「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第16回:人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか(1)
●奈良の観光巡りから行きついた先
私は観光気分で奈良の寺巡りを始めました。そして寺に関係して必死に生きた人たちに出会い、その人たちを動かしていたものが仏教と気付きました。そのため、仏教というものがどんなことを言っているのか知りたいと思うようになりました。
人はなぜ死ぬのか、なぜ病気になるのか、と考えるようになりました。どうせ死ぬのなら、なぜ生まれて来るのでしょうか。なぜ皆が老衰で死亡せず、多くの人が病気になりって死んでいくのでしょうか。老人は幸せになれないのでしょうか。
●仏教で見つけた2つの答え
上記の疑問への答えとして、仏教は次のようなことを述べているのを知りました。
1つは十二支縁起と四諦(したい)の一般的な説明から出てきたものです。その内容は、この世はひたすら苦しみであり、苦しみを生み出す原因は煩悩であり、煩悩のせいで様々な良からぬ状態が連鎖的に起こり、最後には堪えがたい「老死」に至る、というものです。
もう1つは施身聞偈(せしんもんげ)の解釈から得たものです。施身聞偈の偈文は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」であり、その意味は、「全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則なのです。そのことを悟り、欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるのです」というものです。
ある意味、相反する答えが述べられています。一方は「堪えがたい老死に至る」というものであり、もう一方では「変化・消滅が世の法則なのだから、そのことを知り、納得し、受け入れた時、心は安らかになる」というものです。
●私は心情的に「施身聞偈の考え」派
「老死」に対する十二支縁起と四諦による考えも、煩悩を消せば救われると教えています。しかし「老死」が苦しみの最たるものと捉えていることが、私には受け入れ難いのです。
以前に私は、鮭が産まれた川を上流へと遡っていって産卵し、産卵を終えると死んでしまうという映像を見た記憶があります。そのためのような気がしますが、死は次の世代を産むためにあるのではないか、死は命のバトンタッチという価値あることをしているのではないか、と思うようになりました。
施身聞偈の考えは、何もかもが変化・生滅していくことを受け入れなさい、というものです。変化・生滅という世の理(ことわり)を知り、言い換えれば宇宙の摂理というものをあるがままに認識して受け入れ、生きていきなさいという教えです。
私は心情的に「施身聞偈の考え」の方が良いように思いました。「老死」を「苦」と捉える度合いを少なくし、「当然にあるもの」「抗(あらが)えないもの、抗う必要のないもの」という捉え方をしているためです。
そして、そこから発展して、「もしかして人は成長・発展するために死ぬのではないか?」と思うようになりました。
| 固定リンク















