「仏教の一端を学び、考える」シリーズ 第25回:キーワードは変化?
●仏教の「五蘊」の隠喩
・本シリーズの「第10回:釈迦の思想(五蘊、十二支縁起)(1)」 で述べたように、釈迦の人間の捉え方は、人間は五蘊(ごうん。色、受、想、行、識)で出来ているというものでした。
・これは、人間は「実体として固定的にあるもの」(哲学での専門用語は「実体の存在論」)ではなく、感じたものが次々と蓄積され影響し合って気づきが出来、行動していくものだという捉え方です。「変化体としての存在」(哲学での専門用語は「プロセスの存在論」)と言えるでしょう。
・実は、五蘊には隠喩(隠されたたとえ)があります。蘊(うん)は原語のサンスクリット語ではスカンダーであり、意味は「集まり、集合、薪(まき)の束」です。そのため、五蘊とは「5つのものの集まり」と言えますが、ここで注目したいのは「薪(まき)の束」の意味があることです。釈迦は五蘊に「燃えるもの」というイメージを含ませているのだと言われています。
・人間が「変化体としての存在」であり、「燃えるもの」であるなら、それは私が思い付きと述べた「宇宙は循環生成していくが、それは宇宙の構成要素(もしかしたらそれはエネルギー?)が燃焼し変化して行っているのではないか」に繋がるように思います。人間も(万物も)燃焼し変化して行っていると考えられます。
・そして、現代の宇宙科学でも「変化体としての存在」が言われています。宇宙はビッグバンがあって以降、何億光年もの長い間、変化し続けているとのことです。変化体としての宇宙、その宇宙の一つの星である地球に住む人間や万物も変化体であり、燃焼しているもの、なのではないでしょうか。
●諸行無常と「縁起の法」
・諸行無常とは本来、「あわれ」の意味ではなく「万物変化」、すべての物や事柄が変化していくとの意味です。また、「縁起の法」とは「因縁果」のことで、直接の原因、間接的に影響を与えるもの、結果の3つが相互に幾重にも結びついていることを述べています。
・諸行無常と「縁起の法」は深く関係していて、それぞれのものが因になり縁になり果になり、また果が因となって、無限に繰り返され、種々変化していくのです。
・仏教では、キリスト教のような全知全能の神がいて万物を創造する、ということは説かれていません。すべてのものごとが変化、因縁果によって出来、そして無くなっていきます。
・こうして考えてきますと、仏教の思想も私という人間の「生と死」も、それを理解するキーワードは「変化」と言えそうです。
●「命の輝き」になぜ感動するのか
・すべては変化して行く。いつかは皆、死んでいく。無に帰すと思うのに、命が輝いていることに感動するのは何故なのでしょうか。私は、とてつもなく長い宇宙の時間の中で、極端に短い時間を生きている人間や生物だからこそ、生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいというDNAが組み込まれているのではないかと思うのです。一瞬一瞬が価値あるものでなければ、長い宇宙の時間も価値の低いものになってしまうからです。
・何も考えない人もいるでしょう。生きている瞬間に輝きたい、自分の持てる能力を精一杯発揮したいなどと思わない人もいるでしょう。
・しかし、多くの人は満開の桜を見て美しいと感じるでしょうし、ウグイスの鳴き声を心地よく聞くでしょう。そして種々の分野で活躍する人たちの成果に拍手をします。それぞれの得意な分野で能力を発揮し役割を果たす物たちや人たちに賛辞を送り、喜びを共有します。これは、それぞれが適切なことをしているためでしょう。役割を果たすということは利他行と同じだと私は思います。
・それぞれの物たちや人たちの一瞬の輝きは素晴らしいものです。そして、輝きの一瞬一瞬の繋がりが人間の命や万物の本質(エネルギーの燃焼・変化?)であることを表しているのではないでしょうか。私にはそのように思えるのです。
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