説明で「理解できない事柄」について述べます。

●四聖諦(ししょうたい))のまとめが理解できない
 
著者によれば、「仏教の真髄は、ブッダが(中略)行った最初の説法(初転法輪)で説いた四つの真理(四聖諦)であ()」、「四つの真理とは、(1)ドゥッカの本質(2)ドゥッカの生起(3)ドゥッカの消滅(4)ドゥッカの消滅に至る道である」。

 そして「まとめ」として、四聖諦に関連して、われわれがなすべきことを著者は書いていますが、四聖諦の説明部分を抜き書きしてみると次の通りです。

「第一聖諦はドゥッカの本質で、人生の本質は苦しみ、悲しみ、楽しみ、不完全さ、不本意さ、無常さである、ということである」

「第二聖諦はドゥッカの生起である。すなわちもろもろの欲情、汚れ、不純さを伴った渇望、欲望の生起である」

「第三聖諦はドゥッカの消滅、すなわちニルヴァーナ、絶対真理、究極実存である」

「第四聖諦はドゥッカの消滅に至る道、すなわちニルヴァーナの実現に至る道である」

この説明では何が何だか私には全く分かりませんでした。例えば、ドゥッカとはどういうことなのでしょうか。苦しみがあったり、それと真逆な楽しみがあったりして、ドゥッカの本質というものが的確に説明されていません。

ドゥッカの生起についても「不純さを伴った渇望、欲望の生起である」と言われても、ドゥッカの生起の何についての言葉がないので理解がしづらいです。ドゥッカの生起の状態を説明しているのでしょうか、ドゥッカの生起の原因を説明しているのでしょうか。

ドゥッカの消滅では「すなわちニルヴァーナ、絶対真理、究極実存である」という説明がなされていますが、私にはニルヴァーナ、絶対真理、究極実存という言葉の意味が分かりません。

●『岩波 仏教辞典 第二版』での四諦(したい)の説明
 
本『ブッダが説いたこと』が四聖諦(ししょうたい)として説明していることを『岩波 仏教辞典 第二版』ではどう説明しているのかを見てみました。そこには次のような内容が書いてありました。

「四諦(したい)・・・諦(サンスクリット語でsatya)とは真理の意で、四諦とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)という4種の真理のこと。四聖諦(ししょうたい)とも訳される。

<苦諦>とは、迷いの生存は苦であるという真理である。

<集諦>とは苦の生起する原因についての真理であり、その原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛にあるとされる。

<滅諦>とは、苦の止滅についての真理であり、それは、渇愛が完全に捨て去られた状態をいう。

<道諦>とは、苦の止滅に到る道筋についての真理であり、いわゆる八正道(はっしょうどう)として示される」

『岩波 仏教辞典 第二版』の記述も分かりづらいですが、多少耳慣れた言葉が使われているためでしょうか、本『ブッダが説いたこと』よりは少し意味が推測できるような気がしました。

それでも「意味が明確に分かった」と言えないことに変わりはありません。ブッダがどのように世の中を捉え、どのように人間の生き方なり心の成り立ちなりを考えたのかを、考察してみないといけないのでしょう。今後の継続課題として考えていくようにします。

●結局、本『ブッダが説いたこと』の良い点と残念な点は
 結局、本『ブッダが説いたこと』の良い点は、<「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(1)>で16項目を列挙した仏教の概略説明のところだと思いました。残念な点は、仏教の真髄と言いながら四聖諦の内容を一般の人が理解できるように説明がなされていないところだと思いました。

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2025年12月30日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第14回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(2)

・この本の「分かりづらい事柄」
 前回は「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本『ブッダが説いたこと』に書いてある「良いこと」について述べました。今回はこの本の「分かりづらい事柄」について述べます。

・著者の論述姿勢がもたらす「分かりづらさ」
 
①著者のラーフラ師は「まえがき」で「私は本書で、ブッダの教えの中で中心的、基本的とされるものをすべて論じた。それらは、四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう)、五集合要素、カルマ、再生、『条件付けられた生起』、無我、正しい気付きである」と書いていますが、それぞれの事項について分かり易い説明がなされていません。

 ②続いてラーフラ師は「読者にはできるなら、まず第一章から始めて、次に第五、七、八章と進み、それから第二、三、四章そして第六章へと読み進めていただきたい。そうすれば、全体の意味がより明確で、生き生きしたものとなるであろう」と書いていますが、これは納得がいきません。全体の意味が読者に分かりやすいように著者が順序立てて書くべきだと私は思います。その順序がブッダの思想構成と異なるなら、その点を補足説明すれば良いと考えます。

 ③また、ラーフラ師は「本書のタイトルを『ブッダが説いたこと』とした以上、ブッダが用いた比喩(ひゆ)、表現、繰り返しも含めて、ブッダ自身のことばをそのまま記すべきだと考えた」とのことですが、私は『ブッダが説いたこと』の本質を伝えるのが大切と考えます。仏教経典はインドの種々の人々が理解し易いよう比喩や繰り返しを多用していますが、インド以外ではもっとスッキリした形で説明した方が分かり易いと思います。

・訳者の翻訳姿勢がもたらす「分かりづらさ」
 ①訳者の今枝由郎氏は本『ブッダの説いたこと』を日本語訳するにあたって、日本人に馴染みの深い漢訳の仏教用語をあまり使わず、古代インドのパーリ原語をカタカナ表記して使っています。これは著者であるラーフラ師が、「仏教固有の用語に対して適切な英語が見つからない場合、原語を残して、それを説明するようにしている」ので、訳者もその方針に倣(なら)ったとのことです。
 私はこれを読んで、仏教に馴染みの薄い英語圏ではもっともな著者の判断ですが、漢訳仏教用語が広まっている日本では訳者の判断は適切でないと思いました。漢訳仏教用語を用いて翻訳し、意味説明が不足の場合や日本で言葉が誤解されている場合などは、そこを丁寧に補足説明した方が読者に理解してもらい易いと考えます。多少なりと仏教関係の本を読んだ日本人なら、「五集合要素」より五蘊(ごうん)が、「カルマ」より業(ごう)が、「条件付けられた生起」より縁起が、「マハーヤーナ仏教」より大乗仏教の方が耳慣れていて本をスムーズに読むことが出来ると私は思うのです。

・次回は、この本の説明が「理解できない事柄」を取り上げる予定
 ここまで著者の論述姿勢と訳者の翻訳姿勢によって、本の内容が分かりづらくなっていることを述べてきました。次回の『第15回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(3)』では、この本の説明が「理解できない事柄」を取り上げる予定です。

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2025年12月 4日 (木)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第13回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(1)

●「英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの本
 五蘊や十二支縁起についてよく分からず困っているときに、「近代精神を意識して書かれた英語圏最良の仏教概説書」というキャッチ・コピーの岩波文庫に出会いました。本のタイトルは『ブッダが説いたこと』、著者はスリランカ出身の仏教行者であり哲学の学者でもあるワールポラ・ラーフラ師、訳者はチベット学者の今枝由郎氏です。

●私の読後感想
 本を数回読んでみての私の感想は、「仏教の概略を知るために役立つことも書いてあるが、全体的に分かりづらい。最良の仏教概説書とは言えない」というものです。ちなみに、WEBでこの本のブック・レビューなどを検索してみますと、「仏教の真髄が優しく書かれていて分かりやすい」という意見と、「分かりづらい。チンプンカンプン」という意見との両方がありました。

●この本に書いてある「役立つこと」
 この本に書いてあることで私が参考になった主なものを、「役立つこと」としてまず列挙します。全体としての感想が良くないものであっても、ここのところは学べると思うからです。16項目あります。

①ブッダはカーストや社会階級といった差別を認めなかった。

②(ブッダによれば、)人間は自らの主であり、それより高い位置から人間の運命を審判できる(神のような)存在や力はない。

③(ブッダは、)人間は自らの努力と知性によってあらゆる束縛から自らを自由にすることができるのだから、誰であれ自分を啓発し、自分を解放するようにと教え、励まし、刺激した。

④疑わずに、信じるべきであるというのは、的を射ていない。

⑤自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。

⑥人生には病、老い、死、悲しみ、憂い、痛み、失望といった苦しみがある。私(ブッダ)が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの『消滅』である。

⑦(ブッダが諦(あきら)かにした四つの真理(四聖諦(ししょうたい))の最初の真理は、)不適切で、安易な訳語と、その表面的解釈が、多くの人に仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになった。

⑧因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない。そのなかで、持続的「自己」、「個人」あるいは「私」と呼べるようなものは存在しない。

⑨存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽ももっている。

⑩私たちが「私」「存在」と呼んでいるものは、各々が相互依存的に、因果律に従い刻一刻と変化する物質的、心的要素の結合に過ぎない。

⑪彼らは過去を悔やまず、未来のことを気に病まない。彼らは現在を生きている。だから彼らの顔色は輝いている。

⑫ブッダの教えを理解し、その教えが正しい道だと確信し、それに従おうとするなら、その人は仏教徒である。

⑬仏教は、物質的福利が目的そのものとは考えない。それは、より高い、より貴い目的のための手段にしか過ぎない。しかし、それは人間の幸せという、より高い目的を達成するためには不可欠な手段である。

⑭十分な収入が得られる機会が民衆に提供されれば、人びとは満足し、恐れや不安から解放され、その結果として国は平和で、犯罪はなくなる。

⑮仏教が非暴力主義、平和主義を提唱し、いかなるかたちの暴力も殺生も弾劾していることはよく知られている。

⑯(ブッダは、)国王、大臣、行政官たちが腐敗し、不正を行なうようになると、いかにして国全体が腐敗し、堕落し、不幸になるかを説き明かしている。国が幸せであるためには、公正な政府が必要である。

●次回は、この本の「分かりづらいこと」を取り上げる予定
 
次回の『第14回:「英語圏最良の仏教概説書」を読んでみた(2)』では、この本の「分かりづらいこと」を取り上げる予定です。

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ワールポラ・ラーフラ著、今枝由郎訳『ブッダが説いたこと』



 

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2025年11月12日 (水)

唐招提寺にひっそりと建つ英文の詩碑

 十一月になり秋も深まってくると思い出す詩があります。それは奈良・西ノ京の唐招提寺に【ひっそりと建つ英文の詩碑】の詩です。二〇一四年刊の拙著『奈良のこころ 奈良・西ノ京から』に掲載したものですが、以下に再度掲載いたします。

●小さな英文の碑
 唐招提寺の無料休憩所を兼ねた売店の裏手、それほど大きくない池のほとりに、見落としてしまいそうな小さい石碑があります。地面からの高さが三十センチメートルあるかないかでしょう。石碑には銅板が埋め込まれていて、浅く文字が刻まれています。どこの誰が建てた碑なのか、何と刻まれているのか、簡単には分かりません。私がしゃがみこんで書き取った碑文は次の通りです。

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唐招提寺の売店の裏手にある英文の詩碑

●英文の原詩

 
 

AT TOSHODAIJI

 

Lo! In the cool air that reigns autumn now,

The colossal main hall doth arise to stand,

Of Buddhist Temple, neath the history, Thou,

Oh, Toshodaiji grand!

 

The colonnades of eight in frontage seen,

Remind us of the ancient edifice in Greece,

Imposingly face south thro the brighter sheen,
Embosomed in Lasting peace!

 

Around the hall prevails the majestic grove,

While thus among trunks so thick and rough,

There bloom some nameless florets in tiny love…

Ah, quiet‘tis enough!

 

This perfect main hall! Symbol great in age,

For more than centuries of one and ten,

Tho southern gate and fences lose their image

Of yore, that awed all then.

 

Now visitors stroll about by twos and threes,

With pious eyes from grounds so hallowed brought,

From History’s far recess doth blow the breeze,

When people go in thought.

 

               Hiroomi Fukuda

                            Chimaki Tsukumo

                            October 22, 1952

 

 

●石碑の日付は詩が詠まれた日?
 古語が使われた英語の詩です。韻もしっかり踏んでいます。作者の名前は漢字で福田博臣、津雲千巻とでも書くのでしょうか。また、一九五二(昭和二七)年十月二十二日という日は、唐招提寺を訪れた日なのか、石碑を建てた日なのかも不明です。通常石碑に彫る日付というものはその碑を建立する日のはずですから、後者ととるべきなのかなと思います。
 ただ、そう思いながらも多少気にかかるのは十月二十二日という日です。唐招提寺では十月の二十一日から二十三日まで釈迦念仏会という大きな法要が行われます。特別な法要の日に、その法要とは直接関係しない石碑の建立はしないのではないでしょうか。私には詩の作者たちが釈迦念仏会のときに唐招提寺を訪ねたように思われてなりません。
 なお、十月に詠まれたと思われるこの詩の唐招提寺の雰囲気は、昨今の温暖化の影響で、十一月に多く感じられるように思います。

●詩の日本語訳
 詩を日本語に訳してみます。古語の英語に合わせて、少しばかり古い表現を心がけてみることにします。

「唐招提寺にて

時は秋、清涼の気が漂う中に、
素晴らしい金堂が建っている。
長い歴史を経て、
屹立する御仏の寺。
ああ、壮麗なる唐招提寺。

正面にある八本の列柱は、
ギリシャの古代建造物を想起させ、
悠然と南面したその姿は、
明るく輝きながら、
永遠の安寧を謳っている。

金堂の周りには厳かに樹々が生えている。
それらの樹の間にはこんもり茂った藪があり、
名もなき小さな花々が愛らしく咲いている。
ああ、なんという静けさ。

南門や壁は昔日の面影を失っているが、
非の打ち所のない金堂は
千歳余りの風雪に超然として、
畏敬の念を抱かせる。

清浄な境内を三々五々、
参拝者が散策している。
篤い心で思いをはせると、
遠い歴史のかなたから、
古人(いにしえびと)の息吹が伝わってくる。」

 意訳し過ぎかもしれませんが、この詩は唐招提寺の情景と雰囲気を的確に捉えているように思います。古語の英語でしっかりと韻を踏み、素晴らしい詩が詠まれたものだと感心しています。

●後日談
 上記の「英文の碑」について私のホームページで紹介しましたら、あるとき人を介して女性の福田氏から電子メールをいただきました。福田氏は詩を書いた福田博臣氏のお孫さんでした。小さかったので、お祖父さんのことはうっすらとしか覚えていないとのことですが、福田博臣氏は銀行で働き、独学で英語を勉強したそうです。そして奈良県で最初に通訳資格を取り、何かあればボランティアで通訳をかってでていたとのことでした。

 

 

 

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2025年11月 5日 (水)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第12回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(3)

 十二支縁起について調べる過程で知ったことをいくつか書いておきます。出所は主に浅野孝雄著『ブッダの世界観』です。浅野氏は脳外科医で仏教に詳しい方です。

●参考になる事柄
 十二支縁起を考える時にとても参考になると思ったものは次の通りです。

①十二支縁起と現代の脳科学は重なり合う
 ・釈迦が説いた十二支縁起は現代の脳科学(意識理論)と共通するものがあります。
 ・脳の神経細胞から電気信号が出て脳内を駆け巡り、互いに影響し合って、脳全体を巻き込む大きな流れを生じさせます。この一連の動きが十二支縁起の各「支」の内容と似ているのです。
 ・特に十二支縁起における「触」というプロセスは、カリフォルニア大学のウォルター・J・フリーマン氏が提唱した、意識の形成メカニズムに関する理論の「行動―知覚サイクル」における知覚ループの働きとぴったり一致するのだそうです。

②実体としての存在、変化体としての存在
 ・本シリーズの「第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)」 で述べたように、釈迦の人間の捉え方は、人間は五蘊(色、受、想、行、識)で出来ているというものでした。
 ・これは、人間は「実体として固定的にあるもの」(専門用語は「実体の存在論」)ではなく、感じたものが次々と蓄積され影響し合って気づきが出来、行動していくものだという捉え方です。「変化体としての存在」(専門用語は「プロセスの存在論」)と言えるでしょう。
 ・実は現代の宇宙科学でも「変化体としての存在」が言われているようです。宇宙に関する本で読んだことがあるのですが、宇宙はビッグバンがあって以降、何億光年もの長い間、変化し続けているとのことです。
 ・釈迦は人間の心について洞察を続け、現代の宇宙科学の知識に通じる真理を感じ取ったのだろうと思います。

③「無明」は無知ではなく混沌
 
・十二支縁起の「無明→行」の二支に関して、イギリスの仏教学者リチャード・ゴンブリッジの新解釈を、浅野孝雄氏が納得できるものと推奨しています。新解釈の内容は次の通りです。
 ・「無明」のサンスクリット語の「アヴィドュヤー」という言葉は、「無知」という意味と共に「非存在、非有」という意味があります。「非有」とは全くの非存在・虚無ではなく、万物発生以前の秩序なき状態の「混沌、カオス(ギリシャ語)」のことで、「混沌、カオス」は万物を生み出すものです。
 ・「無明」が「非有」つまり「カオス」ならば、「無明→行」の二支は「カオスからの秩序の生成」と言えます。

④循環生成
 ・本シリーズの「第8回:仏教の『死の捉え方』」で紹介しましたように、浅野孝雄氏は十二支縁起を直線的なものとして捉えるのではなく、円環的なものとして捉えるべきだと述べています。
 ・直線的なものだと十二番目の支の「老死」で終わってしまい、「老死」が次なるものに繋がっていかないからです。
 ・十二支縁起を円環的なものと捉えれば、「老死」で(無くなったもの)が一番目の支の「無明」(混沌)に結びつき、やがて(新たなもの)として生じてくると考えられます。
 ・釈迦が誕生する以前から、インドをはじめアジアの農耕採取社会では自然の恵みが毎年巡ってくるという循環生成の考えが広まっていました。釈迦はその考えがとても良いものだと判断して、仏教の中に取り入れたのだと浅野孝雄氏は述べています。
 ・なお、たまたま別件で私が読んでいた本にも循環生成の話が書いてありました。梅原猛著『森の思想が人類を救う』です。循環生成の考えが日本にも昔から人々に持たれていて、多神教であり、自然や他の人々や生きものなどと共に生きて行こうとしていたことや、今後の世界にこの思想が役立つと書いてありました。浅野孝雄氏の主張と共通していました。

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浅野孝雄著『ブッダの世界観』

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梅原猛著『森の思想が人類を救う』

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「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第11回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(2)

 理解するのが難しいと言われる十二支縁起について調べていきます。

●十二支縁起の「支」の意味
 
ここでの「十二支」は干支(えと)とは関係ありません。「支」の漢字の一般的意味は「わかれ、えだ、本からえだのようにわかれて出たもの」ですから、十二の項目、十二の段階と考えれば良いでしょう。
 なお本シリーズの「第8回:仏教における『死の捉え方』」でも述べたように、十二支縁起とは、人の心に苦しみが生じるメカニズムを十二段階で説明したものです。そして、十二支縁起の「支」は、原語のサンスクリット語で「ニダーナ(ni-dãna)」といい、「次の原因となる」ことを意味しています。 

●十二支縁起の十二の段階
 
十二支縁起の十二の段階とは次の事柄です。
 ①無明(むみょう)、②行(ぎょう)、③識(しき)、④名色(みょうしき)、⑤六処(ろくしょ)、⑥触(そく)、⑦受(じゅ)、⑧愛(あい)、⑨取(しゅ)、⑩有(う)、⑪生(しょう)、⑫老死(ろうし)

●各「支」(段階)の意味
 
一般に仏教界で言われていることは次の通りです。各「支」の右側にかっこ書きしたものは岩波書店刊『仏教辞典 第二版』による簡潔説明です。補足説明を浅野孝雄著『ブッダの世界観』を参考にして書きます。浅野孝雄氏は脳外科医で仏教に詳しい方です。

①無明(無知)
 ・人生や事物の真相に明らかでないこと。
 (このことを、「釈迦の教えを知らないこと」と解釈し説明する人たちがいますが、私は素直に頷けません。釈迦が「自分の教えを知らないことが苦しみの原因だ」などと説くとは思えないからです。あえて、こうだったなら納得がいくと思った解釈は「世の中は絶えず因縁果で変わっていき、ものは生じ滅していく、ということを受け入れられず納得できない人は、安らぎを得られず苦しむ」というものです。)   

②行(潜在的形成力)
 ・過去や現在に起こった事柄が、人間の心身に埋め込まれて、それが意欲・志向性・煩悩などとして出てくること。
 ・「行」が「形成力・意欲・志向性」として「識」を生み出す。

③識(識別作用)
 ・心のあらゆる作用のベースとなる、認識する働き。気づき。

④名色(名称と形態)
 ・名色とは名と形のこと。
 ・識(気づき)を固定的な名(言葉)と形(イメージ)に変換すること。

⑤六処(六つの領域)
 ・眼耳鼻舌身意の感覚器官が対象とする六つの認識領域(見えるもの、聞こえるもの、匂い、味、触れるもの、法(事物))。

⑥触(接触)
 ・意識を持って感覚器官が感覚対象に接した時(例:詳しく見ようと思って物を見た時)、それは知覚となり、経験となっていく。

⑦受(感受作用)
 ・すべての経験が、苦・楽・苦でも楽でもないもののいずれかとして感受されること。

⑧愛(渇愛)
 ・仏教において愛(渇愛)は、砂漠にさまよう人が渇を満たす以外に何物も考えられないような、非常に強い欲望のこと。

⑨取(執着)
 ・快なるものを繰り返し、手を伸ばして掴もうとすること、あるいは苦を与えるものからは遠ざかるようにすること。 

⑩有(生存)
 ・生きものの生存状態、生存領域。
 ・生存領域は欲界、色界、無色界の三つある。欲界は欲望にとらわれた生きものが住む世界で、最下層の場所。色界は物質的な欲からは離れていないが淫欲と食欲を離れた生きものが住む世界。無色界は欲望からも物質的な欲からも離れた高度に精神的な世界で最上層の場所。

⑪生(生まれること)
 ・老死を導くもの。

⑫老死(老い死にゆくこと)
 ・耐え難い苦悩。

●十二支縁起の繋がり、論理が分からない
 以上、十二支縁起の各「支」についてその意味するところを見てきましたが、正直言って、私には各「支」の繋がり、論理がよく分かりません。五蘊(色、受、想、行、識)はなんとか繋がりが分かるような気がしたのですが、五蘊をより細かく分解し論理立てた十二支縁起は理解できません。
 仏教界での一つの解説としては、胎児が育ってくる過程と重ね合わせて人間の意識が作られてくるというものがあるのですが、それも種々の矛盾があって私は受け入れ難いです。
 十二支縁起の全体としての繋がりが分からないので、せめてその一部でも納得がいき、自分の仏教の学びに参考となることはないか方向転換して調べてみました。次のシリーズ第12回では、そのことについて書きます。

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2025年10月28日 (火)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)

●古代インドにおける思想の乱立
釈迦がいた頃の古代インドでは、商工業者による経済発展に伴って、いろいろな新しい思想が唱えられました。
その中で主な思想家の6人は六師と呼ばれ、それぞれが次のような考えを主張しました。
・プーラナは、道徳を否定し、殺生や強盗などは悪でないと主張。
・パクダは、人間の個体は地・水・火・風・苦・楽・命(霊魂)7つの要素の集合に過ぎないと主張。
・ゴーサーラは、宿命論で、意思による行為は不成立と主張。
・アジタは、唯物論で、地・水・火・風の4元素のみ真の実在であり、人間は死ぬと4元素に分解される主張。その結果、「生きている間は快楽を享受せよ」との快楽論を主張。
・マハーヴィラは、苦行による心身浄化や不殺生を主張。
・サンジャヤは、懐疑論で、判断や思考は無駄だから停止すべきと主張。
六師の思想は後の世に発展した様々な思想の萌芽と呼ぶべきものですが、この思想的混乱の中から現れたのが釈迦です。

●五蘊(ごうん)とは
蘊(うん)は原語のサンスクリット語ではスカンダーであり、意味は「集まり、集合、薪(まき)の束」です。
そのため、五蘊とは「5つのものの集まり」と言えます。
人間は五蘊(色・受・想・行・識の5つの基本要素)によって出来ているというのが、釈迦による「人間の捉え方」です。

色・・・本来は外界にある「物質全般」の意味ですが、ここでは「肉体」のことと考えると分かり易いです。
残る4つ(受・想・行・識)は内面、心の世界に関係する要素です。

受・・・外界からの刺激を感じ取る感受の働きです。
例としては、氷に触れた時に「冷たい!」と感じることがあげられます。
また、受は「痛」・「覚」とも訳され、われわれが何かを認知するときに生じる、快(かい)、苦、快でも苦でもない感情、などの印象・感覚をいいます。
受は全ての経験に対するわれわれの「感じ方」だけではなくて、将来の経験の仕方をも条件づけます。
つまり、「快」の経験は、その持続や再現の欲求を生じさせ、「苦・不快」の経験は、それを終わらせ、再現を阻止しようとする欲求を生じさせます。

想・・・考えを組み上げたり壊したりする構想の働きです。
事物の特徴を捉えること、心に思い浮かべることと言っても良いでしょう。
また、想は受によって生じた認知を概念としてまとめることと言えます。
例としては、「氷は冷たいもの」と考えをまとめることが挙げられます。

行・・・何かを行おうと考える意思の働きです。例としては、冷たいから氷に触れないようにしよう、というものです。
行は、原語のサンスクリット語でサムスカーラと言い、もともとの意味は「為す、作る、共に」です。
ここから、行は、形成力(形成の過程、形成されたもの)、意欲、志向などの意味を持つようになりました。
そして、ここが重要な点だと私は思うのですが、行は、成長などの過程で獲得したもの全てが、一人の人間の今に、意欲、志向性、煩悩などとして現れることだと言われています。
行は潜在的であり、通常は意識されないとも言われています。
つまり、ものごとに接して感じ取り、概念としておおよそ捉えると、経験や知識として体内に蓄積され、それらが無意識のうちに人間の行動に影響を及ぼすということでしょう。
「感じ取る」という受け身の行為が「行動する」という能動的なものに変化してくるように思われます。

識・・・心的作用のベースとなる認識の働きです。
識とは、「区別する」ことによって「知る、認識する」ことであり、「分別」とも訳されています。
識(知性)によって、人間を五蘊として理解し、その業を形成する原因である三毒を滅するように、意識的に努力していくことが、その人自身を救うことになると考えられています。

●釈迦の問題意識と人間の捉え方
釈迦の問題意識を振り返って考えれば、それは、「苦は人のどのような心の働きによって生じるのか?」です。
釈迦の人間の捉え方は、「人間は色・受・想・行・識という5つのものの集まり」というものでした。
その5つのものが縁起の法則(直接的な原因と間接的な原因(縁)が結果をもたらし、その結果がまた原因となっていく)によって影響しあっていく。
それが人間の「心身」であると捉えたのです。
言い換えると、人間の存在は「絶え間なく姿を変える意識の流れ」と捉えたと言えます。
これは唯物論や現代の自然科学に基づく人間観にどっぷり漬かっている現代人にはなかなか理解が出来ない内容ですが、釈迦は「人間を絶え間なく姿を変える意識の流れ」と捉えたのです。
縁起の法則、万物流転の思想から言えば、そういう捉え方になるのかと思いました。
なお、釈迦は、死後の世界がどうなるかなど、知ることが不可能なものを探るのではなく、心の観察によって誰もが知ることのできる「心の構造」を明らかにしようとしたのです。

釈迦の問題意識と人間の捉え方に関連して、現時点での私の理解、ないし思い付き的な気付きを以下に書いておきます。
今後、仏教について学んでいく時の検討項目になるかもしれないと思うからです。
・「一切皆苦(世界の全ては苦)、苦の原因は煩悩」と一般に言われていることが、理解を難しくしているのではないでしょうか。全ての苦しみが煩悩によって起こるとは言えないと私は思うのです。
・釈迦が言いたかったこと、したかったことは、
   ①人間は肉体と心が混ざり合い影響し合って出来ている。もしくは肉体を依り代として心が住みつき、心が変化していく、「心的変化が人間」ということを言いたかったのでは?
   ②心的苦しみがどうして発生するのかを明らかにしたかったのでは?

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2025年10月27日 (月)

「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第9回:釈迦の思想(四諦、八正道)

●釈迦の思想のベース
釈迦(ブッダ)が出家をしようと考えた「きっかけ」は、釈迦が都の4つの門から外出した時に、それぞれの所で老人・病人・死人・出家者を見たことと言われています。
この話は一般に「四門出遊」として知られています。
この話から言えることは、釈迦に出家を促した直接の動機は民衆の苦しみに対する深い同情だったということです。
当時、多くの修行僧が求めていた自分自身のみの救済とは全く目的が違うものでした。
釈迦は、全ての生きものに対する同情の念(慈悲)を基に、あらゆる人間の(精神的)救済を行なおうとしたのです。
この精神的に救済され、心が安らぐ状態のことを「覚り」と捉えると分かり易いです。

●覚りへ至る道
釈迦が説いた「覚りへ至る道」の内容は「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」です。
四諦の「諦」は、「アキラメル、断念する」の意味ではなく、「あきらかにする、あきらかなもの、まこと、真理」の意味です。
四諦とは、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つの真理のことで、それぞれの意味は次の通りです。
①苦諦(くたい)・・・「迷いの生存」は苦であるという真理です。
「迷いの生存」とは、この世のものごとが因縁果で全て結びついているという真実を知らないで生きていることです。
なお、一部の仏教解説書では「苦諦を、“人生皆苦、この世は苦に満ちている”という真理」と説明しているものがありますが、私はこの解釈では救いが感じられず、受け入れることが出来ません。
釈迦も精神的な救済をしようとして、煩悩の撲滅ということに思いが至ったのだと思います。
②集諦(じったい)・・・苦の原因は渇愛のような煩悩であるという真理です。渇愛とは、喉が渇いた人が激しく水を求めるような激しい愛着のことです。
③滅諦(めったい)・・・渇愛が完全に捨て去られたときに苦が死滅するという真理です。
④道諦(どうたい)・・・苦の死滅に至る道筋が八正道にあるという真理です。
この四諦、苦集滅道は次のように解釈すると分かり易いです。
苦は苦しみが溢れているという病気の症状、集は病気の原因、滅は病気の回復、道は病気の治療方法と理解できます。
八正道とは、苦の死滅に至る道筋、煩悩の消滅を実現するための八つの道のことです。
八つの項目の簡単な説明文は、左側が浅野孝雄著『ブッダの世界観』、右側の( )書きが仏教学者の佐々木閑著『100分で名著 般若心経』からのものです。
①正見・・・・正しい見解   (正しいものの見方)
②正思・・・・正しい思惟   (正しい考え方をもつ)
③正語・・・・正しい言葉   (正しい言葉を語る)
④正業・・・・正しい行い   (正しい行いをする)
⑤正命・・・・正しい生活   (正しい生活を送る)
⑥正精進・・・正しい努力   (正しい努力をする)
⑦正念・・・・正しい思念   (正しい自覚をもつ)
⑧正定・・・・正しい精神統一 (正しい瞑想をする)
以上が四諦と八正道の説明ですが、八正道は八個も項目があるので、ちょっと理解しづらいです。

●参考・・・八正道と三学
そこで、参考として八正道の項目を三つのグループに分けてみます。
そうしますと、八正道が仏教でいうところの「三学」になることが分かります。 
八正道の、③正語(正しい言葉を語る)、④正業(正しい行いをする)、⑤正命(正しい生活を送る)の三項目は、「悪いことをせず、善いことを行なう」というグループにまとまります。
次に八正道の、⑥正精進(正しい努力をする)、⑦正念(正しい自覚をもつ)、⑧正定(正しい瞑想をする)の三項目は、「精神を統一し、思いが乱れないようにする」というグループにまとまります。
最後に八正道の、①正見(正しい物の見方)、②正思(正しい考え方をもつ)の二項目は、「静かになった心で、正しく真実の姿を見極める」というグループにまとまります。
これら三つのグループは順に、戒(かい)、定(じょう)、慧(え)と呼ばれ、それらを学ぶことを戒学(かいがく)、定学(じょうがく)、慧学(えがく)と言います。
そしてこれらの三つを合わせて「三学」と言います。
三学とは、仏道を修行する者が必ず修めるべき三つの基本的な修行の項目です。
三学の戒学、定学、慧学は次のような関係にあります。
戒を守り生活を正すことで、精神的に安定し(定:じょう)、安定して澄んだ心によって智慧を発する。
智慧は真理を悟り悪を断ち、生活を正し、仏教が体現されていく。
★私見・・・上記から、八正道は三学そのものであり、仏教の習得・実践の必修科目と言えそうです。

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