2026年7月27日 (月)

高松塚古墳とキトラ古墳の魅力

●高松塚古墳

   ・高松塚古墳は石室の壁面に極彩色の壁画があることで有名です。50年以上前の1972年に発掘で壁画が発見され、ビッグニュースとなりました。

   ・壁画が発見された当時、古墳は竹が生えていた小山だったと記憶しますが、現在は奇麗に整備されて2段式の円墳であることがよく分かるようになっています。

   ・また、壁画はカビなどでの劣化を防ぐために文化庁による修復と保存管理が行われ、現在は年に数回一般公開が行われています。

   ・古墳の隣には高松塚壁画館があって、年末年始を除き、模写された壁画が見られます。北壁の玄武、西壁の男子群像・白虎・月像、女子群像、東壁の男子群像・青龍・日像、女子群像です。そして天井には星座の図が描かれています。なお、南壁に有ったはずの朱雀の絵は盗掘穴のために壊されていて、模写できなかったのだと思われます。

   ・これらの図の「現状模写」と「一部復元模写」が展示室の左右の壁面に掲げられて見応えがあります。「現状模写」は壁画が発見された時の姿をそのまま模写したもので、「一部復元模写」は剥落や汚れに若干の手を加えて模写したものです。水漏れによって壁面に付いたと思われる茶色い汚れがかなりの大きさで描かれ、その側に赤や緑や黄の色の服を着た人物や、四神の玄武や青龍などが描かれ、迫力があります。

   ・また、「飛鳥美人」と一般に呼ばれる西壁の4人の女子群像は、「再現模造模写」がされています。実物と同じように凝灰岩に漆喰を塗り、色鮮やかな絵が描かれています。

   ・そして棺が納められていた石槨(せっかく。一般的に石室より狭い)を復元した石槨模型が展示されています。模型に作られてある盗掘穴から石槨の中を覗き見た時、私は背中がゾクゾクとしました。恐ろしかったのではく、古代の墓の状況が真に迫って感動したのです。

   ・被葬者は分かっていません。天武天皇の皇子という説が有力とのことですが、決め手を欠きます。どうしてこのような立派な壁画のある古墳が造られたのか、はたまた他の天皇や権力者の古墳などではどうして壁画がほとんど発見されないのか、私にはそちらが気にかかります。

   ・高松塚バス停のところに国営飛鳥歴史公園館というものがあります。ここは現在(2026年7月)リニューアル工事中で入館できないのが残念ですが、高松塚周辺地区をはじめ飛鳥エリアの見所や歴史などをパネル展示しています。飛鳥に関する本なども置いていて、情報収集基地として役に立ちます。

●キトラ古墳

   ・キトラ古墳は高松塚古墳の南、約2キロメートルのところにある2段式の円墳で、高松塚古墳に続き、大陸風の壁画が発見されました。

   ・きれいに整備された古墳の周辺には、壁画の絵が描かれた乾拓板というものがあって、乾拓板に紙を載せ、鉛筆などでこすると簡単に拓本が作れます。

   ・古墳から少し坂道を下っていくと「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」があり、1階の文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設では期間限定、事前登録制で実物の壁画を見ることが出来ます。

   ・地下1階の展示室ではキトラ古墳石室模型が展示され、古墳がどのようにして造られたのか工事過程を画像で教えてくれます。また、精密映像でキトラ古墳の壁画を見せてくれます。四神の青龍・朱雀・白虎・玄武、獣頭人身の十二支像、そして現存する世界最古の科学的なものと言われる天文図です。

   ・これら以外にも地下1階の展示室には興味深い展示がされています。例えば、古代遺跡の発掘や保存に関するパネル展示や、古渡(こわたり)や今来(いまき)など古代の日本へやってきた渡来人のことを説明し、今来の人たちが種々の技術を日本へもたらしたことの説明表示です。

   ・被葬者は特定されていません。高松塚古墳の被葬者かもしれないと言われる人も、キトラ古墳の被葬者候補と推定されていますので、両古墳はほぼ同時代に造られたものと言えます。

   ・四神の館に向かって左手の道を登っていくと展望台があり、北の方角に檜隅(ひのくま)の森や明日香村、そして畝傍山などが眺められます。檜隅は渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやし)が住んでいた場所ですから、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の展示室にパネル表示されていた今来(いまき)の人たちの日本への貢献を改めて感じさせられます。

●画像

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高松塚古墳の東壁の現状模写

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「飛鳥美人」と呼ばれる
西壁の女子群像の再現模造模写

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キトラ古墳

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乾拓板の使い方の説明版

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「四神の館」展望台から
北の方角を眺める

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2026年7月26日 (日)

世界遺産登録決定&藤原宮跡の魅力

●<特別挿入記事>「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録決定

   ・本日(2026年7月26日)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産登録が正式に決定しました。登録推進に取り組んできた関係各機関と関係者の20年越しの悲願が叶って良かったです。

   ・文化遺産としての世界遺産登録を喜ぶと同時に、登録に当たってのメインテーマ「『日本国』の形成と成立」の真の内容について、しっかりと日本国内や世界の人々に伝えていかなければならないと思いました。

   ・「飛鳥・藤原の宮都」は、世界最古の木造建築の「法隆寺地域の仏教建造物」や、日本における近世城郭の代表的遺構と言われる「姫路城」と違って、大きな目立つ建造物は少なく、主に地中に眠っている遺跡の文化遺産です。そのため、ややもすると真の価値が分からず、「飛鳥・藤原の宮都」訪問者の満足度が低くなることが心配されます。

   ・飛鳥京における推古天皇や聖徳太子たちの国造り(形成)と、藤原京における持統天皇や藤原不比等たちの国造り(成立)を、歴史と人間ドラマの両面から伝え、現代に役立てていく必要があると考えます。

「飛鳥・藤原の宮都」の資産の魅力>

●藤原京と藤原宮跡

   ・藤原“京”は飛鳥時代に日本で最初に造られた本格的な都で、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる場所にありました。都の建設にあたっては、道路が南北と東西に碁盤の目状に走る条坊制が取り入れられました。

   ・藤原“宮”は藤原京の中心にあった宮殿です。その後に造られる奈良の平城京や京都の平安京は、宮殿が都の北側に設けられるのですが、藤原京では宮殿が都の中ほどに設けられています。

   ・中国の古い技術の本『周礼 考工記』に、宮殿は都の中心部に造るということが書いてあるとのことなので、その情報が日本へ入ってきていたのかもしれません。あるいは、これは私の推測ですが、大和三山(耳成山、天の香久山、畝傍山)を背面と左右両翼に配置して宮に威厳を持たせようとしたのかもしれません。

   ・藤原宮では持統、文武、元明の3代の天皇が政治を行いました。それまでは概ね天皇が変わるたびに宮を変えていましたから、本格的な都造りの結果と言えます。   

   ・また、藤原不比等の働きなどのよって、この時期に大宝律令が制定されたり、初の流通貨幣である和同開珎が鋳造されたりしていますから、「『日本国』の形成と成立」が大きく進んだと言えると思います。

●大和三山が見える

   ・藤原宮跡に立つと大和三山がよく見えます。北には優しい円錐形の耳成山、東には、なだらかな天の香久山、西には片側が少しくびれた個性的な形の畝傍山です。大和三山を見ると、『万葉集』の有名な妻争いの歌を思い出します。「香久山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」。

●朱の列柱

   ・現在の藤原京跡には朱の列柱が何本も建っています。宮殿の門をイメージして建てられたものですが、背景の大和三山の緑と相俟って美しく、広々とした空間を感じることが出来ます。

●桜と菜の花の春、コスモス咲く秋

   ・藤原宮跡は花が奇麗です。特に春の桜と菜の花が咲く春、コスモスの咲く秋が私は好きです。カメラを持って写真を撮るのに良い場所です。

●橿原市藤原京資料室

   ・藤原宮大極殿跡のすぐ近くに橿原市藤原京資料室があります。ここには藤原宮の1000分の1復元模型が展示されています。藤原京の全体像を把握するのに非常に有益ですので、立ち寄って見学されることをお勧めします。

●画像

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藤原宮朱雀大路跡の説明版

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藤原宮跡の列柱と耳成山

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桜と菜の花が奇麗な春の藤原宮跡

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コスモスが咲く藤原京跡と天の香久山

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2026年7月24日 (金)

山田寺跡の魅力

●山田寺跡の世界遺産登録申請理由

   ・「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録の申請理由・価値は「『日本国』の形成と成立」であり、その中のカテゴリーの1つが【仏教寺院跡・・・国家宗教としての仏教寺院の成立】です。

   ・そして、「国家宗教としての仏教寺院の成立」の形成の過程として、①仏教の受容、②氏寺の成立、③国家寺院の成立、と3つに分類されていて、山田寺跡は②の氏寺の成立の史跡と位置付けられています。

●広々とした山田寺跡地

   ・奈良県桜井市から明日香村へ向かう旧山田道のすぐ近くに、広々とした空き地の山田寺跡があります。とても広い空き地で芝生のような草が生えています。遠くに丘と民家が見え、大きな空間が感じられました。

   ・空き地の中央は1メートルくらい高くなっていて、金堂の基壇と思われます。その南側に「史蹟山田寺阯」と彫られた石柱が立っています。

   ・この場所に、昔、南門、中門、金堂、講堂が中軸線に並ぶ百済方式の伽藍配置の寺が建っていたと言われてきたのですが、近年の発掘で、百済方式と若干違う伽藍だったということが分かったとのことです。

●驚きの発掘、東側回廊

   ・山田寺跡の発掘調査で驚くべきものが出土しました。平安時代の土砂崩れで倒壊したと思われる東側回廊の一部が地中から出てきたのです。木製の柱や連子窓などで、腐らなかったのが不思議です。世界で最も古い木造建築と言われる法隆寺金堂よりも前の7世紀半ばの建築部材で、専門家によると、初期の仏教建築の様子が分かる貴重な遺物とのことです。

   ・発掘された柱や連子窓は保存処理がなされて、山田寺跡から徒歩で約10分の飛鳥資料館に展示されています。

●蘇我倉山田石川麻呂の人生

   ・山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺です。より厳密に言えば、建て始めた寺です。

   ・石川麻呂は蘇我一族で、蘇我馬子は石川麻呂の祖父、蘇我入鹿は石川麻呂の従兄弟にあたります。石川麻呂は蘇我一族ですが、当時権勢を誇っていた蘇我蝦夷・入鹿親子を良く思わなかったのか、乙巳の変では中大兄皇子(後の天智天皇)の側について蝦夷・入鹿親子を倒します。

   ・乙巳の変後、石川麻呂は新政権で右大臣になりますが、讒言によって謀反を疑われ討伐の軍を向けられます。そして石川麻呂は討伐軍と戦わず自害します。中大兄皇子は石川麻呂の無実を知り、疑ったことを後悔した、と『日本書紀』に書いてありますが、真実はどうだったのでしょう。

●山田寺の建設中断、建設再開、完成

   ・ともあれ、石川麻呂の自害によって山田寺の建設は中断され、天智天皇のときに再開され、天武天皇のときに寺は完成します。

   ・石川麻呂が亡くなった後も寺の建設が行われたのは、中大兄皇子と石川麻呂の娘との間に産まれた鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ。天武天皇の皇后。後の持統天皇)の存在が大きく影響したのだろうと言われています。

●興福寺の国宝館にある山田寺仏頭

   ・山田寺跡へ行くと私は必ず思い出すことがあります。それは「飛鳥・藤原の宮都」の時代から時が大分経ってからの話ですが、山田寺の本尊だった薬師如来像の仏頭、顔だけの像が奈良の興福寺へ運ばれていることです。

   ・現在、興福寺の国宝館に「銅造仏頭」との名称で展示されていますが、凛々しい顔をしていて素晴らしい仏像です。山田寺の開基の蘇我倉山田石川麻呂も数奇な運命、本尊の仏像も数奇な運命をたどっています。

   ・書家で詩人でもある相田みつを氏が「こんな顔で ~山田寺仏頭によせて~」という胸にジーンとくる詩を書いています。

●参考情報

   ・山田寺仏頭については、拙著『奈良のこころ(2)』の「山田寺跡と仏頭」に若干詳しく書いています。

   ・詩「こんな顔で ~山田寺仏頭によせて~」は、相田みつを著『にんげんだもの』に掲載されています。

●画像

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山田寺跡

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発掘された柱や連子窓の展示

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蘇我倉山田石川麻呂の系図

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2026年7月21日 (火)

向原寺(豊浦宮跡、豊浦寺跡)と甘樫丘の魅力

●向原寺(豊浦宮跡、豊浦寺跡)

   ・向原寺(こうげんじ。豊浦宮跡、豊浦寺跡)も甘樫丘(あまかしのおか)も「飛鳥・藤原の宮都」の19の関連資産に入っていませんが、歴史的に大変重要な場所です。

   ・現在、向原寺(こうげんじ)という寺が建っている辺りは、飛鳥時代に仏教受容に関して争いが行われた場所です。

   ・『日本書紀』によれば、百済の聖明王から欽明天皇に贈られた仏像を蘇我稲目(そがのいなめ。蘇我馬子の父)が引き受けて自分の向原(むくはら)の家に祀りました。まもなく疫病が流行ったため、その原因は異国の神を祀ったことだと言って、物部尾輿(もののべのおこし。物部守屋の父)がその家を襲って焼き払い、仏像を難波の堀江に捨てました。いわゆる崇仏派と廃仏派の争いです。

   ・その後、この地は推古天皇の初期の宮である豊浦宮(とゆらのみや)となり、推古天皇が小墾田宮(おはりだのみや)に移ってからは豊浦寺(とゆらじ)となりました。

●勘違いしていた「難波の堀江」

   ・恥ずかしい話なのですが、私は向原寺(豊浦寺跡)の現地へ行くまで「難波の堀江」について誤った理解をしていました。「難波の堀江」を「大阪難波の堀」のことと思っていたのです。どうしてそんな遠い所まで捨てに行ったのだろうと疑問に思っていました。

   ・現地へ行って、難波池というものがあり、そこが「難波の堀江」と言い伝わっているという説明版を見て、疑問が解けました。ここに仏像を捨てたのだと分かったわけです。

●甘樫丘

   ・甘樫丘は明日香村にある丘陵で広さは南北が約1キロメートル、東西が数百メートルです。そのため飛鳥寺や橘寺など明日香村の主要な場所から甘樫丘は見ることが出来ます。

   ・逆に、丘の上の展望台から眺めると、東の方には飛鳥の平地と東方の山々が見え、西の方には藤原京跡や大和三山、橿原市街が見えます。眺望抜群で、古代でも戦略的価値の高い場所だったろうと推測されます。

   ・丘の麓には、乙巳(いっし)の変で滅ぼされる前の蘇我蝦夷・入鹿親子の家があったと言われています。また、倉庫らしい建物の焼けた跡も東麓で発掘されています。入鹿が討たれた翌日に蝦夷が「国記、天皇記、珍宝を焼く」と『日本書紀』に書かれていたことが思い出されます。

   ・甘樫丘の北西麓には甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ、あまかしにいますじんじゃ)があります。飛鳥時代より時代が遡りますが、熱湯の中に手を入れて「火傷の有る無し」で正邪を判断する呪術的裁判「盟神探湯」(くがたち)が甘樫丘で行われていたということで、甘樫坐神社ではその様子を現代に復活して伝えています。

   ・盟神探湯は古代の情景が想像される興味深いものですが、これも甘樫丘が飛鳥の地で信仰的な面でも中心的な位置にあったからこそそこで行われたのでしょう。

●画像
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向原寺

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豊浦寺跡の石碑

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難波池の説明版

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甘樫丘から見る早朝の畝傍山

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甘樫坐神社

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盟神探湯の説明版

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2026年7月18日 (土)

小墾田宮跡(推定地)の魅力

  ●「飛鳥・藤原の宮都」の19の関連資産ではないですが

   ・小墾田宮跡(おはりだのみやあと)の推定地は「飛鳥・藤原の宮都」の19の関連資産に入っていませんが、歴史的に大変重要な場所です。

   ・小墾田宮は推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子たちと政治を行っていた宮で、冠位十二階や憲法十七条の制定、そして遣隋使の派遣などを実施しました。

   ・冠位十二階はそれまでの氏族制度に風穴を開け、能力による人材活用の道を開くものでした。憲法十七条は「和を以って貴しと為す」など国家運営の理念を掲げ、政府役人の勤務のあり方などを示しました。また遣隋使は大国の隋と直接交流して、隋の優れた制度や技術や文化を取り入れる行動でした。これらはその後の日本発展に大きな功績となるものでした。

   ・それなのに何故、小墾田宮跡は「飛鳥・藤原の宮都」の関連資産にならなかったのでしょうか。推定地であり、確定地でないからかもしれません。小墾田宮跡(推定地)はただの野原であり特別な建造物などがないためでしょうか。また、聖徳太子に関係する世界遺産として既に奈良県斑鳩町の「法隆寺地域の仏教建造物」がなっているため、「飛鳥・藤原の宮都」では意識的に聖徳太子の色を消し、律令制による国家の成立をアピールしたのかもしれません。

   ・私は、「律令制による日本の成立」は日本の歴史の画期となるものだと思っています。その意味で「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が律令制に関係するもので選ばれるのも分かる気がします。しかし、律令制の時代よりも前に、国家運営の理念を掲げ、人材を広く登用し、隋を始めとする諸外国と交流して諸制度や技術や文化を取り入れようとした、推古天皇や聖徳太子たちの治世は高く評価されるべきです。

   ・そのため、小墾田宮跡(推定地)は「飛鳥・藤原の宮都」巡りの際に是非とも訪れて頂きたい場所です。古代に、この人たちはどのような国造りをしようとしたのか、それは現代にどのようなことを語りかけて来るのか、それらに思いを馳せて頂きたいです。

●かつて小墾田宮跡(推定地)だった古宮遺跡

   ・明日香村豊浦(とようら)にある古宮遺跡は近年まで小墾田宮跡の推定地でした。しかし発掘調査によって推古天皇時代の庭園遺跡であることが判明しました。現在は遺構らしいものとして古宮土壇があり、1本の榎の木が風情ある形をなしています。

   ・遺跡の一部の場所が今は豊浦駐車場というものになっていて、そこに古宮遺跡の説明版が立っています。

●現在、小墾田宮跡(推定地)として有力な雷丘東方遺跡

   ・現在、小墾田宮跡(推定地)として最有力なのは雷丘(いかづちのおか)東方遺跡です。明日香村大字雷(いかつち)にある雷丘の周辺の発掘調査により、飛鳥時代や奈良・平安時代の掘立柱建物や塀などが発見されました。そして奈良時代の井戸から「小治田宮」や「小治宮」と書かれた土器が数多く出土しましたため、ここが小墾田宮跡(推定地)として最有力視されるようになりました。

●明日香村埋蔵文化財展示室

   ・雷丘東方遺跡のすぐ南に、地元の農産物等が気楽に買える売店「あすか夢の楽市」があります。一寸した休憩と土産物買いのために立ち寄る人も多いですが、売店に気を取られて見落とさないで頂きたいのが、売店の右隣の「明日香村埋蔵文化財展示室」です。

   ・旧飛鳥小学校の校舎を利用した、親しみが感じられる展示室です。明日香村内で発掘された物や飛鳥時代の衣装などが展示されています。

   ・なかでも特筆すべきは、雷丘東方遺跡の奈良時代の井戸から発見された、「小治田宮」と墨書された土器が展示されていることです。小墾田宮跡を推定する鍵となった土器を目の当たりにして、私は古代に直結した感覚になりました。

●参考情報

   ・冠位十二階の制定については、朝皇龍古著の小説『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・前編)』の「九、冠位十二階」に、憲法十七条の制定については、同じく「十、十七条の憲法」に詳しく書かれています。

   ・また、遣隋使の派遣については、朝皇龍古著の小説『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』の「十一、東都落葉と西都大興」にドラマチックに描かれています。

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古宮遺跡

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雷丘周辺(雷丘東方遺跡)
*小墾田宮跡(推定地)

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「小治田宮」と墨書された土器

 

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2026年7月16日 (木)

石舞台古墳の魅力

飛鳥のシンボル的場所

   ・飛鳥と言えばすぐに石舞台古墳の姿が思い出されます。それほど飛鳥を代表する景観でした。大きな岩石が積み上げられて、上部が剝(む)き出しになった横穴式石室の古墳です。古墳は露出している大きな2つの岩石が、見る角度によって、横たわった人の頭と胴体に見えます。

   ・近年に周辺が整備された石舞台古墳は、空堀に囲まれた広々とした地面に大きな岩が鎮座し、西方遠くに二上山の雄岳・雌岳の特徴的な稜線が眺められます。

   ・石室内に入ると、いかに大きな古墳であるか、いかに大きな岩石が積み上げられているかが実感できます。

●「石舞台」という名の謂(いわ)れ

   ・「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊っていたから石舞台と言われるようになった」との面白い説がありますが、これはあくまで伝説で後世の作り話でしょう。

   ・変わって真実味があると思うのは、石舞台古墳のことを地元では「石蓋」(いしぶた)と呼んでいた、それが石舞台に転化したのではないか、との説です。

●冬の石舞台古墳

   ・明日香村にうっすらと雪の積もった日、私は石舞台古墳へ行ったことがあります。厚い雲に覆われていた天が少しずつ明るくなって、日が差してきました。石舞台古墳の上に積もった雪が徐々に融けていっているようです。私はその情景に「古代、日本の黎明期」を感じました。

●盛土の取られた古墳

   ・石舞台古墳も元々は盛土に覆われた古墳であったはずですが、文献に初めて出て来る江戸時代には既に盛土が取られ、石室が剥き出しになっていたとのことです。盗掘に遭って、埋葬品はほとんどありませんでした。石棺もなく、石棺の欠片などがわずかに有っただけでした。

●蘇我馬子の墓?

   ・被葬者は蘇我馬子とする説が有力です。馬子は島の庄(しまのしょう)というところに邸宅を構えていましたが、石舞台古墳のあるところがほぼ島の庄であるためです。また『日本書紀』に馬子は「桃原の墓」に埋葬されたと書いてあり、桃原とはこの島の庄のあたりをいうためとのことです。

   ・それにしても、なぜ石舞台古墳がこれほど盛土を取られ、剥き出しになっているのでしょうか。私には疑問です。日本には数多くの古墳がありますが、これほど剥き出しになった古墳は少ないです。いくら盗賊に盗掘されたといっても、盛土を徹底して剥ぐほどの、土木工事ともいうべき行為が出来るものでしょうか。石棺も欠片が残っているだけとは・・・。

   ・多くの人数の皆でやったか、権力者の指示でやったかでなければ、このような大盗掘は出来ないように思うのです。それとも、古代ないしその後の時代に、古墳の盗掘は日常茶飯事で、誰もそれを止めることはしなかったのでしょうか。

   ・ともあれ、被葬者が蘇我馬子であれ、その他の人であれ、日本の歴史が始まる時期の有力者が葬られ、墓を暴かれ、荒らされた状態を前にして、歴史の移り変わりを深く感じるのです。

●画像
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石舞台古墳

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石舞台古墳遠望

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雪の石舞台古墳

 

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2026年7月15日 (水)

橘寺跡の魅力

●一説では聖徳太子誕生の地

  ・橘寺は聖徳太子が誕生した場所であると言われています。実際、バス通りから寺の西門へ行く道の角には「佛法最初 聖徳皇太子御誕生所」と彫られた石標が建っています。しかし、太子が産まれ育った所と言われるものは他に何か所もあって、どれが正しいか分かっていません。

  ・橘寺の寺伝によれば、橘寺はもともと欽明天皇の別宮の「橘の宮」があったとのことですが、発掘された瓦などから考古学的に判断すると、創建時期は7世紀の第1四半期で、本格的な宮ないし寺が建てられたのは7世紀の半ば以降とのことだそうです。

●勝鬘経を講義した場所との伝承あり

  ・橘寺は、聖徳太子が推古天皇等に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義した場所と言われています。後の時代に作られたものだと思いますが、橘寺の境内には、太子が勝鬘経講義をしたときに、日、月、星の光を放ったと伝承される「三光石」というもあります。

  ・『日本書紀』には聖徳太子が勝鬘経の講義をしたとは書いてありますが、どこでしたかは書いてありません。私が興味深く感じるのは、日本古来の自然崇拝の中心人物ともいえる推古天皇などに、太子が仏教の勝鬘経という経典の内容を講義していることです。勝鬘経は古代インドの東方にある国の王妃であった勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が、仏教に帰依し、教えの実践を約束する経典ですから、推古天皇やそれに連なる王族の女人たちは太子の講義内容をどう聞き、どう学んだだろうか、と思いを馳せています。

●聖徳太子は黒駒に乗って飛鳥と斑鳩を行き来

  ・また、橘寺の境内には聖徳太子の愛馬の「黒駒」の像が建っています。太子が黒駒に乗って空を飛び富士山を越えたというのは荒唐無稽な作り話ですが、黒駒に乗って斑鳩と飛鳥を往復していたということは事実だと思います。太子の飛鳥での拠点が「橘の宮」だったという可能性はあるでしょう。

  ・それというのも、当時に「太子道」もしくは「筋違道(すじかいみち)」と呼ばれる道が、飛鳥と斑鳩をほぼ直線で結んで造られていたからです。斑鳩の主要建造物は真南に向いてなくて西傾約20度で南東に向いていました。道は幅が広かったことが発掘調査で分かっています。飛鳥と斑鳩で連携して当時の政治を行っていたことが推測されます。

参考情報・・・朝皇龍古著『飛鳥から遥かなる未来のために(白虎・後編)』の「四、勝鬘経の教え」に、聖徳太子が勝鬘経を講義する様子が丁寧に描かれています。

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「聖徳皇太子御誕生所」の石標

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橘寺境内にある「三光石」

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黒駒の像

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斑鳩の主要伽藍は西傾約20度

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斑鳩主要伽藍の傾きの先、南にあるもの

 

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飛鳥寺跡の魅力

●歴史的および人間ドラマ的観点での魅力

   ・「飛鳥・藤原の宮都」の関連資産群は「『日本国』の形成と成立」というテーマで括られ、特に律令制との関わりで宮殿の形成・成立や墓制の変化が取り上げられています。その考え方のベースは、一般に日本の正史と言われている『日本書紀』の記述内容でしょう。

   ・律令制が「『日本国』の形成と成立」に大きく貢献したことは間違いないですが、歴史的偉業は一朝一夕に出来るものではなく、そこには先人たちの弛(たゆ)まぬ努力と人間ドラマがあったはずです。

   ・そういう観点で「飛鳥・藤原の宮都」の資産の魅力を考え、記していきます。

●飛鳥寺跡の魅力

   ・飛鳥寺は飛鳥時代に日本で最初に建てられた本格寺院で、当時は法興寺と呼ばれていました。寺には日本最初の大仏が安置されていて、通称で飛鳥大仏と言われています。顔が北方系の角張ったもので、火災の被害を受けたのだろうと思われる補修の跡が見られます。この大仏は安置されて以来、ここの場所から一度も他へ動かされたことがないそうです。

   ・また、飛鳥寺の境内を発掘調査した結果、塔を囲む形で三つの金堂が建つ「一塔三金堂式」の伽藍配置の立派な寺であったことが分かりました。

   ・法興寺は、蘇我氏が寺院建設の土地を提供したことや、蘇我馬子の長男の善徳が寺司(てらつかさ)になったことで、法興寺は蘇我の氏寺であると一般に言われています。

   ・しかし、蘇我の氏寺というより国家プロジェクトとして建てられた寺と考えた方が良いようだ、と私も最近思うようになりました。そう思うようになったきっかけは、古代史研究家で作家の朝皇龍古氏との対談でした。

   ・「法興寺は国家プロジェクトとして建てられた寺」と考える理由は、①百済や高句麗などから来た大工や瓦を焼く職人たち、当時の多くの高度技術者を法興寺建設に投入していること、②高句麗から外交的思惑もあって大和政権に寄贈された黄金三百両が、仏像を造るために使われていること、③聖徳太子の仏教の師となる高句麗僧の慧慈(えじ)や、日本に仏教を広める百済僧の慧聰(えそう)は、法興寺を拠点として生活し活動していたことです。

   ・飛鳥大仏は日本で初めての大仏なのに、なぜ国宝でないのかという質問をよく受けます。答えは「補修部分が多いから」というのが通常のものです。ただし近年の調査で、これまで思われていたより補修部分は少ないということが分かりました。また、これまで逆臣として悪い評判ばかりだった蘇我馬子が、最近の歴史研究で政治家としての評価が見直されてきています。そのため、飛鳥大仏が今後国宝になる可能性もあると私は思います。

   ・まとめて言いますと、飛鳥寺跡(法興寺跡)および飛鳥大仏は、日本の宗教歴史、諸外国との交流、建築技術の導入などに関するものとして歴史的価値が非常に高いと言えます。

   *参考情報・・・拙著(朝皇龍古氏との共著本)『対談:ほんとうはどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』の「第五章 法興寺(飛鳥寺)は蘇我氏の寺か?」に朝皇氏の見解が詳しく述べられています。

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2026年7月11日 (土)

「飛鳥・藤原の宮都」で私のお気に入り

●世界遺産登録が有力視される「飛鳥・藤原の宮都」

   ・奈良県内の飛鳥時代の遺跡群、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」について、この7月に世界遺産に登録されることが有力視されています。

   ・このことは奈良に住む者として嬉しいことです。しかし、最近のテレビなどの報道で「世界遺産に登録される見通しの飛鳥・藤原の宮都」と紹介されると、ちょっと心配になります。ものごとは最後になるまで分からないのですから、もう少し身を引き締めて登録に向け努力していかなければいけないと思うためです。

●「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」

  ・世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会のWEBサイトによれば、登録を申請している「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、3つのカテゴリーに分けられた19の資産で構成されています。それらを列挙すると次の通りです。

  ・「飛鳥・藤原」の価値(筆者注。登録申請の理由、主題です)・・・「日本国」の形成と成立
    分類1:宮殿・官衙(かんが)跡・・・中央集権国家の形成過程
          飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、酒船石遺跡、藤原宮跡
    分類2:仏教寺院跡・・・・・・・・・・・・国家宗教としての仏教寺院の成立
          飛鳥寺跡、橘寺跡、山田寺跡、川原寺跡、檜隈寺跡、大官大寺跡、本薬師寺跡
    分類3:墳墓・・・・・・・・・・・・・・・・・・律令による墓制の変化
          石舞台古墳、菖蒲池(しょうぶいけ)古墳、牽牛子塚(けんごしづか)古墳、天武・持統天皇陵古墳、中尾山古墳、キトラ古墳、高松塚古墳

●私のお気に入りの場所(or関連資産)

  ・上記の19の関連資産の中から私のお気に入りの資産を歴史の古い順に挙げると次の通りです。

  ・飛鳥寺跡、橘寺跡、石舞台古墳、山田寺跡、藤原宮跡、キトラ古墳、高松塚古墳

  ・なぜこれらの資産が好きなのかについては、次回以降に述べていきます。

●上記以外での魅力的な資産(場所)

   ・世界遺産登録申請の関連資産群には入ってないのですが、「日本国家の形成と成立」という歴史的な事象から考えると、他にも魅力的な資産(場所)があります。それは①向原寺(豊浦宮跡、豊浦寺跡)、②小墾田宮跡(推定地)、③甘樫丘です。

   ・これらについてもなぜ魅力的なのかを、順次書いていきます。

 

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2026年7月 6日 (月)

(改題・新装版)『奈良に誓う』の発刊

●『奈良に誓う』を発刊

  ・私が19年前に出版した本『迦陵頻伽 奈良に誓う』を、この度タイトルを変え、表紙の画像も変更し、改題・新装版『奈良に誓う』として発刊しました(AMAZONにて電子書籍と紙の本を販売)。

  ・「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という言葉が一般に馴染みが薄く、本を手に取って読むのをためらう、という声が聞こえたためです。

  ・確かに、言われてみれば、四季美しい古都の奈良で紡がれる若い男女のラブストーリーに迦陵頻伽という難しい言葉は合っていない、と思うようになりました。そのため、書籍タイトルは『奈良に誓う』だけにして、一冊の本の中にこれまで通り「奈良に誓う」と「萬世同薫」の二つの作品を掲載しました。

●「奈良に誓う」は四季美しい古都・奈良を描いています

   ・「奈良に誓う」の概略内容は次の通りです。

   ・東京で新たに陶器店の運営を任された槇野あずさは、奈良・西ノ京の唐招提寺で弥勒如来に事業の成功を祈った。しかし、その仏様は願いを叶えてくれないのだということを耳にする。

   ・西ノ京からほど近い赤膚焼きの窯元で、あずさは一人の青年に会う。青年の橘貴一は、偶然にもその日あずさが宿泊を予約していた旅館の跡取り息子だった。家業見習いをしながら奈良の魅力を発信している貴一は、あずさに奈良の見どころを紹介し、案内を買って出てくれた。

   ・あずさの陶器店運営は成功するのか。貴一は奈良でどんなことを学んでいくのか。それぞれの仕事や課題に真剣に取り組みながらも、二人は機会を見つけて奈良を巡った。

   ・桜の吉野、国宝・鑑真和上坐像を拝観する唐招提寺の開山忌、奈良公園の夜に灯りが揺らめく燈花会、仏像が燦然と輝く観月讃仏会、東大寺講堂跡の銀杏の黄葉・・・。

●「萬世同薫」は奈良の良さをさらに深く紹介しています

   ・(改題・新装版)『奈良に誓う』の表紙は、緑滴る樹々と輝く木漏れ日の画像です。何故この画像なのか、「萬世同薫」の「第三章 雫」にその答えがあります。

   ・貴一があずさと出会う前、奈良でどんなことを学んでいたかを書きました。それは奈良の良さを深く紹介することになると思ったためです。

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鏡 清澄 著『奈良に誓う』

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